なぜプラトンは『国家』で魂三部分説を唱えたのか?

      2017/03/01

以前、いわゆる「魂三部分説」の文脈について考察しました。

魂なんて非物質的なものがなんで3つに分かれるんだよ、という疑問に対して、要するに個人の内部での正義の働きについて論じるための取っ掛かりとして、国家を比喩・類比として建設したんだよ、その建設された国家をそのまま魂にとりあえず当てはめたんだ、ということでした。

 

図式としては以下です。

支配者=知恵=魂の一部

守護者=勇気=魂の一部

生産者=節制=魂の一部

 

今回は、ではいわゆる「魂三部分説」という、ぱっと聞いただけでは荒唐無稽な理論が、どうして考え出されたのか、それを考えていきたいと思います。

 

 

さて、これら3つの部分それぞれが自らの分を守り、自らのことをなすように司り、調和や保全の役目を果たすのが正義として語られます。

国家としては、支配者が戦争をしたり労働をしたりすることのないよう、反対に、生産者が戦争をしたり国政にかかずらうことのないよう。それをプラトンは「自らの分を越える」と表現しています。

 

正義の役割が、自らの分を守り、内部の調和を司ることにあるとすれば、反対に不正の役割とは、自らの分を越え、内部の調和を乱すことにあります。

国家や魂の3つの部分が一致協和するのに役立つ行為や欲望が正しく美しい行為である。反対に、魂の調和を乱し、解体させるようなもの(欲望が魂を支配するなど)が不正な行為である、と語られます。

このことから次のことが言えます。ソクラテスたちの議論では、正義の判断基準というものについて、外なるものや外的な行為(より多く取る、欲望の充足)を基準に置くのではなく、むしろ自分の内なる魂の状態、内的な行為(自己自身への専念、魂の配慮)に求めていることになります。

正義とは何か外側にあるものではなく、自己の内側の調和の状態なのだという主張です。

 

さて、正義を心のあり方として規定すると、何が変わってくるのでしょうか。

グラウコンとアデイマントスが提示した正義の論説は、すべて外的な状態、すなわち利益にかかわることでした。利益・不利益というのは基本的に「多い・少ない」という言葉で語られ、「善い・悪い」という言葉では語られません。

つまり、プラトンは、正義についての認識を、外側から内側へ根本的に転倒させたのです。こうして、グラウコンとアデイマントスの挑戦に対して「正義に関する認識を根本から改める」という形で、プラトンが一定の答えを出したということになります。

 

これが魂三部分説の意味です。正義というものは、外側にある何か法律のようなものではありません(普遍的な法律などないため)。

そうではなく、魂の内なる調和である。そのように正義に対する認識をひっくり返すためには、どうしても魂三部分説が必要なのでした。なぜなら、部分がなければ全体の調和ということはありませんから。

 

さて、正義が自己自身のうちにあるものだとすれば、正しい行為とは何かを考える際に自己チェックができるようになるはずです。

たとえば法律が正義であれば、アテナイで正しいことが、よその国では正しくないとされる。そんな事態はいくらでも起こります。

もちろん法律のような外的な正義基準も、ポリスにはもちろん必要です。しかし、「自らの魂の調和を乱す行為は不正である」という主張がありうるとすれば、それは正義として普遍性を持ちうる可能性が出てきます。もっと言えば、普遍的な正義が存在しうるとなると、「世の中正しいことなど何もない」といった相対主義的な主張(これもプロタゴラスに代表されるソフィストの主張です)を打ち破ることもできます。

プラトンはソフィストとの対決を自己の使命としていましたから、正義論においてソフィストの存在は当然意識されていたはずです。

 

したがって、プラトンの正義の定義においては、魂が三部分だという主張が決定的に重要となります。これが言えるか言えないかで、正義の所在(外的なものか内的なものか、多く取るのが正しいか魂の調和が正しいか)が決まってくると言っても過言ではないでしょう。

ただし、たとえば以下の点は依然として問題として残されています。

1.どんな行為が魂の調和を保全し、あるいは乱すのか。それを判断する具体的な基準や知識・知恵。

2.魂が調和している状態が、ギュゲスの指環的な自由(暴露されない不正を行う自由)よりも幸せなことなのか。

(それこそニーチェの批判する、いわゆる「奴隷道徳」ではないのか。)

 

 - ギリシア・ローマ哲学 ,