北条政子の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

鎌倉時代

あなたは北条政子をご存知でしょうか。

日本三大悪女の1人として有名な人物です。

  • かの有名な源頼家の正室であり、源頼家亡き後も鎌倉幕府を支えた強い女性でありました。
  • 最近ではNHK大河ドラマ「平清盛」に登場し、女優の杏さんが北条政子を演じられました。
  • そんな北条政子がなぜ、日本三大悪女の1人とされているのでしょうか。

 

そこで今回は北条政子の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • エピソードから分かる性格

 

この3つをご紹介いたします。

これを読めば、日本三大悪女の1人、北条政子の生い立ちや経歴、性格などを知ることができますよ。

 

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北条政子の生い立ちとは?

北条政子は保元2年(1157年)伊豆国の豪族であった北条時政の長女として誕生しました。

  • この頃、二条親政派、藤原信頼と信西が対立した平治の乱があり、この平治の乱に源氏の源頼朝も参加していました。
  • しかし、源頼朝は平治の乱で敗れ、伊豆国へと島流しの刑に処されることとなります。
  • 政子の父・北条時政は伊豆国の在庁官人であったため、流刑にされた源頼朝の監視役を任されていました。

 

ある日、政子の父・北条時政が職務のため京都に向かいます。

監視役であった父・北条時政が京都に行っている間に政子は、源頼朝と出会いを果たし、恋仲になったとされています。

政略結婚ではなく恋愛結婚だったのですね。

 

北条政子の経歴や最後は?

こうして父・北条時政が伊豆国にいない間に源頼朝と恋仲となり、治承元年(1177年)政子が20歳の頃、10歳ほど年上の源頼朝と結婚しました。

しかし、この結婚には父・北条時政や政子の家族は大反対をしたとされています。

  • 当時、平家一門が大活躍した時代でもあった
  • 北条家の家系は平氏の流れを汲んでいた

 

このことから敵である、源氏の源頼朝と、娘の結婚を許すはずがありません。

ですが、最終的には娘の結婚を父・北条時政は認めます。

結婚して間もなくした頃、政子と源頼朝との間に第一子である長女の大姫が誕生しました。

 

治承4年(1180年)後白河天皇の第三王子である以仁王は源頼政と平家打倒の計画をし諸国にいた源氏に挙兵の命令が届きます。

  • 伊豆国にいた夫の源頼朝はこの計画や挙兵に対して、はじめは様子を見ていただけでしたが、
  • 計画がばれ以仁王が殺害されると自身の身に危険を感じ挙兵することとなりました。
  • 石橋山の戦いで政子の兄・北条宗時が亡くなり、源頼朝は惨敗すると父・北条時政とともに安房国へと逃げ込みました。

 

この間、政子は伊豆国で夫・源頼朝の安否を心配していたとされています。

夫・源頼朝は、東国の武士を味方につけることに成功し、鎌倉へと移り住みます。

政子も、ともに鎌倉へと移り、夫・源頼朝が関東を制圧すると政子は御台所と呼ばれるようになりました。

 

将軍の妻として、御台所と呼ばれるも夫・源頼朝を亡くす

御台所と呼ばれるようになった政子は養和2年(1182年)8月、後の2代将軍となる源頼家を出産します。

 

翌年の寿永2年(1183年)夫・源頼朝は対立関係にあった木曽義仲と和睦のために、長女・大姫を義仲の嫡男・義高のもとへと嫁がせました。

この時、長女・大姫はまだ6歳、婚姻関係となった義高は11歳でした。

嫁いだ長女・大姫は義高ととても仲が良かったとされています。

 

しかし、元暦元年(1184年)になると、再び夫・源頼朝と木曽義仲は対立し、源頼朝の弟・源範頼と義経は木曽義仲を滅ぼしたとされています。

  • その後、夫・源頼朝は鎌倉にいた木曽義仲の息子・義高までを殺害しようと企てました。
  • このことを知った源頼朝の長女・大姫は夫の義高を鎌倉から逃しましたが結局、源頼朝の家臣によって義高は殺害されてしまします。
  • 父親である源頼朝によって夫の義高を殺害されてしまった長女・大姫は悲しみのあまり心の病を患ってしまいました。

 

