ストア派の学説を概観する:論理学




加藤信朗「ヘレニズムの哲学」を参考に、ストア派の学説についてを概観してみます。
※(服部英次郎、藤沢令夫編『岩波講座哲学16』岩波書店(1968)所収)

 

ストア派の学説は、論理学・自然学・倫理学の3つに大別されます。今回は、論理学について。

 

はじめに

ヘレニズムの時代は古典ギリシアの遺産の継承と変貌の時代である。ポリスの崩壊は個としての人間の存在をあらわにし、行為の問題が哲学の関心の中心を占め、行為が、行為によって実現されるべき超越的価値(究極善)との関連において問われた。人間の存在を個として問うことは、人間の存在を普遍的に問うことである。人間の存在はこの時代において初めて全人類的な基盤において主題化され、ヒューマニズムの基礎がこの時代に求められる。この個と普遍という意味での人間存在への主題的関心が、この時代の精神の基調をなす。この時代は人間を、それに基づいている根拠において問うことによって、来るべきキリスト教世界における形而上学思索への過渡となった。
ヘレニズム時代の哲学は、教義においてアレクサンドロスによる地中海地方の制覇から、ローマによる征服までの哲学とすることもできるが、広義においてはローマ帝政時代の終末にいたるまでを包括するものとすることもできる。

 

ストア哲学とは

創始者はゼノン。薄い衣をまとい、煮焚きしない物を食べ、節欲と堅忍の徳において比類のない力を示したと言われる。それは新しい「生きるための知恵」であり、それによって人が、何ものによっても奪われない幸福を得るための哲学だった。学説の基礎は二代目クレアンテスを経て、三代目クリュシッポスに至って学説の展開をほぼ完了した。前三世紀のストア派を一括して初期ストア派という。
前二世紀においては、パナイティオスとポセイドニオスによって、その学説にいくらか変容を加え、ローマ帝政期にはセネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスという代表者を持つ。

 

初期ストア派の学説

 

(1)哲学とその部門

 「知恵(sophia)とは神事と人事の知識である。哲学(philosophia)はそれに要する技術の習練である。」

神事と人事の知識とは、それらが「いかにあるか」ではなく、それらを「いかになすか」の知識である。それゆえ、ストア派において知恵(sophia)とは、あらゆる事柄を正しく処する知識である。知恵は観想的なものではなく、実践的なものとして考えられている。知恵は「生きる術(ars vivendi)」である。この知恵を所有するものが賢者(sophos)である
哲学は論理学、倫理学、自然学の三部門に分かれる。これらの三部門はそれぞれ独立に成立する学問の部門ではなく、一つの知恵の習得に位置づけられた要素である。ことば(論理)の能力を持つものは、同時に自然の本性(神)を知るものであり、また自然の理法に従って行為しうる有徳の人でなければならない。したがって、三部門は全部一緒にしてのみ習得されうる。

 

(2)論理学

ストア派における論理学では表現と論理を扱い、弁論術(rheetorikee)と弁証術(dialektikee)に分かれる。前者は「よく語る知識、思想内容を展開・叙述する知識」である。後者は「真と偽と、真でも偽でもないものを、問と答のうちに見分ける知識」である。論理学は言葉の使用を正しくし、人間の存在を完成することを目的とする。「よく語るもの」はまた「正しく語るもの」であり、すべてのことについてよく語り正しく語るものが賢者にほかならない。

 

(2.1)弁証術

「真と偽と、真でも偽でもないものを見分ける知識が弁証術」と定義される。弁証術が与えるものは、事物を誤らずに把握する知識(エピステーメー)である。知識は能力(徳・アレテー)である。

 

(2.2)言語と意味

言語においては「言い表すもの」と「言い表されるもの」が区別される。前者は音声であり、後者は意味内容である。これに意味内容を通じて指示された外的対象を加えることもある。これら三者は互いに関連しあっているが、音声と外的対象が物体的なものであるのに対して、意味内容は非物体的なものである。たとえばDioonという音声は物体である空気のある種の振動であり、支持された外的対象は個的実在としてのDioonその人である。対してDioonという言葉の持つ意味は非物体的なものである。これを「レクトン(lekton、言表内容)」と名付けた。これだけが真または偽である。

 

(2.3)レクトン(形式論理学)

