作家を志す学生へのアドバイスとは|夏目漱石「文学者たるべき青年」

      2017/03/01

夏目漱石

漱石が、旧制中学(およそ現在の高校)の学生向け雑誌に寄稿した、「文学者たるべき青年」

作家志望の若者が、どのように学生時代を過ごすべきかという、漱石直々のアドバイスです。

 

青空文庫未収録。新字新かな。( )でルビ。改行多め。

夏目漱石「文学者たる可き青年」

我国に大文学の出るのは次の時代である。即ち今の青年及び之から生れる人とに依って作られるだろうと思う。

今迄は古来の文学を復起しそして西洋文学を模倣するに止まったので、真の日本文学の起るのは何(ど)うしてもこれから後でなければならぬ。

従来に於ける文学者は徳川時代の文学を再興したと云うに過ぎぬので更に何等の特色もなく又大作物も出なかった。そして少し進んだ人々が西洋文学の模倣をした位であるから自家独得の作物がない。

けれどもだんだん進んで行くに従って、日本在来の文学も読み尚西洋の文学も充分咀嚼(そしゃく)し得られる様になれば、在来の文学に大作物としてそれ程尊重す可きもののないことも解り、且(かつ)は西洋のものと云っても驚く可きものでないことを覚(さと)るだろうから、其時は自分の目も開いて自家独得の考も出て来る。自分で自分の思うことを云って見たくなる。

茲(ここ)にナショナリテーを基礎とした独得の文学が生れるので、それは模敝でもなければ追従でもなく、虚偽の加わらない真の声である。而して現在はその時代の来るのを待って居る準備時代である。

だから今の文学者は将来立つ可き青年の為にその道を拓いて居るので、云わば開墾地の石を運んで茨(いばら)を刈って居ると少しも違わない。自分等も又その考えで将来大文学が興る為に幾らでも其扶(たす)けとなり、何等かの準備となれば、自分のしたことは其目的を達したものとして満足することが出来る。

在来の文学の跡を辿ったら、或は外国文学の模倣をしようとは決して思わない。只自分等のした事が来る可き時代の準備となればいいのである。

然し将来興る可き文学は何んなものかと云うことは断言出来ぬので、それは随分六ヶ敷い(むずかしい)問題である。

露西亜(ロシア)の如く圧制された国民の文学は自ら沈鬱(ちんうつ)になり、英国の如く形式的な国の文学は何処迄も表面は気の利いたものになる。また仏蘭西(フランス)の如きは其文学も自然露骨であるが、すベて文学は其国(そのくに)のナショナリテーが現れるので、我国の文学にも亦(また)それが現れるであろう。

 

要するに、新時代を作る可き人々は今の青年である。今の青年に依って我国に於ける将来の大文学は生れるのだから、最も有望なるものは今の青年で自ら其責任も重大である。

されば将来の文壇に立つ可き人即ち今の青年は充分なる修養を要することは云う迄もないが、新時代の文学者たるに最も必要なる資格は何であるか、そして如何なる方面の修養に最も力を尽さねばならぬかを研究するのは、将来文学者たらんとする青年の極めて慎重なる態度を以てす可き問題であろうと思う。

若(も)し人が自分に向って将来文学者たらんとする青年の資格を問うならば、自分は先(ま)ず第一に高くして且(かつ)博(ひろ)い見識を養えと答える。

云う迄もなく文学者として具(そな)えるべき資格、修養す可き事は甚(はなは)だ沢山あるに違いないけれど、見識を養うことは少くとも其中の最も必要なるものの一つである。

評論家にしても創作家にしても従来の様な不見識では到底将来の文学者として立つことは出来ぬので、ものを観察したり批評したりする眼を高く鋭くし、且(かつ)自家独得の博大な識見からものを批判し筆を執って行くにあらざれば新時代の文学者たる資格はないものと云ってよい。

然らば如何にしたら其見識を養うことが出来るかと云うに、之は多少其人の天稟(てんぴん)に依るべけれど或程度迄は平生の心掛及び修養に依って養うことが出来るので、大なる修養は自ら大なる見識を作り得るに違いない。多くの経験も修養である。精緻(せいち)な観察も修養である。深い学問も修養である。

是等は悉く(ことごとく)見識を養う可き修養であるが、其中(きちゅう?)最も捷径(しようけい)は博く学問をすることで、見識なるものの多くは慥(たし)かに学問の力で作り得ることが出来るだろうと思う。

我邦(わがくに)に於ける在来の文学者には無学のものが多かった。従って見識がない。作物も自ら浮薄である。他人の説に依って我主張を動揺させる様な人が多かったから、其作物に真の生命がないのも無理がないので、例えば批評にしても観察にしても描写にしても独得なそして透徹な見地がなかったのである。

唯(ただ)一概に学問がないからだと云うことは出来ないかも知れないが、兎に角見識のないと云うことは学問がなかったからだと云うことに其大部分は帰するので、西洋などには学問のない有名な作家も少くないが、是等は社会的の経歴や其他に依って学問以上の学問をして居る。

たとえばゴルキー(ゴーリキー)の如き人は慥かに其一人で、彼は更に学校に於ける教育を受けず又書斎に於ける勉強もしなかったけれど、彼は社会を直(ただ)ちに大学校として人以上の勉強をし、そして又充分なる見識をも養い得たのである。又英国や仏蘭西や独逸の如き国に在っては、一般の国状が進歩して居る為に、我国の様に特殊な学校の教育は受けなくとも、普通の生活が既に普通の教育を受け得られる様な国には、学問をしない人の中にも立派な見識のある作家を出すことが出来るので、是等は全く其国の文明の程度に依るのである。

社会的閲歴或は経験と云っても之に依って充分立派な見識を作り得られる程の閲歴や経験は中々一通りでは出来ないのだから、先ず博く学問するのが見識を養うに最も捷径である。

(明治39年11月1日『中学雑誌』)

 

まとめ:作家になりたきゃ勉強しろ

要旨は以下の通りです。

  • 今(明治39年)は日本文学の準備の時代だ。
  • 日本に固有の大文学を生むのは今の学生の世代(およそ明治20年以降生まれ)だ。
  • 文学を志すなら学問を深めて広く見識を養え。多少は才能も関わるが、修養(努力)で大部分カバーできる。
  • 無学だと作品も批評も軽薄で、人まねになってオリジナリティが出ない。
  • 学問がなくても人生経験で補えるが、人生経験は簡単にできないから、やっぱり勉強しよう。

漱石もなんだかんだでこの時期(明治39年)から、あと10年で没してしまう。

自分たちの世代が、将来の世代のための梅雨払いであると考えているのはおもしろいですね。 

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