茶々(淀殿)の性格と経歴は?生い立ちやエピソードが面白い




豊臣秀吉は正室の他に多くの側室を迎えていました。

その多くの側室の1人である茶々をあなたはご存知でしょうか?

別名は淀殿と呼ばれ人物です。日本史の教科書などにもよく登場する人物ですね。

そんな豊臣秀吉の側室、茶々は一体どのような女性であったのでしょうか?

そこで今回は

  • 茶々(淀殿)の生い立ちは?
  • 茶々(淀殿)の経歴は?
  • 【エピソード】茶々(淀殿)の性格はどんな人?

 

この3つについて調べてみることにしました。

こちらを読めば茶々(淀殿)の生い立ちや、経歴、またエピソードから分かる性格などを知ることができますよ。ぜひご覧ください。

 

茶々(淀殿)の生い立ちは?

茶々は永禄12年頃に現在の滋賀県、近江で誕生したとされています。

父はかの有名な近江の武将・浅井長政で、母は織田信長の妹である市です。

茶々は三姉妹の長女でした。次女の初、三女の江とは幼少期とても仲が良かったとされています。

この三姉妹の事を浅井三姉妹と呼び、後に浅井三姉妹は豊臣家と徳川家の天下争いに翻弄されることとなります。

茶々の母、市は絶世の美女と呼ばれるほどの美しい女性でしたが、茶々は残念ながら父・浅井長政の容姿を受け継いだようで、そこまで美人ではなかったようです。

 

茶々(淀殿)の経歴は?

茶々の父・浅井長政は、妻の市の兄である織田信長と同盟を結んでいましたが、織田信長と敵対関係となり天正元年におきた姉川の戦いで、父・浅井長政と祖父は命を落とすこことなります。

ここから茶々は戦国の世に翻弄され続けることとなります。

ここでは茶々の経歴を3つに分けてご紹介いたしますね。

  • 母・市の死
  • 豊臣秀吉の側室となる
  • 大阪の陣、茶々の最期

 

母・市の死

父・浅井長政が信長に敗れ命を落とすと、母・市と茶々、妹の初、江は母・市の伯父である織田信包のもとに預けられることとなります。

この間、伊勢安濃津城または尾張清洲城にいたようです。

 

天正10年、明智光秀が本能寺の変を起こし、叔父にあたる織田信長は殺害されてしまいます。

この年には母・市は信長の家臣であった柴田勝家と再婚をし、茶々と妹の初、江は福井県に移り住みます。

しかし、翌年に豊臣秀吉との対立である賤ケ岳の戦いで柴田勝家は敗北を味わいます。

 

この敗北によって、柴田勝家と母・市は茶々、初、江を逃がし自害に至りました。

浅井三姉妹にとって、父を2度亡くすのはとても辛い出来事であったのではないでしょうか。

茶々、初、江の浅井三姉妹はその後、敵であった豊臣秀吉によって保護されることとなります。

 

この時、茶々のお世話係だったのは、亡き母・市の妹であるお犬の方であったとされます。

浅井三姉妹が豊臣秀吉の保護を受けていた時の所在については、未だ判明されていないことが多いようです。

 

豊臣秀吉の側室になる

天正16年、茶々は関白であった豊臣秀吉の側室となりました。

秀吉が茶々を側室に選んだ理由として、秀吉の憧れの女性であった母・市に最も面影が似ていたのが茶々であったため側室に迎えたとされています。

秀吉は、市をとっても気に入っていたとされていますが、市は秀吉のことがあまり好きではなかったようです。

秀吉の側室として大阪城に身を置いた茶々は翌年、第一子である鶴松を生みます。

秀吉は娘の誕生を喜び、茶々を山城淀城から名前をとった「淀の方」と呼ぶようになりました。

一般的に呼ばれる淀殿という名前はここからきていることが分かります。

 

しかし残念な事に2年後、天正19年、娘の鶴松は亡くなってしまいました。

悲しんだ2人ですが、この2年後の文禄2年に息子である豊臣秀頼が誕生します。

 

慶長3年、62歳で秀吉が亡くなると息子の秀頼が豊臣家の後継者となりました。

秀吉が亡くなった際、秀吉の正室であった寧々は剃髪し高台院となりましたが、茶々は剃髪せず、秀頼の後見人として豊臣家の実権を握ります。

秀吉が亡くなると、家臣の石田三成、大谷吉継らと福島正則、徳川家康らが政権を巡って対立を起こします。

 

この対立が原因で慶長5年、関ヶ原の戦いが勃発しました。

西軍の石田三成は秀頼に出陣するよう求めますが、この要求を茶々は拒否し、関ヶ原の戦いでは中立の立場となりました。

関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の寝返りによって西軍は総崩れとなり、徳川家康率いる東軍が勝利を収めます。

