哲学書を読む人間はバカなのか? 役に立たないと一笑する人がいる

      2017/01/26

 

この記事は、ピピピピピ@プロ社内ニート様のブログ記事のパロディです。(2017年1月26日追記あり)

 

パロディ元のブログ記事

ありがとうございます。

自己啓発書・ビジネス本を読む人間はバカなのか? 役に立たないと一笑する人がいる–ピピピピピの爽やかな日記帳

 

僕の通っていた哲学科の大学院では、唐突に100冊単位で哲学書を購入することがままある。
というのも研究者が講義を開催して、新入生から他大学から来たモグリの研究者まで幅広い対象へ向けて話をする機会が多いから、参考になる部分が1%でもあれば、ということで経費で大量購入しているのだ。

 

こうした哲学書は、ムダに難解、重々しい、ぶ厚すぎ、と酷評されがちなんだけれど、古代ギリシャの時代から2500年間飽きさせずに人を惹き付けるという点で評価すれば、高レベルな商品だと思うんだよね。

だから研究者である僕の指導教官は、90分とかそれくらいの短時間で物事を説明しなくてはならないときなどに、そうした本特有の要点や言語センスを上手いこと引用して利用している。

 

数分でペラ読みして、役立ちそうなページだけ破ってポケットに入れ、残りはゴミ箱に叩きつけることもある。(いやこれはないですごめんなさい。)

勿体ないと思う人もいるかもしれないけれど、文庫本なら1000円程度・専門書で8000円程度・洋書なら30000円程度で1%でも価値のある情報を手に入れられて、それを材料に大学講師のポストを得られる論文を組み立てられたのなら、どう考えても安上がりだ。

 

結論、全ての本は使い方次第。
一つの事柄から連想して新たな可能性を生じさせる創造性がない人が読むのなら、どんな本でも紙切れの娯楽にしかならないというだけの話である。

 

哲学が苦にならないタイプの精神性に生まれてたらガチで知性化して幸せだと思う

 

というツイートを発見したけれど(してない)、知性ゆえに幸せ、というのは短絡的な考え方だよね。
もちろん行儀の悪い哲学研究者の世界だと、浅はかで貧弱で攻撃的な論文を書くことが実績に繋がることもあるから、ゴミ論文作りお疲れ様という感じではあるけれど。

 

というか哲学者の生涯を追いかけていけば、大体ろくなことになっていない。不遇の生涯だ。幸せな人々というのは、哲学なんかには早々に見切りを付けて、コミュ力や適応力がずば抜けていることもあり、総合すると哲学には深入りしなかったけど、頭が良かったりする。

 

プラトン『ゴルギアス』で展開されるカリクレスとソクラテスの対立なんかも、幸せをどう考えるかが問題の核心になっている。プラトンのせいでカリクレスが愚かな悪者の印象があるけど、実際プラトンなんか実人生ではアテナイから逃げたり、奴隷として売られたり、敗北しまくっている。

 

でもそもそもなぜ人間が哲学する必要があるのかといえば、ニーチェとその追従者を除けば、幸せになるためである。ニーチェは「幸福を追求するのはイギリス人だけだ」なんて言ってる。不幸になりたいという夢を掲げるのは、ニーチェみたいな数少ない冷笑主義者だけであり、大方の哲学者は幸せになりたいと思っている。

であるからニーチェを除く世間一般的な人がなによりも獲得したいのは、幸せということになる。そう考えたら、幸せであればあるほど、より哲学的だといえる。幸せな人=知性的なのである。

 

たとえ似たような哲学書ばかり読む単調な日々を過ごしていたとしても、不幸になる可能性のある余分な思考をしない選択をしているのだから、十二分に知的な人間といえる。

 

 論文という成果の出せない知性なんて、単なる妄想。僕は昔から、何の画期的な業績も残していない研究者の、偉そうな講義や評論が大嫌いなんだよね。
 こういう研究者に限って、己を棚上げして、他人を見下しながら、哲学がどうのこうのと語り出す訳だが、とんだ笑いぐさである。

「失業すると家族への暴力6倍」「過去一年間に失業を経験した人は、就労を続けている人と比べて、家族に対する暴力などさまざまなタイプの攻撃行動が6倍も多いことが報告された』と書いてあった(そうだ)。ツイッターの世界には一線を越えた攻撃を仕掛けてくるゴロツキが少々いるのだが、そういう人の情報を探ると無職だったりするんだよね。

 

思えばこの僕も現在進行形で引きこもりニートで、常に漠然とした不安があるんだけど、それを見ないようにして生きていたせいでストレスがそんなにたまらなくて、その結果、ウィトゲンシュタインのシンポジウムでツイッター繋がりの人たちと実際に会って友達になったりしまくっている。楽しくてしょうがなかった。人が余裕をなくしてしまうと、行き着く先は大体似てるんだよね。

 

憂鬱の隣には憎悪がある。僕がむかし会社で働いていたとき、出来損ないの受け皿はストリートファイターかクラシックギターだったけれど、今はツイッターに変わったのだろう。そう考えたら、厄介な人々が生息しているのは当然である。

 

あとがき

後半からパロディ難しくて、ちょっとよくわからなくなってしまいました。

哲学の世界でも、実力ある学者と、ない学者はいます。ルサンチマンに冒された半端な学者もいれば、信じられないほど優秀で良心的な学者もいます。

 

僕の指導教官が「哲学に打ち込むのは、優秀だけどちょっと”間の抜けた”学生だね。本当に頭のいい学生は、哲学は早々に切り上げて、もっと金の儲かることをするよ」なんて言っていたのを思い出しながら、パロってみました。

 

関連記事:哲学書はなぜ難しいのか―幸福の観点から

 

追記(2017年1月26日)

パロディ元であるピピピピピ@プロ社内ニート様より言及頂きました

ブックマーク・Twitterでのコメント、お褒めの言葉をありがとうございます。

勝手にパロディにしたのですが、お許し頂いた寛容さに感謝感謝です。

文章が読みやすくて魅力的なのは、元記事の文章を拝借しているからだと思われます(笑)

1冊3万円することはザラですね……。もっとかかったりします。学問は金にならないのに(特に哲学)、金がかかります。

 

哲学以上に金がかかるのは、例えば法学でしょうか。法律は毎年改正されるので、毎年法律ハンドブックのような資料集を取り揃えねばなりません。もっとも、そうした書籍は大学図書館や研究費で購入(あるいは電子ジャーナル版を契約)しており、個人購入者はほとんどいないかと思います。

論文のたった1行の注釈を書くために、数万円の洋書を買わなければならない、ということもふつうにあります。

金儲けの対極にあることを延々とやれる人は、常人の域を超えるスタートラインに立てたも同じ

そういう観点もあるのだな、と素直に思いました。

 

「論文のたった1行の注釈のために数万円の洋書を購入する」

「論文のたった1行の注釈のために2週間の調査をする」

学者も極まってくると、このようなレベルの正確さ・厳密さが求められます。

特に人文学は、自然科学のように実験データや計測数値といった便利な指標がないので、論理だけで勝負しなければなりません。

しかし同時にその点が、哲学をはじめとする人文学の魅力であると思います。

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