ストア派の運命論を考察2―決定論との関係




前回記事の続き。ストア派の運命愛について考察しています。

前回記事の内容を一言で、「運命を愛する」という後期ストア哲学者に見られる思想があり、それは初期ストア派の思想とは異なるものであって、運命愛なるものはストア派的な思想ではないとする意見があったりする

前回記事:ストア派は「やせ我慢」ではない

 

ストア派による運命の定義

はっきりした定義は以下のとおり。

(ストア哲学者の主張によれば、)すべてのことは運命に従って生じる。運命とは存在するものの原因が系列をなして連続していることであり、あるいは世界がそれに従って導かれる理法(ロゴス)のことである。(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』7.149)

 

要するに万物は因果関係に支配されているという考えですね。そこから生まれるのが決定論・宿命論。神が運命を定めているなら決定論は避けられないという見解が自然と出てきます。

決定論の問題とは、運命が完全に決定されているならば人間が善悪を区別し、意志による自由な選択はできず、善悪の選択が発生しないという点。したがって、そもそも徳や倫理的行為も存在しないという点。ストア派といえば徳なのに、決定論だったら徳も何もないだろうという、なかなか根本的な批判のようにも思えます。

決定論の問題は初期ストア派からありました。(「運命論」と「運命愛の思想」は区別する必要があります。)

 

 

「怠惰な議論」

決定論の問題について、キケロが、初期ストア派のクリュシッポスの学説を紹介してくれています。

クリュシッポスは決定論については反対しています。どう反対したかと言うと、「怠惰な議論」というものを反駁することによって決定論を退けたのです。「怠惰な議論」とは、「それに従うならわれわれは人生において何も行為しなくなるだろう」という帰結を導くことになります。

実際キケロの一節を見ておきましょう。

もし、病気から回復することがきみに運命付けられているのならば、医者を呼ぼうと呼ぶまいと、きみは回復するだろう。

しかし、病気から回復しないことがきみに運命付けられているのならば、医者を呼ぼうと呼ぶまいと、きみは回復しないだろう。

ところで、病気から回復することか回復しないことかのいずれかが、きみに運命付けられている。

よって、きみが医者を呼ぶことは無駄である。(キケロ『運命について』28-9)

ちょっとおもしろいですね。じつに「怠惰な議論」だなあ。

さてこれでは「怠惰な議論」が結構優勢のようにも思えますね。どうやって反論しますか。

クリュシッポスは別の例を出すことによって「怠惰な議論」への反論を試みました。こちらです。

もし、子をなすことがきみに運命付けられているのならば、異性と交わろうと交わらなかろうと、きみは子をなすだろう。

よってきみが異性と交わることは無駄である。

 

ストア派3代目学頭クリュシッポス、伊達じゃありませんね。

キケロによれば「子をなす」ことは、「異性と性交する」こととは別に「単独のこと」として運命付けられているのではなく、共に「連結したこと」と言われています。

このような例をもとに、クリュシッポスは「多くのことはわれわれが欲すること、それらのことに大きな熱意と努力を傾けることと共に運命付けられているのであるから、それらのことなくしては生じ得ない」と論じています。

 

なんだか怠惰な議論の反駁はすっきりしてるのに、後の解説でよく分からなくなっていますね。

要するに「運命は行動とセットになっていという理屈を何とか主張したいのでしょう。

 

おわりに

余談ですが、ギリシア哲学史のおもしろさはこの辺りにあります。何とか理屈をつけて、自分の主張したいことを展開するという点。そして、別の学派などからの反論を受け、主張を徐々に修正していったりするんですね。

お互いが勝手なことを主張するのではなく、お互いの反論を受けて、自らの主張を訂正していくのです。だから、かなりフェアな議論になっていますし、じっくり流れを追っていけば、じつに建設的な議論をしていると思います。