プラトン『国家』のテーマとは:グラウコンの挑戦に注目せよ!

      2017/03/01

プラトン『国家』はプラトンの主著と目されています。ボリュームも当時の巻物で全10巻。岩波文庫で2冊。『法律』に次ぐ分量です。

テーマとしては「正義について」という副題がつけられています。なのでテーマとは「正義について」です、と答えることもできますけど、それではあまり内容が分かりません。

ここでは国家最大の問題提起となる、いわゆる「グラウコンの挑戦」について詳しく見ていきたいと思います。

 

登場人物ーグラウコンとは誰か

まずは登場人物について。グラウコンとは、登場人物の名前で、プラトンの兄です。

「グラウコンの挑戦」とは、彼がソクラテスに対して「正義は損だ」という言説を退けてほしいと願い出る、一連の主張を指します。

また、長兄のアデイマントスも登場しており、この人物も「グラウコンの挑戦」に続けて「アデイマントスの挑戦」とでも言うべき重大な主張を提起します。

 

以下がプラトン『国家』の登場人物です。wikipediaより引用しました。

『国家』の登場人物
ソクラテス – 39歳-48歳頃。
ケパロス – シケリア島シュラクサイ出身の富豪。ペリクレスの招きでアテナイの外港ペイライエウスで30年間、居留民(非市民)として過ごす。本篇話者のポレマルコス、弁論作家として有名なリュシアス、エウテュデモスの父。
ポレマルコス – ケパロスの長男。リュシアスとエウテュデモスの兄。
トラシュマコス – カルケドン出身の弁論家・ソフィスト。
クレイトポン – アテナイの民主・復古派政治家。
グラウコン – プラトンの兄、アデイマントスの弟。
アデイマントス – プラトン、グラウコンの兄。

国家(対話篇)- Wikipediaより

 

『国家』における国家建設、本論は第二巻のグラウコンとアデイマントスの問題提起から始まります。

さて、『国家』の対話のそもそもの目的は何でしょうか。まとめると以下の2点です。

a) 正義と不正は、それ自体としてどのように働くか。

b) 最も正しい人と、最も不正な人の生涯を見比べて、どちらが幸福であるか。

 

これらの2点を考察することが、『国家』第2巻以降の内容となります。

では正義と不正の考察とは、何を議論するのでしょうか。グラウコンの挑戦では、正義と不正とは「行為に関すること」として考えられています。

 

ちなみに第一巻で登場するソフィストのトラシュマコスは、ソクラテスを相手取って、次のような主張を展開しました。

「正しいこととは、強者の利益になること。そして不正なことこそが自分自身の利益になり、得になるもの」(344c)。

”正義は世にも気高いお人よし・不正は計らいの上手な賢い人”であり、不正を徳と知恵に属する性質として、正義をその反対のものに属する性質として考えるべき(348de)。

この主張から、強者(支配者)となり、好き勝手に不正を行うことが、最も有利な生き方である。独裁僭主のやり方がちょうどこれにあたる。

 

このトラシュマコスの議論を受け継いで語られるのが「グラウコンの挑戦」です。トラシュマコスの主張は、ソクラテスによって退けられましたが、グラウコンは民衆(弱者・お人よし)もひとたび力を得れば、トラシュマコスと同じように独裁僭主的な考えになることを証明してしまいます。

 

グラウコンは自然状態についての議論をソクラテスに持ちかけます。あたかも近代における社会契約論かと見まごう議論に驚きます。

「すべて自然状態にあるものは欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって、ただそれが法の力でむりやりに平等の尊重へと、わきへ逸らされているにすぎない」(359c)

『国家』(藤沢令夫訳、岩波文庫)より

 

上のような考えは、グラウコンによれば支配者のみならず多くの民衆が思っていることでもあり、この人間像はアンティポンらソフィストがよく用いる議論です。

このようにして、民衆と支配者とソフィストとを一まとめにした上で、彼らは「人間は本来、より多くを得ることを望むのであり、正義とは損得の中間的な妥協である」と主張します。

 

 

ノモスとピュシス対立ーギュゲスの指環

この議論には「ノモスとピュシスの対立」という思想背景があります。人間のピュシスとは欲望の充足であって、それが人間の自然本来であり真の姿である。それをノモスが抑え付けている。本来のピュシスからすればノモスは思わく、偽り、弱者の恨みにすぎない。という構図です。

ソフィストの主張によれば、ピュシスが真・善・美であり、ノモスが偽・悪・醜と見なされるのです。

つまりノモスによって規定された「正義」とはまやかしに過ぎない。そして誰しもしたい放題の自由(自然本来の自由)を与えられたら、不正を進んで犯す(=ノモスを進んで破る)と主張しているのです。

 

その決定的証明として「ギュゲスの指輪」の思考実験が語られます。

ギュゲスという羊飼いは、あるとき地震によって開かれた洞窟に入り、青銅の馬をみつけた。馬の体の空洞には金の指輪を付けた死体があった。

この指輪は玉受けを内側に回すと周囲から姿が見えなくなり、外側に回すと見えるようになるという不思議な力をもっていた。

ギュゲスは王に家畜の様子を報告する使者の一人となって宮殿に入り、王妃に近づいて姦通した。それから二人で密謀して王を殺し、王位を簒奪した。ギュゲスは豪富によってギリシャ人によく知られたクロイソス王の先祖である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュゲースの指環

 

もし自分がギュゲスの指環を手に入れたら、どうするだろうか? 不正を犯さない自信があるだろうか?

人間誰しも心の内に僭主的欲望(気付かれなければ不正を犯し、利得を得たい欲望)を持つことが否定できない事実として証明されます。

ギュゲスの指環さえ手に入れば、善人だろうが悪人だろうが、平民だろうが支配者だろうが同じ行動に走るのではないか。

ギュゲスの指環の物語が、人間誰しも「ノモスとピュシスの対立」の思想に心の奥底では支配されていることの証明となります。

 

どうでしょうか。これだけなら「いやいや、おれはギュゲスの指環を手に入れても、警察に届けるし。」と強弁することもできそうです。

じつは、グラウコンの主張はこれだけに留まりません。

 

グラウコンはギュゲスの指環の物語に続けて「完全に正義の人と完全に不正の人」のふたりを想定し、彼らの生涯を描きだします。

しかもその生涯は、「公平」を期すために、「完全に正義の人は不正の人」と見なされ、「完全に不正の人は正義の人」と見なされるように仮定します! そうすれば、「(法廷や、死後に神々によって)罰を受けたくないから、悪いことをしない」という消極的な正義を排除できるから、という徹底ぶりです。

 

さて、グラウコンはふたりの生涯を次のように描きます。

正義の人は、一切を奪われ、磔にされるだろう。その時こそ正義を恨み、正義であることよりも、正義と思われることこそ望むべきであったと悔やむだろう。

他方、不正の人は支配権力をにぎり、一切を思うがままに手に入れられるだろう。

 

それでも正義を弁護できるのか。人間は正義を追求する意義があるのか。

 

これが『国家』で語られる長大な話の発端です。古代ギリシアにして、既に正義についての、とてつもない問題提起がなされています。

現代の正義といえば、正義や公平を既によいものとして前提した上で、「無知のヴェール」のようなことを議論しています。

それに比べれば、プラトンの問題意識は、現代の正義論を遥かに凌駕する地点にあると思われます。

 - ギリシア・ローマ哲学 ,