哲学書の原典を読むとは?(プラトンの場合)

      2017/03/01

 

プラトンの作品を読むといって、私たちは何を読んでいるのか?

 

プラトンを読むといって私たちが取っている行動を考えてみよう。

書店へ出かける。哲学コーナーや文庫コーナーに行く。

「プラトンの作品として出版された本」を買ってそれを読む。(岩波文庫とかを手にとる)

 

当然のことだが、私たちが「プラトンを読む」場合、プラトンが直接書いた原稿を参照しているわけではない。

現代の著作家なら書いた原稿をそのまま印刷物として出版できなくはない。

単純に言えば、パソコンで作って、そのデータを印刷すれば、それはある意味で「生原稿」を読めているのだ。

 

プラトンの自筆原稿は残っているのか?

 

残念ながら、プラトンの自筆原稿は残っていない。

というかギリシャ時代のパピルスが残っているのは極めてわずかで、ほとんど奇跡なのだ。

(エジプトの砂漠に埋まってた「オクシリンコス・パピルス」なんていうものもある。)

 

プラトンの作品を書写した「写本」だけが残っている

プラトンの自筆原稿は残っていない。

しかし、プラトン作品で残っている原稿はある。それは「写本」と呼ばれるものである。

要するに、今でいうコピー・重版・増刷だ。

プラトンの作品をみんなが読みたいと思えば、たくさん書き写される。そういう職業ももちろんあった。

 

古代の作品は、書き写し・写本によって読み継がれ、現代にまで伝わってきた。

 

ちなみにプラトン作品が書かれた最古の写本は9世紀または10世紀のものと言われる。

この写本でさえ、プラトンの生きた時代から、もう1500年くらいは経過している。

 

中世の時代に入り、書物を管理・保存し、写本を担当していたのは、教会の僧侶である。

何世代にもわたる写本を繰り返してきたのだから、当然写し間違いは入り込む。

綴り間違い・単語抜け・行間違いはよくあること。

写した人の解釈による変更・脇に書いたメモが本文に入りこむ等々、

考えられないような間違いだってたくさんある。

 

校訂版を読む=「原典を読む」

たくさんの写本を見比べて、プラトンが書いたものにできるかぎり近づけよう――

 

それが文献学の仕事であり、そうしてできあがるのが、校訂版である。

この校訂版をもって、一般に原典ということができる。

大学のゼミでの「原典講読」などといったものは、このような校訂版の作品を読む授業のことだ。

 

プラトン作品では一般にOCT版と言われるものが校訂版である。


【amazon】プラトン校訂版(Oxford Classical Texts)

 

この校訂版には、「本文」と「註解」とが書かれている。

 

註解には、本文で採用しなかったが、写本によっては別の単語を記している。

実際にページを見たほうがわかりやすい。

 

下記のウェブサイトから拝借。

“情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」: 第2部 新常用漢字表と文字コード規格第6回 重複符号化を排除するUnicode正規化と互換漢字

http://internet.watch.impress.co.jp/cda/static/image/2008/09/03/2-6_fig10.jpg

 

大きい文字の羅列が本文。

下にある細かいa2 ***** B: ****** T などと書いてあるのが註解。

aの2行目は、B写本だとエゴードゥーンですが、T写本だとエゴーグ・ウーンです。

というようなことが書かれている。些細な違いから、重大な違いまで並記される。

 

いくつもの写本で、同じ箇所に同じ単語が書かれていれば、それはほぼ間違いなくその単語で合っているだろう。

しかし違った場合は? どちらが正しい? どちらも間違っている? その根拠は?

この根拠づけが、文献学の大変な作業であり、同時に醍醐味でもある。

 

根拠が文法的なものであれば、わりと当事者の解釈が入り込む余地もないが、内容的なものであれば、そこには解釈が入り込む。

だから、校訂版の本文といえども、完ぺきではない。

ちなみに以前のプラトン校訂版はおよそ100年前に作られたもので、最近いろいろな作品で、あたらしいプラトン校訂版が作られつつある。 

 

日本語・翻訳で哲学書(プラトン)を読むということ

さて、校訂版を経て、ようやく各国語版のプラトン作品を読めるわけである。

 

日本語訳プラトン作品は、基本的にこの校訂版(OCT版)を底本として翻訳される。

 

ただし訳者によって、ここの箇所はOCT版の本文通りではなく、註解にあるほうの単語を選んで訳すこともある(翻訳者の解釈)。

その場合、たいてい訳注で明記されているはずである。たとえば「底本ではAABBCCだが、本書ではABABCCと読む」等々。

 

こうして、私たちが哲学と称して語れるプラトンができあがる。単純にいうと以下のようなイメージだ。

 

  • 私たちの頭のなかのプラトン(+読者の誤り・解釈)
  •        ↑
  • 各国語訳プラトン作品(+翻訳者の誤り・解釈)
  •       ↑
  • 校訂版プラトン作品(+校訂者の誤り・解釈)
  •       ↑
  • 写本群(+何十世代にも重なる写本者の誤り・解釈)
  •        ↑
  • プラトン本人?(プラトンの書き間違い?)

 

つまり、私たちが日本語でプラトンを読むとき、このような2500年にわたり幾重にも積み重ねられた誤りや解釈の土台があって、その上にいまプラトンを読んでいる。

ということを、頭の片隅には入れておいてもよいと思う。

 

だからこそ、大学では原典購読の授業があるし、学問研究においてはそれをしなければ仕事ができない。

 

だがこれは何も原典版を読まなければプラトンを語る資格がないとか、そういうことでは一切ない。(そんなこけおどしに屈しないようにしよう。)

 

とはいえ、プラトンについて「おれはわかった」と言えることがいったい可能なのか。

日本語のプラトンだけ読んでいてプラトンを「わかった」と言えるのか。

何か適当に自分の気に入ったところをつみとって「わかった」と言えるのか。

――それはまったくの謎である。

 

しかし、ギリシャ語で読めば「わかる」のかも謎である。

 

参考)写本についての概要はこちら。

内山勝利「ステファヌス版以前以後 『プラトン著作集』伝承史から」

 - ギリシア・ローマ哲学 ,