マタイとルカの福音書で山上の説教を比較してみてわかること

イエスキリスト山上の垂訓カール・ハインリッヒ・ブロッホ画




山上の垂訓として知られるマタイ福音書のイエスの言葉。

新約聖書におけるもっとも有名な一節であるこの箇所は、ルカ福音書での対応箇所と比較するとおもしろい。

山上の説教、マタイとルカとの違い

以下引用は『口語訳聖書』(1954年)より。

 

マタイ福音書 第5章

5:1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

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ルカ福音書 第6章

6:20そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
   あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
6:21あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。
   あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
6:22人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。
   あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

 

精神性・受動性を重視するマタイ&物質性・主体性を重視するルカ

マタイにおける「心の貧しい」は、直訳すると「霊において貧しい」。そして「霊において」という一語は、マタイ福音書の解釈的付加。

ルカでは単に「貧しい人たち」と言われている。ルカでは物質的・経済的な貧しさを想定できるが、マタイでは精神的・観念的な貧しさに変わっている。

また、ルカにおける「飢えるもの」が、マタイにおいて「義に飢え渇くもの」に変わっている。ここでも物質性と精神性の対比が顕著。

さらにマタイ福音書はその直後に「あわれみ深い人たち」と書き加える。

 

さらに。

マタイ「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」

ルカ「あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。」

ルカにおける「泣く」「笑う」が、マタイでは「悲しむ」「慰められる」に変更。

ルカでは主体的な動詞の対比だが、マタイでは受動的な動詞の対比になっている。

「半世紀にわたる集団的改竄(かいざん)の努力がマタイ福音書に山上の説教という形をとって定着する。」

「「飢える者」と並べた時に、貧しさは具体的な貧困の問題としてとらえられる。「泣く者」と並べられる時、貧しさは社会的抑圧としてとらえられる。」

出典:田川建三『宗教とは何か(下)マタイ福音書によせて』

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「貧しい人たちは、幸いである」の背景

「貧しい人たちは、さいわいである」という記述は、本来は「幸い、貧しい者」というふうに動詞がない

「AはBである」の「である」、英語のbe動詞にあたる動詞は、ギリシア語ではほとんどいつも省略される。

 

「幸い、〇〇な者」というレトリックも、旧約聖書・ユダヤ教でよく使用される表現。

  • 申命記33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。
  • 箴言 3:13 知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。
  • 詩篇 1:1 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
  • 詩篇 2:12 すべて主に寄り頼む者はさいわいである。
  • 詩篇 41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。

「貧しい者をかえりみる人はさいわいである」という詩篇の言葉と「貧しい者はさいわいである」というイエスの言葉の対比。「さいわい」なのは誰か。

 

「神の国(天国)はその人のもの」という言葉の衝撃

「神の国」という言葉のコロケーション(連語)として、所有を表す動詞が「神の国」と一緒に使われることは絶対になかった。

「神の国」に対しては「~に入る」または「~が来る」という言い方しかなかった。

それに対して、イエスが放った言葉は「神の国はあなたがたのものである」(ルカ)。