教育を安易に定義付けるから無責任な意見が生まれる

   

教育は自然に発生したものではなく、社会の存続に必要なものとして構築されたものであることは、改めて言うまでもありません。

教育が社会的に構築された概念であるということは、大きく言って二つの観点から説明できます。

一つは、教育とは各時代・各地域・各状況の社会的な文脈の中で、様々な意味内容を含みうる言葉であるという点。

もう一つは、教育は社会の中で、意図的・組織的になされる営みであるという点。

 

教育という言葉の多義性

第一の教育という言葉の多義性について。たとえば近代においては、教育とは人間の内面形成、とりわけ徳性の涵養を中心とする全面教育を意味し、技術や知識を伝える「知育」とは区別されました。(堀尾輝久(1992)『現代教育の思想と構造』岩波書店 p. 9)

現代のもっと卑近な例では、行儀の悪い若者に対して「教育ができていない」という言われ方がされる場合、教育とは明らかに「しつけ」と同義です。(木村元・小玉重夫・船橋一男(2009)『教育学をつかむ』有斐閣p. 18)

同じく「家庭の教育力の低下」といわれる場合も、教育は「しつけ」と同義です。(広田照幸(2003)『教育には何ができないか-教育神話の解体と再生の試み-』春秋社 pp. 155-156)

 

このように教育という言葉は、その意味する内容を、ころころと変えて使われるわけです。ちまたには「教育とは何か」という問いや「本当の教育ってこういうもので~」などという言説をよく見かけます。しかし、そこで使われる教育という言葉が意味する内容をよく注意して見極める必要があります。

 

教育を安易に定義付けるな!

この点で、広田照幸氏は教育の安易な定義づけに対して注意します。広田氏によれば、教育の定義では「教育とはかくあるべき」という期待や願望を定義の中に盛り込むことが多いとのことです。

すると、教育は無条件で「望ましいもの」と見なされます。定義が価値を含むと客観的な分析や考察と主観的な評価の区別がつかなくなります。

また、定義が狭くなり、教育にかかわる多面的な現象の総体をカバーしきれなくもなります。

だから教育の定義がその人の期待や願望を反映したものにとどまっているかぎり、現実の教育をみていく目は曇り、偏る危険性をもつ、と指摘します。(広田照幸(2009)『ヒューマニティーズ教育学』岩波書店 pp. 6-8)

 

広田氏の言に従うならば、一般に「教育的である/ない」と形容される事象や、ある事象を教育と呼ぶ場合とそうでない場合があるのは、「教育とはよいものである」という価値観が既に入り込んでいるからと考えられます。

教育の定義に「価値」を盛り込めば、何を教育と見なすかは、何を価値あるものと考えるかによって違ってきます。そうすれば当然、人・時・場所・状況によって異なってくるし、その結果教育という言葉が膨大な多様性を持つことになります。

この意味で、教育という概念は社会的に構築されたものであるという、冒頭の命題が意味を持つのです。

 

教育とは組織的・意図的な営み

第二点目の組織的・意図的な営みとはなんでしょうか。たとえば『教育思想事典』(2000)の「教育」の項を引くとこんなふうに書いてあります。

「教育の概念の二層性」

意図的計画的教育(組織的教育)と、意図と計画のない教育(非組織的教育)を区別しつつも、語義としては「ヒトに生まれながらには備わっていない能力を身につけさせようとする行為(作用)、またはその結果」

 

同様に、木村・小玉・船橋(2009)でも、教育という言葉の定義の多様性を述べつつも、「教育とは歴史的に規定された子どもの成長への(意図的な)働きかけであり、文化性と社会性を含み持つものである」と定義しています。(前掲書p. 2)。

そして「教えるという行為は歴史的社会的な背景をもってつくりあげられてきたものであるといえる」という(同p. 2)。

また、第一点目で教育の安易な定義づけを警告していた広田氏は、「教育=よいもの」という前提を取り払って、「教育とは誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」と定義しています。

三つの文献のいずれも、教育を意図的なはたらきとみなしています。

さらに広田氏は、個人内部で起こる出来事である学習と、他者に対する働きかけである教育を、明確に区別しています。

教育は他者に対してなされる行為であり、教育がなくとも学習は可能である。また、教育者の意図通りに学習者が学ぶとは限らない。教育が行われても、学習が起こらないこともある。そこで教育を学習に結びつけるための方法の模索が、教育学の展開の本流の一つである、と述べています。(広田照幸(2003)『教育には何ができないか-教育神話の解体と再生の試み-』春秋社 pp. 8-10)

この学習と教育の区別が決定的であると広田氏は言います。つまり、教育が意図的で組織的な営みであるとする最大の根拠が、この学習と教育の区別なのです。

この区別に関しては勝田守一氏も主張することです。学習とは勝田氏によれば「主体が環境との相互作用の中で、もって生まれた刺戟と反応の傾向を土台としながら、適応の努力をくりかえす過程で、習性を変容し、新しい能力を形成する」こととされ、学習にとって教育は必ずしも必要ではありません。

学習のないところに教育はない。これは確実なことだ。教育が発達に干渉し得るのは、学習を媒介にしてなのである。だから、もし見かけが教育の風を装っていても、そこに実質的な、発達に対する影響があるとはかぎらない。

勝田守一(1964)『能力と発達と学習』国土社 pp. 140-141

 

したがって、この組織的・意図的な営みという点で、教育は社会的に構築された概念だといえます。

 

教育は「よいもの」を伝達する。その「よいもの」を吟味する必要がある

さらに関連させて言えば、教育とは、(定義に価値を盛り込まないようにしても)実際には知識であれ道徳であれ「よいもの」を伝達しようとする営みであり(広田(2003) p.16)、何を「よいもの」すなわち価値あるものと決めて、それを伝達するかということは、極めて文化的・社会的な営みです。

価値の問題については、勝田氏はこのように言っています。

私たちは、現代の社会で、面積計算の能力を子どもに育てることを当然のこととしている。その当然さは、数学的能力を、現代社会に生きる人間としてふさわしい水準に育てるという要求から生まれている。

(中略)子どもたちに学習させるという観点から、ある楽曲をとりあげるか、とりあげないか、それをどのような脈絡の中でとりあげるかは、文化という概念の内容にかかわってくる。そうだとすれば、子どもの発達や成長となにを教えるかという問題に即して、どのように科学や文化をとらえるかを追求しなければならない。

(前掲書 pp. 155-156)

 

価値の問題について考慮すべきは、そこで想定される「よいもの」が果たして本当によいのかどうかです。

「よいもの」とは多元性を持つものであるが、子どもに複雑で多元性をもったメッセージを伝えるのは困難であるから、平板な一元的現実像へと縮約されざるをえません。教育はよさの多元性を縮約しがちであると広田氏は主張します。(広田(2003) p. 16)

この点で、私たちは教育者の伝える「よいもの」が妥当かどうか、つねに自己吟味しなければなりません。

あるいは何か教育言説を読む際には、その論者が教育にどのような価値を盛り込んでいるのかを見極めなければなりません。

 

参考文献

現代教育の思想と構造 (同時代ライブラリー)

堀尾 輝久 岩波書店 1992-09-16
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教育学 (ヒューマニティーズ)

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教育思想事典

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