エピクロスの快楽主義の検討(2)




前回に続いて、エピクロスの快楽主義について見ていきたいと思います。

 

エピクロスによる欲望の分類

エピクロスは欲望を3つに分類した上で、「自然な欲望」を悪ではないとしました。[1]

 1.自然かつ必須な欲望

2.自然だが必須ではない欲望

3.自然でも必須でもない欲望

 

われわれは、自然を強制すべきではなくて、自然に服従すべきである。そして、自然に服従する道は、(自然で)必然的な欲望を満たし、自然な(必須でない)欲望も、害にならないかぎりこれを満たし、害になる欲望はこれを厳しく退けることにある。

(『ヴァチカン箴言集(以下VS)』 21)

 

エピクロスは自然に従って生きることを善とします。これはクリュシッポスからのストア派の主張と同じように思えます[2]

しかしストア派は全ての欲望を完全に退けることを自然に従った態度と考えました。この違いはどこから来たのでしょうか。

エピクロスは無苦によって幸福を目指した一方で、ストア派は徳によって幸福を目指したのだと思われます。

 

エピクロスはこの分類によって人間が選択・回避すべき欲望の区別ができるといいます。

区別の基準は人間を身体の健康と心境の平静(アタラクシア)へと導くものかどうかであり、その善悪は快苦によって測られます。

とはいえ、一時の快苦に惑わされず、より大きな快へと導く行為の選択に思慮深くあることが要求されます。享楽的で一時的な快は、やがて苦を招く欲望であると述べています。

このようないつか消える喜びについて、「これから起きる悲しみへの第一歩」とセネカが言ったのは、これと同じ意味と考えられます。[3]

注意すべきは、エピクロスは快を積極的に得るべきとは言っていないことです。

アタラクシアは苦がない状態です人間は苦をなくすために快を求めます。飢えるから食べる、渇くから飲むのであり、飢えてなければもう何かを食べたい欲求は起こりません。

苦がなくなればアタラクシアが達成され、もはや飲食など快を得る行為は必要でなくなる。苦がなく、快も必要でないこの状態を最高とします。

[1] ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』10.127-128

[2] ストア派では人間は生まれつき理性を備えた存在である。よって「理性に従って生きること」が「自然に従って生きること」とみなされた。(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』7.86)

[3] セネカ 『倫理書簡集』 59.2

 

死をも喜びとするエピクロスの思想

苦をなくすことがアタラクシアへの方法ですから、続いて苦とは何か考えなければなりません。しかし、残存資料の中には具体的な苦しみについての記述が見つかりません。

記述から見つかる部分として特筆すべきなのは、エピクロスの理想とする知者は、自分の生死に関心を持たないそうです。なぜなら知者は生においてはアタラクシアを獲得しており、死については原子の分解とみなしています。

そのいわんとするところは、身体を構成する原子が分解されれば感覚は無くなる。感覚に現れないものは自分には無関係と認識する。知者にとって生は何らの煩いともならず、また死が何か悪いものとも考えない。

よって生きていること自体は苦しみではない。いつか来る死を受け入れ、限りある時間と生命を快適に過ごすことに全力を尽くす、というものです。

 

「亡くなった友人の回想は知者にとっては喜びとなる」

「亡くなった友人の思い出は快である」

 

これらの言葉には他者の死をも、ある種の快とする積極的な姿勢が表れています。

エピクロスは死を原子の分解としました。分解された原子は感覚をもたないから、死に苦しみを感じることはない。こうして死への恐怖から人間を解放させようと試みたのです。