マルコムXと公民権運動(2)

      2016/12/20

アメリカで起こった公民権運動は、キング牧師を中心とするバス・ボイコット運動を発端とした人種差別反対運動でした。

公民権運動自体は、キング牧師を中心とするグループの活躍が大きなものでしたが、運動以前に黒人たちが行動する意識の基盤を形成するのに、宗教の果たした役割は大きなものでした。それはプロテスタント系のキリスト教グループだけではなく、アメリカで大きくなっていたNOI(Nation of Islam)を中心とするイスラム教系の宗教団体が果たした役割もまた、非常に大なるものでした。

そのイスラム教系の宗教団体の代表人物であるマルコムXの生涯について、これまで何回か追っていました。

今回は政治的な運動を是とせず公民権運動に参加しなかったNOI(Nation of Islam)に対して、マルコムが袂を分かつところから追っていきます。

 

NOIを去るマルコム

(前回書いたものと多少重複しますが、再度書きます。)

1960年代に入ると、公民権運動はキングを中心にますます盛んになってきますが、NOIは教祖であるイライジャ・ムハマドが、運動への参加を禁止していました。行動派で政治感覚に優れたマルコムは、NOIの非政治的な態度に不満を募らせていました。

そんななか1963年にケネディ暗殺事件が起こります。以前から新たな黒人の宗教的指導者として世の注目を集めていたマルコムXは事件の取材に対して、”John F Kennedy was a case of chickens coming home to roost.”と答えました。マルコムの意図としては、「アメリカ社会に満ち満ちた憎しみが、白人にも跳ね返ってきてしまった」というような言葉だったそうです。しかし「人を呪わば穴二つ」などというニュアンスのある表現だったので、これはマルコムの失言として世間・マスコミに叩かれてしまいました。

NOIはマルコムの政治的な動きを以前から懸念しており、政治的発言を控えるよう釘を刺していました。にも関わらずマルコムは政治的発言で「炎上」させてしまいました。これを受け、NOIはマルコムを活動禁止の処分にしました。ところがマルコムは上等と言わんばかりに、非政治的な態度を堅持するNOIから去ることになりました。

 

キング牧師との接触

NOIを去ったマルコムは、1964年3月、ワシントンでキング牧師との接触を果たします。以前から2人はお互いの存在を意識し合っていました。しかしながら、この時は一分程度しか話す時間がありませんでした。

マルコムは、積極的な非暴力的政治活動を展開するキング牧師を、他方でキング牧師は暴力を否定しない人種差別撤廃運動を主張するマルコムを注意しあっていたのだと思われます。

マルコムはNOIに属していた頃には、キング牧師のような白人との融合を目指す黒人を「アンクル・トムのような連中」と侮蔑していた時期もありました。しかし、やがて「無抵抗」と「非暴力の抵抗」の違いについて考え始めたそうです。

他方でキング牧師のほうも、マルコムの暴力も辞さない思想には全面的に否定する立場ではありましたが、マルコムの簡潔で明晰な発言およびそのカリスマ性について、キング牧師も注目しないわけにはいかず、彼に大きな親愛と敬意の念を持っていました。

 

マルコムXの「聖地巡礼」

さて、1964年4月、マルコムはイスラム教の聖地であるメッカへ巡礼することを決め、エジプトのカイロへ発ちます。

イスラム教徒にとっては、メッカ巡礼は一度は果たさなければならない義務です。メッカはイスラム教徒以外は入れない場所であり、ジッダという町で審査を受けることになっていました。しかしこの時、マルコムは正当なイスラム教徒として認められませんでした。NOIはアメリカで発祥した宗教団体であり、まだ正当性を認定されていなかったのです。

困ったマルコムは、ジッダに住むオマール・アッザム博士という人物に連絡をとります。マルコムは聖地巡礼を決めた際、アメリカを発つ以前にジッダに着いたらアッザム博士を頼ることになっていました。アッザム博士は空港に飛んできて、すぐにマルコムを解放するよう指示しました。

マルコムの感じたアッザムの印象は、背が190センチほどあり、がっちりした体格、そしてきわめて洗練された物腰の人物であったそうです。

アメリカなら白人で十分に通るような皮膚の色だが、彼には白人の感じがまるでなかったと述べています。このように肌の色を全く気にしない正統派イスラム教徒の態度に感激し、マルコムは改宗することになる。帰国後マルコムはある取材に対して、自らの心境をこのように述べています。

病と狂気の時は終わりました。私はこれらから自由になったことを非常に嬉しく思います。今は受難の時です。これを乗り越えることができたならば、全ては兄弟愛のおかげでありましょう。この兄弟愛、人類愛こそがアメリカを救う唯一の手段です。それは非常に困難な道だとわかりました。しかし、私は救いの手段を知ったのです。

『マルコムX自伝』より

アメリカ帰国後のマルコム

メッカより帰国後、マルコムはOAAU(アフロ・アメリカン統一機構)を設立します。マルコムはアメリカでの人種問題はアメリカ政府の能力を超えていると考え、世界的・国際的な立場から、黒人独立と人種間平等を目指すようになり、アフリカ訪問を果たします。

しかしNOIはそんなマルコムを危険視し、命を奪おうとしていたのです。

1965年2月5日、マルコムはSNCC(学生非暴力調整委員会)の招きにより、公民権運動のデモをするアラバマ州セルマに赴きます。セルマは公民権運動の中心的な地で、そうしたデモが法律で禁止されていました。この運動を組織したのは当然キング牧師を中心とするメンバーですが、マルコム訪問時にはキング牧師は刑務所に入っていました。

キング牧師が法律を破るデモを行う狙いは「このデモによって多数の逮捕者が出ることにより、警察や刑務所の機能を麻痺させる」というものでした。そのため、多くの黒人は喜んで逮捕され、キングもその1人でした。

 

この時キングの妻コレッタがマルコムと会話をしたそうです。その際マルコムの言葉は次のようなものでした。

「キング博士に知っていただきたいのは、私は何もキング博士の運動を困難にしよう(邪魔しよう)としてセルマに来たわけではないことです。もし白人たちが代わりのものが何かを知ったならば、彼らは博士の言う事にもっと耳を傾けるようになるでしょう。」

『マルコムX自伝』より

 

「代わりのもの」とは非暴力の代わりになるものであり、それは暴力にほかなりません。またマルコムは別の場所で、「白人たちは黒人たちを抑えているキング博士に感謝するべきだ。というのも非暴力の方針に反対する黒人たちもいるのだから。」とも言っています。

1965年2月21日、キングとの対談を2日前に控えたマルコムは、ニューヨークでの講演中にNOIのメンバーによって暗殺されてしまいます。キング牧師は自伝でマルコムについて以下のように言及しています。

「マルコムもまた、社会の人種的不平等、抑圧、非人道的行為により生まれた多くの犠牲者の一人だった。私たちは将来の偉大な指導者となったであろう人物を失ってしまった。」

 

参考にした本

マルコムX著、アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄訳 『マルコムX自伝』 河出書房新社 1993
上坂昇著 『キング牧師とマルコムX』 講談社 1994

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