レクトンとは第一には文によって言い表されるものを意味し、これを「十全な」レクトンという。これに反して単独に表出された語によって言い表されるものは「不十全な」レクトンという。ここにストア派の論理学が名辞論理学としてではなく、命題論理学として展開する基礎が置かれた。
ストア派はカテゴリーの数を、基体(hupokeimenon)、性質(poion)、状態(poos echon)、関係状態(pros ti poos echon)の四つとした。基体は事物そのもの(ousia)であり、性質は事物の恒常的な規定、状態は事物の一時的な規定、関係状態は事物が一時的に他の事物との関係においてもつ規定である。これらは言表が言表によって指示されている外的事物に関わる関わりあいの類別と言える。アリストテレスのカテゴリーと違う点は、個的な実在者が言語的把握によって次第に具体的・個別的に限定されてゆく段階が見て取れることである。すべての言表は実在者である個物に定位され、個物の具体的現実的な存在をその個別的状況において限定するためのものとして把握されている。

 

(2.4)命題

十全なレクトンには命題と質問と問求その他の形が含まれる。このうち、命題だけが「真か偽かのいずれかであり、他は真でも偽でもないもの」である。命題は単純命題と複合命題に分かれた、命題相互間の一致と不一致の関係が探求される。この関係に従って論理的手続きが遂行される。命題と命題を結合する形式は

1.条件辞「もし……ならば」――「もし昼なら、光がある」
2.帰結辞「……であるから」――「昼であるから、光がある」
3.連言辞「かつ」――「昼であり、かつ光がある」
4.選言辞「もしくは」――「昼であるか、もしくは、夜である」
5.原因辞「という理由で」――「昼であるという理由で光がある」
6.比較辞「よりは」――「夜であるよりは、昼である」

 

これら種々の結合によって複合命題がつくられる。ここで追求されている命題間の相互関係が、特殊な事実命題相互間の形式的な一致不一致の関係として追求されている。論理(ロゴス)とはここでは、相互に一致調和する事実命題によって作られている全体的連関の総合的把握である。これがストア派の意図する事物の全体的把握(自然の把握)である。ここにおいて、「真なる命題からは真なる命題が、偽なる命題からは偽なる命題と真なる命題が帰結する」という命題関係の基本的な規則が重要性をもつ。真なる総合的認識(知恵)の獲得のためには、最初の真なる命題がどこで獲得されるかが問題になる。こうして最初の真偽を見分ける規準(kanoon)論として、認識論が成立する。

 

(2.5)真理の規準(認識論)

真理認識の基礎は直覚的把握(kataleepsis)である。それは個々の事象を直覚的に把握する直覚的想念(kataleeptikee phantasia)を同意承認(sunkatathesis)することである。(例「いま私は対話している」「いま昼である」というような個々の事象の直覚的把握。)
直覚的把握はまず知覚(aistheesis)によって与えられる。「黒いものがある」という命題的に把握される想念への承認として知覚が成立する。すべての知覚は判断を含む限りで知覚となり、判断以前の感覚的受態は知覚ではないとする。それゆえ、知覚は誤りうる。真理の規準は知覚そのものにはない。直覚的想念が与えられるとき、知覚は実在の知覚となる。これに反して、直覚的な実在把握が与えられないとき、それは虚偽の想念であるか、混迷した想念である。直覚的把握のもう一つは理性(ロゴス)によって与えられる。これは論証の帰結に関するもので、神々の存在や予知に関する。

 

(2.6)知識

直覚的把握が揺るがないものとなるとき、知識(episteemee)となる。知識の定義として伝えられる代表的なものは「知識とは、論理(ロゴス)によって覆されることのない、確固たる直覚的把握である」というものである。確固とした直覚的把握に達するには、種々の想念の受容において、その差異を識別し、直覚的想念にのみ承認を与える持続的な力(ヘクシス)が必要である。これが知識と呼ばれる徳であり、賢者のみの所有と言われる。承認が一つの選択として、行為であり、意志の作用を含むからであり、これは認識における意志の協働を認める主意論的な認識説である。論証に依存しない、ある根源的な直覚を意味する。知識とは、現存する実在を直覚的把握として与えられるがままにいつも承認し、受容する堅固さとしての徳である。したがって自然を自然によって与えられるがままに受容することで成立する「自然への一致」にほかならず、自然そのものへの根源的な同意(homologia)の働きである。
このストア派の認識論の大綱はゼノンの用いたとされる「拳」の比喩に表されている。

パーの状態の手を見せて「見えるもの(知覚的想念)とはこういうものだ」と言った。つぎに指を少しだけ内側に曲げて「同意承認とはこういうものだ」と言った。それから指をしっかり曲げて拳を作って「直覚的把握とはこういうものだ」と言った。最後に左手を近づけて拳をしっかりとつかみ、「知識とはこういうものだ、賢者以外の誰もこれをもってはいない」と言った。