西軍の石田三成は処刑となり、その後、徳川家康が大阪城に入りました。

 

大阪の陣、茶々の最期

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大阪城に入った徳川家康を茶々は迎え酒盃を徳川家康に下したとされています。

徳川家康は、関ヶ原の戦いの恩賞を諸大名に与えましたが、豊臣家の領地は大幅に減らされたものとなりました。

 

徳川家康が、大阪城から去ると秀頼は大阪城での実権を握るようになります。

大阪城から去った徳川家康が江戸で幕府を開くと、秀頼に対し臣従を求めました。しかし、この要求を茶々は許さず、もし、徳川家の家臣として秀頼が上京するのなら、秀頼を殺し、自害すると述べたそうです。

茶々の妹、江は、徳川家康の三男である徳川秀忠と文禄4年に再婚しており、慶長8年に2人の間に生まれた千姫が秀頼の正室として迎えられることとなりました。

この時、千姫は7歳、秀頼は11歳であったとされています。

 

文禄6年になると、徳川家康の三男、徳川秀忠が2代将軍となります。

このことによって今後の政権は徳川家が世襲していくことが決定的となりました。

 

これに対して、茶々は激怒します。

怒った茶々でしたが、追い打ちをかけるように、慶長19年に幕府の交渉役であった片桐且元と淀殿の侍女である大蔵卿局の意図解釈の違いがきっかけで、大阪の陣が勃発しました。

茶々は武具を身に着け、武装した女房とともに真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親らの大名を招集しますが、期待したほど多くの大名を集められず、大坂城の本丸への砲撃を受け、徳川家康と1度、講和することとなりました。

しかし、再び徳川家康は大阪城を攻撃し、真田幸村は討死、多くの兵力を失い、慶長20年、茶々は秀頼と共に自害し、この生涯を閉じました。

 

茶々は息子、秀頼を誰よりも大切にし、秀頼のために生涯を全うした女性であったようですね。やはり子を思う母はいつの時代も強い女性なのでしょうか。

 

【エピソード】茶々(淀殿)の性格はどんな人?

茶々は大阪の陣を勃発させ、豊臣家を滅亡に追いやった張本人であることから、悪女と呼ばれることの多い女性です。

戦国大名である浅井長政と織田信長の妹である市から生まれた茶々は、良家のお姫様として育ちました。

しかし、父・浅井長政は叔父にあたる織田信長に殺害され、再婚し、新しい父となった柴田勝家も豊臣秀吉との戦に敗北し、母・市と共に自害してしまいました。

2度も父を亡くした茶々は、母を自害に追い込んだ豊臣秀吉の側室として大阪城に向かいます。

このような壮絶な人生を歩んできた女性ですので、とても気の強い女性であったようですね。

 

また、負けず嫌いな性格でもあったように思えます。

1度、天下統一を果たした豊臣秀吉であったので、秀吉亡き後も、秀吉の息子・秀頼が天下人であらねばならないという考えを常に持っていた女性でした。

今後の政権が徳川家によって世襲されていくことが、何よりも悔しかったのではないでしょうか。

現代のような、平和な時代であれば、茶々は浅井長政、市という良家のお嬢様として生涯を送ることができたことでしょう。

 

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まとめ 茶々(淀殿)の性格と経歴は?生い立ちやエピソードが面白い

以上、茶々の生い立ちや経歴、性格をご紹介いたしました。

茶々について簡単にまとめると

  • 浅井長政と織田信長の妹・市との間に生まれた。
  • 浅井長政、柴田勝家、2度も父を亡くす。
  • 敵である豊臣秀吉の側室となり豊臣秀頼を生む。
  • 秀吉亡き後、徳川家と対立し、大阪の陣が勃発。秀頼と共に自害する。
  • 強気な性格で負けず嫌い

 

悪女と呼ばれる茶々ですが、その人生はとても悲しく壮絶な人生でした。

こうしてみると、豊臣家は茶々の起こした大阪に陣がなければ滅亡しなかったのでは…?と考えてしまいます。

茶々は異常なまでの息子思いだったようですね…。

ちなみに、茶々は美女と称されていた母・市にはあまり似ておらず、そこまで美人ではなかったようです。

 

しかし、大河ドラマでは、「真田丸」で竹内結子さん、「黒田官兵衛」で二階堂ふみさん、「天地人」で深田恭子さんなどの美人女優さんたちが茶々を演じらていたようですよ。

豊臣家を語る上で、茶々は欠かせない存在です。多くの大河ドラマにも登場しているので、1度、茶々に注目して「真田丸」「黒田官兵衛」「天地人」など見返してみてはいかがでしょうか?

以上、「茶々(淀殿)の性格と経歴は?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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