天璋院篤姫の性格と経歴は?生い立ちやエピソードが面白い




2008年に、女優の宮崎あおいさんが演じた大河ドラマ「篤姫」から篤姫の名前を多くの方が知ることとなりました。

私もこの大河ドラマを見て初めて篤姫を知りました。

宮崎あおいさんが演じたことによって若い方も篤姫の事をもっと知りたい!という方は多いのではないでしょうか?

今回はそんな篤姫について

  • 篤姫の生い立ち、経歴
  • 篤姫の性格
  • 篤姫のおもしろいエピソード

この3点を調べてみました。

調べてみると、篤姫は徳川の存続の危機に立ち向かっていた強い女性であったことが分かりました。

 

天璋院篤姫の生い立ちは?

篤姫は1836年2月5日、薩摩藩一門の家系であった今和泉島津家で誕生します。

篤姫の父、島津忠剛は今和泉島津家の10代当主で、母、お幸は薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫にあたります。

 

1853年、篤姫が17歳の時、従兄であった薩摩藩主の島津斉彬の養女として迎えられ、源篤子と名乗ります。

この頃、将軍であった徳川家定は体が弱く、世継ぎとなる子供もいませんでした。

 

また正室であった、2人の女性が亡くなってしまったため、次の正室を探していたようです。

これまでの徳川将軍の正室の中には島津家出身の女性がいたため、今和泉島津家出身の篤姫が、徳川家定の正室にならないかと声がかけられました。

歴代の正室に同じ島津家出身の女性がいただけで将軍の正室になれるなんてラッキーですよね。

 

天璋院篤姫の経歴は?

ここでは、篤姫の経歴を

  • 大奥での篤姫
  • 天璋院と名乗った篤姫

この2つに分けて篤姫の人生に迫ってみたいと思います。

 

大奥での篤姫の経歴

篤姫は島津斉彬の養女となり正室になるための教育を受けた後、1856年に右大臣、近衛忠煕の養女となり、晴れて同年11月に第13代将軍・徳川家定の正室となりました。

その際、島津斉彬の養女となっていた頃からの教育係である幾島とともに大奥へと入ります。

この大奥とは皆さんドラマや映画などで聞いたことがあるかと思いますが、実際に江戸城にあった正室や将軍家の子供、奥女中たちがいた場所のことを指します。

かの有名な3代将軍徳川家光乳母、春日局によって整備されたとされています。

 

大奥では、多くの身分高い女性たちが集まっていたため、将軍の跡取りや下級奥女中、側室同士の争いなどは多くあったようです。

ドラマや映画で描かれる大奥をイメージしていただくと1番分かりやすいですね。

そんな大奥へ入った篤姫でしたが、なんと1858年に夫、徳川家定が亡くなってしまいます。よって篤姫の1年9ヶ月ととても短い結婚生活は終わりを迎えました。

 

天璋院と名乗った篤姫の経歴

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夫を亡くした篤姫は出家し天璋院と名乗りました。

徳川家定が亡くなった後、徳川家茂が14代将軍となり、皇女・和宮が、家茂の正室となります。

夫を亡くし出家した天璋院篤姫に薩摩藩は帰国を申し出ましたが篤姫は江戸で暮らす事を選びました。

 

新しく14代将軍徳川家茂の正室となった皇族出身の和泉と武家出身の天璋院篤姫は嫁姑の関係であり、不仲であったようです。

しかし徳川家茂が1866年に亡くなり、大奥改革が行われた際は、天璋院篤姫と和泉は共にそれに反対し、1867年に大政奉還がされ、徳川家存続の危機に陥ると、この時も2人は共に徳川の救済に力を注いだそうです。

互いに不仲であったとされますが、徳川に危機が迫ると互いに力を合わせていたんですね。

 

その後、明治維新が行われ、江戸は東京と名前を変えました。

この頃になっても天璋院篤姫は薩摩には戻らず、徳川家の人間として東京で自由気ままな生活を送っていたとされます。

大奥での暮らしは規律も厳しく、女性同士の争いも絶えなかったので、とても楽しい生活だったのではないでしょうか。

 

この時、天璋院篤姫は勝海舟や、不仲であった和泉とよく会っていたそうですよ。

徳川宗家16代の徳川家達には、外国への留学や英才教育などを受けさせていたと記録が残ります。

徳川家達は本来なら将軍となれる人物でした。しかし、長く続いた幕府は崩壊し、明治時代という新しい時代に向き合っていかなければなりません。

そんな徳川家達にどこか似た境遇を天璋院篤姫は抱いたのでしょう。

天璋院篤姫は徳川家達をとても可愛がっていたそうです。

1883年11月13日、天璋院篤姫は脳溢血倒れたとされています。そのまま意識は回復することなく11月20日に49歳で亡くなりました。

 

エピソードから読む天璋院篤姫の人柄と性格は?

大奥にいた篤姫だったので、明治維新後、職を失った大奥関係者たちの就職先や縁組先を探していたそうです。

その際の活動費は実費だったようで、亡き後確認された所持金は現在の6万円ほどしかありませんでした。

また、薩摩藩からの生活費の援助も断っていたそうで、責任感の強い女性であったのではないでしょうか。

他にも、徳川家存続のために西郷隆盛に江戸城への攻撃の中止を歎願する手紙を送るなど行動力のある女性だったようですね。

結婚前には犬をたくさん飼っていたようで愛犬家であったことも分かっています。

 

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まとめ 天璋院篤姫の性格と経歴は?生い立ちやエピソードが面白い

以上、天璋院篤姫について紹介いたしました。

わかりやすくまとめると、

  1. 篤姫は徳川家定の正室になるため、島津斉彬の養女となり、幾島から教育を受けていた。
  2. 晴れて徳川家定の正室となるも、わずか1年9ヶ月で結婚生活は終わり、出家して天璋院篤姫と名乗った。
  3. 和泉とは不仲であったが、互いに徳川の危機に立ち向かっていた。
  4. 明治時代にはいると東京で楽しい生活を送る。
  5. 行動力のある責任感強い女性であった。

 

このような篤姫の性格は、女性としてとっても憧れを抱きますね。

また意外な事に、篤姫が日本で初めてミシンを扱った人物だったようですよ。

しかもそのミシンを篤姫に送ったのは、かの有名なペリーだったそうで驚きですよね。

 

大河ドラマ「篤姫」は宮崎あおいが篤姫を演じられましたが、大河ドラマ「西郷どん」の篤姫役は北川景子さんが演じられました。

どちらもとっても美しい女優さんなので、これを機に、鑑賞されてみてはいかがでしょうか??

 

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