政子は夫の源頼朝が義高を殺害したから長女・大姫が病んでしまったっと源頼朝を責めましたが、長女・大姫の心の病は一向に治る気配はなかったとされています。

 

その後、夫の源頼朝は鎌倉で支持基盤を建てるなど運営に力を注いだとされ元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで、平氏を滅亡に追いやりました。

平家滅亡後、夫・源頼朝は自身の弟である源義経と対立し、のちに奥州で弟・源義経を自害に追い込みます。

政子はその後、夫・源頼朝との間に

  • 文治2年(1186年) 第三子となる次女・三幡
  • 建久3年(1192年) 第四子となる源実朝(後の第三将軍)

 

を授かります。

この数日後に夫・源頼朝は征夷大将軍に任命されます。

長女・大姫は未だ、心の傷は癒えることはなく、見かねた政子は夫・源頼朝の甥である一条高能との縁談を勧めましたが、

亡き夫・義高のことが忘れられず縁談を頑なに拒みました。

 

頑なに縁談を拒む娘に政子は建久6年(1195年)娘を後鳥羽天皇へと入台させようと考えます。

娘の大姫が入台すれば、天皇家との関わりが強くなり、夫・源頼朝も喜ぶであろうと考えたからです。

 

しかし、長女・大姫は建久8年(1197年)に20歳で亡くなってしまったので、この話はなかったこととなりました。

その後も、次女・三幡を入台させようとするも建久10年(1199年)に夫・源頼朝が落馬が原因で亡くなってしまったため、入台することはできませんでした。

 

出家し、尼御台と呼ばれるも、事実上の将軍となる

源頼朝亡き後、第二子である源頼家が家督を継ぎます

政子は出家し尼御台と呼ばれるようになりました。

その2か月後、次女・三幡が14歳の若さで亡くなります。

政子は

  • 長女・大姫
  • 夫・源頼朝
  • 次女・三幡

 

と立て続けに家族を失いました。

 

第二子の源頼家が家督を継ぐも、源頼家はまだ若かったため御家人たちからは多くの反発が生まれます。

  • このような状況の中で、源頼家は有力御家人であった安達景盛の愛妾を奪うといった不祥事までお越し、
  • ますます、御家人たちの反発を招きました。
  • 源頼家は親の七光りだったのですね。

 

しかし、源頼家はそんな反発にお構いなしで、なんと蹴鞠にはまり全く政治活動に参加しませんでした。

  • 建仁3年(1203年)源頼家が病に倒れると、母親である政子は、第三子・源実朝と源頼家の息子・一幡で日本を2つに分けようと、父・北条時政と相談します。
  • これを知った、息子の源頼家が病から回復するとなんと母・政子の実家である北条氏の討伐を命じるも、
  • すでに政権は北条氏が握っていたので、討伐は失敗に終わり、母親である政子によって伊豆の修善寺に幽閉されることとなりました。

 

源頼家の後を継いだのは第四子・源実朝です。

  • このとき、政子の父・北条時政も初代執権に就任しました。
  • 父の妻であった、牧の方は北条時政が初代執権に就任したことから、政権を独占しようと企みます。
  • これを知った政子は、なんと父である北条時政を伊豆国へと追放します。

 

代わりに執権となったのは政子の弟・北条義時でした。

源実朝は兄の源頼家とは違い、教養を備え後鳥羽上皇から非常に気に入られていました。

これに対し御家人たちは不満を持っていたとされます。

 

建保7年(1219年)源実朝は、甥の公暁に暗殺されてしまいました。

このことによって政子の子供、全員が亡くなったことになります。

  • 夫を失い、子まで失った政子でしたが、夫の残した鎌倉幕府で鎌倉殿として努めました。
  • 暗殺されてしまった源実朝は子供がいなかったので、政子は後鳥羽上皇の皇子を次期将軍として迎えることを願っていました。
  • しかし、後鳥羽上皇は皇子を次期将軍にすることを否定したので、政子は摂関家の藤原頼経を次期将軍として迎え入れます。

 

この時、藤原頼経はまだ2歳であったため政子が将軍の代わりとなり「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

 

幕府側と朝廷側の対立で承久の乱が起こる

承久3年(1221年)摂関家出身の藤原頼経を将軍にたてた幕府側と、皇権の回復を願っていた朝廷側が対立関係となります。(承久の乱)

