「教育の限界」を見極める




このブログでは、哲学に関する記事を中心に書いていますが、教育にも多少の関心を持っています。

今回のテーマは「教育の限界を見極める」と題しましたが、教育というものをどこまで考えるべきなのかという問題です。

完璧な教え・完璧な指導というものはありません。Aという指導法で理解できる生徒、Bという指導法で理解できる生徒、様々です。

 

教育万能主義

「教育の限界」とは、「教育万能主義」と対比して考えることができます。

教育万能主義とは、広田照幸という教育学者が、青少年問題の文脈で語っています。

広田氏は60年代の非行についての言説にせよ、70年代の青少年の心の内面に注目する言説にせよ、青少年が事件を惹き起こすのは、誰かがどこかで教育の仕方を誤った結果だとされることが多いといいます。

しかしそれは裏を返せば教育さえしっかりしていれば、何でも解決できるという思考を表すものにほかならないと指摘します。

 

青少年問題が『教育の失敗』の結果だとして説明されるようになっていることは、いわば、現代は裏返しの『教育万能主義』あるいは『教育万能神話』とでも呼ぶべきものが議論の根底に存在している、ということを意味している。

広田照幸(2003)『教育には何ができないか-教育神話の解体と再生の試み-』春秋社 p.218

しかし教育万能主義の何でも教育で解決できるという考え方は、必然的に教育による子どもたちの監視や統制、介入の機会を増やすものである。すなわち、一つには青少年を等しく教育によって無害化し、体制内化していこうとする働きとして、望ましい価値を均一に内面化させようとする。もう一つには、問題を抱える子どもを個別に見つける監視システムを作り、初期早期でケア=教育しようとする。

同pp. 224-225

 

教育の限界の認識とは、言い換えれば「教育は何をすべきでないのか?」「教育は何ができないのか?」を認識することです。

教育万能主義は、教育の限界を認識していない、あるいは限界があるという前提を設けない考え方であり、その高邁な理想がかえって教育を非常に抑圧的で支配的なものにしてしまうのです。

 

無責任な「教育言説」を斥ける

テレビを観ていると、青少年が事件を起こしたというニュースが毎日のように流れています。

青少年問題は社会問題として、教育学者のみならず、テレビのコメンテーターなど、様々な人びとによって教育問題が議論されます。

そこで教育万能主義や、あるべき教育・教育改革などが取りざたされるのですが、このような教育に関する議論を、広田氏は「教育言説」と呼びます。

教育言説の特徴

1)あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判するという特徴。

2)理想を掲げていれば、現実的な問題の解決や、過程で生じる副作用については考えなくても、教育について多くを語れるという特徴。

 

これは苅谷剛彦氏の『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1995、p. 215)を、広田氏が引用しながら述べたものです。

広田氏によれば、教育をめぐる議論が混乱といかがわしさに満ちている原因の一つはここにあり、その中では美しい言葉で説かれながらもその実、無責任な議論が幅を利かせています。こうした無責任な教育言説と一線を画すべく、広田氏は教育の限界を見据えるべきだといいます。

彼は教育には「できること」と「できないこと」があり、それを区別すべきであり、「できること」の中には、「してよいこと」と「すべきでないこと」があり、それを区別すべきであると述べます。

これらの区別は普遍的公準から導き出されるべきものではなく、現実の社会のリアルな認識と、これからの社会をどう選ぶかの選択肢とによって、線引きがなされるべきであるといいます。

つまり、教育の限界の認識は、一つには無責任な教育言説を見極めるという実践的意味を持つものと考えられます。

 

教育評価の限界を認識する

教育の限界を認識することの実践的意味はそれだけにとどまりません。

教育の限界の認識は、青少年問題という社会的な文脈においてのみならず、学校内での営み、たとえば教育評価においても役に立つように思われます。

東洋氏は『子どもの能力と教育評価 第2版』(東京大学出版会、2001)の中で次のように述べています。

評価は本来多義的なもので、それを一つのところに落ちつかせるためには、さまざまな恣意的な選択が介入しなければならないということをはっきり認める必要があると言っています(p. 236)。

すなわち、評価の目的によって方法も異なるし、一面的な視点に立たざるを得ないし、客観的な評価というのは本来できないからです。

たとえば何でも到達度評価(絶対評価)にするのは無理であり、到達度評価の行きすぎは、到達するまでの生徒ひとりひとりの道筋・文脈の個人差を無視するものだと指摘します(p. 167)。

なぜなら、そもそも教育という行為そのものが不確定性をもつものだからであり、教師の意図通りに生徒の学習が進むことなどありえないからです。

このことは広田氏の別の著書にも記述があり、教育の不確実性および教育には失敗がつきものであり、誰かの思い通りには決してならないことが述べられています。(広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』岩波書店、2009)

 

今まで教育の限界の認識は、消極的な意義しか述べてきませんでした。しかし、東氏によれば、評価に不確定性が内在していることは、積極的に捉えられるものでもあります。

というのも、不確定だからこそ、見方を変えれば子どものいろいろな面が新しく見えてくるし、親の欲目も成り立つし、子ども自身も自分の気付かない可能性があるかもしれないと思って努力する張り合いも出るからだと述べます。(前掲書p. 237)

教育評価の結果はともすると権威的に受け取られ、また用いられてしまいます。それは教育評価の限界を認識していないから起こりうるものだと言えるでしょう。

教育評価の機能の限界とはすなわち、教育評価は被評価者の一面を恣意的に表したものにすぎないということです。

このことを認識することが、東氏が自身の著作の最後に主張する教育評価のとらえ方を可能にするでしょう。

教育評価とは、子どもについてのよりよい認識を形成するための、また子ども自身の自己認識の形成の参考にするための一要素である。権威者の評価としてではなく協力者としての評価のあり方に目をむけて、人を理解するには、「うかがい知ることのできない深みがたくさんにある」ということを受け入れてかからねばならない。

東洋(2001)『子どもの能力と教育評価 第2版』東京大学出版会 p. 238

参考文献

教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み

広田 照幸 春秋社 2003-01
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大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)

苅谷 剛彦 中央公論社 1995-06-24
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子どもの能力と教育評価 (UP選書)

東 洋 東京大学出版会 2001-09
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