宗教は神なき時代のおかげで生き延びている|田川建三『宗教とは何か』




宗教に対して、ろくに考えもせずに毛嫌いするのはどうかと思う。

かといって、宗教に対して妙に理解がある素振りを装うのもどうかと思う。

 

宗教は近代以前には最高の知の形態であった。宗教が医学や科学を兼ねていた。人間の生活の全体を、宗教が支えていた。

現代において、宗教は人間が生活する上での必需品ではなくなった。人は宗教なしで生きられるようになった。

坊主や牧師どもが何を言おうと、これは喜ばしいことである。人間の生活がより自由になったということなのだから。

 

では現代における宗教とは何の意味があるのだろうか?

なぜ未だに宗教は大事だ必要だと、訳の分からないことを言う人間がいるのか?

 

近代における宗教の意味を考えるうえで、田川建三『宗教とは何か』という本は、非常に有益である。

田川建三はこの本の中で、近代の宗教が「合理性・合理主義のアンチテーゼとして、感性という概念を持ち出している」と述べている。

知性に対する感性という枠組みの中で、合理主義的な知性では拾いきれない領域を、宗教がカバーしようとしている。

しかし宗教=感性的な領域と考えることが、すでに近代合理主義の申し子であり、合理主義と共存し、その横暴を支えていると指摘する。

以下はその抜粋である。

 

田川建三「知」を越える知 抜粋

「知」に対して宗教を対置させるのは、実は近代のものの考え方の特色である。近代以前では、むしろ宗教こそが最高の知を与えるものだと考えられたことが多かった。啓蒙主義が出現するまでは、宗教こそが人間の知の最高形態、最も奥深い知、とみなされていたのだ……宗教がこのように(「知性」に対して)「感性」の側に位置づけられるのは、世界史の大きな流れの中では、近代にのみ見られる特殊な視点なのだ。

 

生れたばかりのキリスト教は、ユダヤ教の「知」の権威を克服しようとした。当時のユダヤ教においては、「聖書」(旧約)が知の最高かつ絶対的な形態として固定化されていた……だからこそ、自分を「使徒」と呼んだパウロは、その種の「知」に対して、「霊」の自由な働きを強調したのである。「文字は殺し、霊は生かす」(第二コリントス3.6)。……(ヘレニズム的な「知」)に対してもパウロは、「人間の知」を越えるものとして「福音宣教のおろかさ」を持ち出した(第一コリントス1.23)。……パウロは「知」に対して「おろかさ」を持ち出しているように見えるから、一見、「知性」に対する宗教的「感性」の主張をなしているかの如く思えるが、実はそうではないので、「人間の知」に対して「神の知」を主張しているのである。本来「神の知」であるはずの「宗教知」が、人間の作った宗教的権威によってだめにされたので、もう一度「神の知」を持ち出して、「人間の知」の限界を越えようとしたのだ。

 

けれども、このような「自由な霊」の運動は、どこかで挫折する……それぞれの者がいわば勝手に「霊」を自称する……そうなると、いったい何が本物の霊なのかを見分ける必要にせまられる。だからパウロは、「霊」の働きを整理し、重要なものとそうでないものとを区別して秩序づけようとした(第一コリントス12-14章)。けれども、そのためには、もう一度、秩序づけをするための知的整理を必要とする……もう一度新しい価値基準にのっとった「宗教知」が必要となったのである……そこから直きに、「誤った霊」を排斥する異端排除の精神が、すなわちキリスト教正統主義、教条主義が、生み出されたのは当然の帰結であった。(pp.52-53)

 

西洋の宗教の歴史は、「宗教知」の支配に対して、それを打破しようとする熱狂主義がくり返し出てきては挫折する、という反復の歴史としてとらえることができる。けれどもそこではただの一度も、支配的な勢力の宗教が「知性」と対立する立場に立ったことはなく、いつでも「最高知」の位置を守りぬこうとしていたし、他方、それを打破しようとする「霊」が「感性」と同一視されたことも一度もない。(p.54)

 

結論をくり返すと、近代的な「合理主義」に対して「宗教」を持ち出し、それを「感性」と結びつけ、そこにこそ「人間性」と「宗教」の根源がある、などと主張するのは、宗教の本質とはかかわりないので、それは非常に特殊な近代的なイデオロギーの一表現なのである。宗教にそのようなものを期待する、というところに近代の病根がある。

 

近代になって、知の領域においては宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった、知に関しては、近代科学がそれまで宗教のしめていた位置にとって代った。その結果宗教は逆に、「知」に対立する領域へと逃げ込んだのである……近代科学が「知」の領域を、そしてその対立、克服の課題は「宗教」が担うようになった。近代科学は「知」の領域では宗教にとって代ることに成功したが、かつての宗教のように全人間的な支配の座につくことはできなかったからである。

 

「最高知」の王座を追われた宗教は……うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。近代社会がそういう逃げ場を必要としているからである。近代合理主義の「知」は、その対立物としての「宗教」をかえって必要としたのである。近代合理主義がつきつめられればつきつめられるほど、それでは覆いきれない人間性が痛みはじめる。だからその「逃げ場」の価値が高まる。

 

宗教の方も、(近代合理主義によって)「人間性の深み」という架空の領域を確保してもらうことによって、自分たちは、近代合理主義の横暴がその分を越えて「人間性の深み」にまで踏みこまないように監視しているのだぞ、という自負心を持つことができた……克服さるべきものと克服の課題であるはずのものが助け合って共存しはじめたのである。

 

本当のところ、近代合理主義で割り切ることのできる領域と、そうではない宗教的な「人間性の深み」の領域とを、分けることなどできはしない……近代合理主義の方は、「人間性の深み」という……本当は存在しない虚妄な部分に手をふれなければすべて許され……他方宗教の方は、虚妄の領域において「知性」を批判、克服する「作業」に安住することによって、現実の領域での「合理主義」の横暴を追認する役割を果している。

 

かつての熱狂主義は、それなりに人間のすべての生活領域に対して根本的に取り組もうとしたから、歴史を動かす勢いがあったが、今の感性主義の「宗教」は、「宗教」のために定められた領域に閉じこもるだけだから、かつての熱狂主義ほどの力はない。

 

近代になって滅びるかと思われた宗教は、こうしてむしろ近代にこそ自分独自の居場所を見つけることができて喜んだ。近代合理主義からこぼれ落ちる非合理の側面にこそ宗教の真理があると思った。けれども……実はその(合理主義の)おこぼれにあずかっているにすぎないのである。

 

宗教が人間の全生活に関わらなければ力は持てない

ときどき、ビジネス誌やら女性誌やらが、瞑想とか座禅とかの特集を組んでいるのを見かける。

こうした記事においては、宗教的な行為にかかわる目的とは「仕事の生産性の向上」とか「メンタルの安定やリラックス」とかであろう。

まさに田川建三氏が指摘した「合理主義の横暴の追認」「近代社会における逃げ場」としての宗教ではないか。

 

まことに現代の宗教というのは、口ばかりで現実の生活にまるで関わろうとしていない。

もう一般的に存在を認められている伝統宗教は、いけないことをしている新興宗教には本気で叩き潰しにいかなければならない。

他方で、「世界を変える」などと意気込んでいる新興宗教は、生ぬるいことをやっていてはいけない。原発事故によって放射能で汚染された地区を祈りによって浄化するとか、待機児童やホームレスを自前の施設で包括的に受け入れるとか、現実の生活の領域にそれくらい深く関わってきてほしいものだ。

売名行為だの偽善だの言われようが、誰も否定できない社会奉仕を行ない続けることではじめて、信頼を得ることができる。

 

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