  • 朝廷側が、幕府討伐のため挙兵すると、幕府側の御家人たちに動揺が走ります。
  • この時、動揺する御家人たちに向かって、政子は亡き夫・頼朝公の御恩を称え、源頼朝、源頼家、源実朝に恩を報いるため、朝廷を討て。といった演説を行いました。
  • この演説は「最後の詞」と称され、この演説を聞いた御家人たちは涙を流したそうです。

 

この演説によって奮起した御家人たちは朝廷側を破り、後鳥羽上皇は降伏宣言を行い、隠岐島へと流されました。

その後、政子は

  • 承久の乱の戦後処理
  • 謀反を起こそうとした伊賀の方を伊豆へと島送りする

 

などを行い、嘉禄元年(1225年)69歳で亡くなりました。

 

【エピソード】北条政子の人柄や性格が分かる逸話

北条政子は非常に嫉妬深い女性であったとされています。

北条政子が第二子である源頼家の妊娠中に、夫である源頼朝が妾であった亀の前という女性を非常に愛していました。

  • 現代、妻の妊娠中に夫が別の女性と関わりを持つと不倫や浮気とされてしまいますが、当時は一夫多妻の時代で、
  • 源頼朝も多くの女性と関わりを持っていました。
  • 複数の女性と関わりを持ち、多くの子孫を残すことが一般的であった時代で、政子は、夫・源頼朝が他の女性と関係を持つことを非常に嫌い、許せない行為だと感じていました。

 

そんな嫉妬深い政子は夫・源頼朝の妾である亀の前の屋敷に家臣を襲撃させます。

  • この時、亀の前は伏見広綱の屋敷に住んでいたのですが、政子の怒りは収まらず、伏見広綱まで遠江国へと島流しの刑に処しました。
  • その後、夫の源頼朝は別の女性とも関係を持ちましたが、政子の嫉妬を恐れ、隠れて女性のもとへと通ったとされています。
  • このように嫉妬心の強い女性であったことから、結果的に源頼家、源実朝亡き後、後継者不足となってしまいました。

 

政子は日本三大悪女として有名な女性です。

  • 息子である源頼家を伊豆の修善寺に幽閉させ、
  • 源頼家、源実朝亡き後、源氏の嫡流が途絶えると、
  • 幼き藤原頼経の代わりに将軍となり「尼将軍」と呼ばれるようになり実権を握ります。

 

その後、北条氏の執権は100年以上も続いたとされ、息子を捨てて権力を選んだ女として見られるようになります。

また、承久の乱の際、幕府軍が勝利を収めると、政子は後鳥羽上皇を隠岐島へと島流ししました。

このような理由から、政子は日本三大悪女の1人とされています。

 

しかし、これくらい気の強い性格でなければ鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻は務まらなかったのではないでしょうか。

しかし、『承久記』には悪女とされる政子が、自身の子供が亡くなった時、後追いをしようと考えたと記録されているので、子供への愛情はしっかり持っていたことがわかります。

 

まとめ 北条政子はどんな人?分かりやすいおすすめ作品

以上、北条政子の生い立ちや、経歴、逸話から分かる性格のご紹介でした。

北条政子について簡単にまとめると

  • 源頼朝と恋愛結婚した
  • 鎌倉では御台所と呼ばれる
  • 長女・大姫は心の病にかかる
  • 第二子である源頼家を幽閉させる
  • 第四子である源実朝は暗殺される
  • 尼将軍となる
  • 承久の乱の際「最後の詞」を御家人に演説する
  • 嫉妬深い女性で、悪女として有名な女性であった

 

北条政子が嫉妬深い女性であったとは意外ですね。

そんな北条政子が登場する

  • NHK大河ドラマは「平清盛」

 

です。

この「平清盛」では、

  • 北条政子を杏さん
  • 源頼朝を岡田将生さん
  • 平清盛を松山ケンイチさん

 

が演じられました。

「平清盛」以外の大河ドラマは

  • 1979年に放送された「草燃える」

 

があります。

「草燃える」では北条政子を女優の岩下志麻さんが、源頼朝役を石坂浩二が演じられました。

これを機に、北条政子に興味を持った方は、大河ドラマ「平清盛」「草燃える」を見てみてください。

以上「北条政子の性格と経歴、生い立ちや面白いエピソード」のご紹介でした。

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