ストア派の運命論を考察3―エピクテトスの立場

      2017/03/01

 

引き続き、ストア派の運命論を考察しています。

 

これまでのまとめ

その1 ストア派の運命愛って後期に現れた思想であって、初期ストア派とは関係ないよ。

その2 初期ストア派のクリュシッポスは、とりあえず決定論については反対しているよ。

今回は後期ストア哲学者のエピクテトスの考えを見ていきたいと思います。

 

前回記事:ストア派の運命論を考察2―決定論との関係

 

エピクテトスの立場

ストア派第3代学頭クリュシッポスと同様、エピクテトスも決定論に反対し、人間の善悪の本質を選択意志(プロアイレシス)として捉えています。つまりあらゆる善悪を選ぶのは自分自身の判断と意思であると言っています。

善の本質はある種の選択意志であり、悪の本質もある種の選択意志である。それでは外的なものは何であるか。

それらは選択意志にとってそれらを扱うことで自らの善や悪を獲得できる材料である。(『語録』1.29.1-2)

 

健康や富や評判のような外的なものは善悪と無関係であり、それらをいかに扱うかに善悪が存在する。また人間の意志の自由が存在する。ということでしょうか。

さらにエピクテトスは、クリュシッポスの議論を引いて以下のように言います。再びクリュシッポス登場です。

クリュシッポスがうまく言っているように、(物事の)成り行きがわからない限り、私はいつも自然に即したことを得るためによりふさわしいことに従うだろう。神自身が、私がそれを選ぶように創ったのだから。

しかしもし病気になることが私に運命付けられているのを知ったならば、私はそのことに向かって意欲すらするだろう。

なぜなら足ですら、仮に心を持っていたならば、泥で汚れることに向かって意欲するだろうから。(『語録』2.6.9-10)

 

前回記事でもありましたが、足の例えが好きなエピクテトスです。エピクテトスは奴隷の出身で、主人から足を打たれて片足を悪くしてしまったというエピソードがあります。だから足足言っているのだと思われます。

 

さて、人生の成り行きや運命が、先のわからないものである限り、エピクテトスは「善悪無記のもの(外的なもの)の使用は善悪無記でないのだから注意深くなければならない」と語ります。(『語録』2.5.7)

またエピクテトスは、自然に即したこと(例えば健康を保つこと)を「大きな熱意と努力を傾けて」全力で獲得しなければならないとも言います。

しかし、いかに健康に配慮しても病気になることはあるでしょう。その際、病気に意欲すらするのが運命愛の態度であるというわけです。

 

(やせ我慢だろ・・・。)

 

ともあれ、この態度は神(ロゴス)の摂理が存在し、世界は神の計画のもとに進行する、という目的論的世界観を前提にしなければ成り立たないものです。

病気は自分個人にとっては自然にかなっていない状態に見えるが、神が悪を意図するはずがないから世界全体の進行にとっては善である、というオプティミズムな態度が運命愛です。

 

何か外的なものが自然に即しているとか反しているとかはどうして言えるのか。

それはあたかもわれわれが絶対的であるかのように思う場合だ。

足にとっては清潔であることが自然に即していると私は言うが、もしきみが足を足として、絶対的でないものとして考えるならば、それは泥の中に入ることも、いばらを踏むことも、時には全身のために切断されることも自然にかなったことだから。(『語録』2.5.24-6)

 

はい、また足です。「エピクテトスにおける足の主題について」とかいって「シェイクスピアにおける幽霊の主題」みたいな文学的な研究ができそうですね。

 

さて、身体の部分は個人のために、個人は社会・国家のために、国家は世界のために、世界は神のためにふさわしいことが存在するという理屈です。

エピクテトスは自らを世界全体の一部として捉えるという考えを述べています。

まとめ

ここで運命論に基き、運命を愛するに至る認識の条件を整理してみましょう。すると大体以下のようになると思います。

 

(a)神(ロゴス)が存在し、世界は神の善なる計画に沿って進行する。

(b)足は個人にふさわしくあるように、個人は国家・世界・自然・神にふさわしくある。部分は全体の調和・発展のためにあるように、個人や社会は宇宙の調和・発展のために活動するのが善である。

(c)全体にふさわしい生き方がわからない限りは、自然に即しているものを獲得するのに全力を注ぐ。ふさわしい生き方を知ったのならば、個人として捉えれば悪であるようでも、全体としては善なのだからむしろ意欲する。

 

以上の議論は、現代のヘレニズム哲学研究者である近藤智彦氏の論文を参考に書き進めています。

近藤氏は論文の結論で「ストア派の運命は、単に忍耐によって平静を得させるものではなく、満足を得させるものとされていた」と述べています。

近藤氏によれば、例えば運命愛の精神で病気を受容するのは、無駄な抵抗をせずに甘受した方が心の平静が保てるという実用的な理由からだけではなく、「宇宙全体のために、あるときは病気になること、早死にすることが相応しい」という確信に基づいてのことだ、と述べています。(近藤智彦「「運命愛」はストア的か?」『思想』2005年3月号所収、岩波書店、143頁)。

 

ストア派の人々は、なぜこんな確信が持てるのでしょうか。こんな確信は、単なる思い込み・単なるオプティミズムと嘲笑されても仕方ないような気もします。しかし卑しくも哲学であるならば、これらは私たちにも理解しうる合理的な論理に基づいていなければなりません。

おそらくストア派の人々は、こうした運命を愛する思想(不動心)を一挙に獲得しうるとは、考えていませんでした。(それではカルトに過ぎない。)

むしろ不動心とは、自然の摂理(ロゴス)を知ろうと努める修練によって次第に形成されるものであると考えていたようです。その修練のためにストア派の学問の3部分(論理学・自然学・倫理学)が存在するのだと思われます。

 

 - ギリシア・ローマ哲学 ,