北白川宮能久親王の経歴とエピソード、その死因とゆかりの地は?




北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)を知っていますか。最後の輪王寺宮とも言われています。江戸時代末期から明治時代の皇族で、陸軍の軍人でした。

明治維新の新政府に、その存在を隠された皇族の一人です。

今回は北白川宮能久親王について

  • 北白川宮能久親王の経歴とは?
  • 北白川宮能久親王の家系図は?
  • 北白川宮能久親王のエピソードとゆかりの地

 

を紹介します。

こちらを読めば、北白川宮能久親王の経歴や家系図、ゆかりの地やエピソード、人となりが分かります。

幕末や明治維新を見る視点が広がり、歴史をさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。

 

北白川宮能久親王の経歴とは?

北白川宮能久親王は、1847年(弘化4年)4月に、伏見宮邦家親王の第9王子として生まれました。

幕末に活躍した山階宮晃親王久邇宮朝彦親王の弟です。

仁孝天皇の猶子(兄弟・親類などと親子関係を結ぶこと)になっていますので、孝明天皇の義弟明治天皇の義理の叔父にあたります。

北白川宮能久親王の生涯は波乱に満ちたものでした。

六つの時代に分けて紹介します。

  • 上野寛永寺貫主時代
  • 奥羽越列藩同盟盟主時代
  • 謹慎蟄居時代(第一期)
  • プロセイン(後のドイツ帝国)留学時代
  • 謹慎蟄居時代(第二期)
  • 台湾出征と陣没

 

上野寛永寺貫主時代

北白川宮能久親王は、1858年、11歳の時に僧侶となるために出家。

 

1867年に、江戸に下り上野の寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承しました。

  • 上野寛永寺は、徳川家の菩提寺ですが、17世紀半ばから皇族が歴代住職を務めています。
  • また、伽藍には歴代天皇の肖像画が飾られるほど、皇族と徳川家ともに関りの深いお寺です。
  • 寛永寺の貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ、格式と権威を持つ地位でした。

 

皇族と徳川家の親しい関係を示すもう一つの場所が、栃木県日光です。

日光東照宮は、徳川家康を祭った神社として有名ですが、北白川宮能久親王は、輪王寺、東照宮、二荒山神社のある日光山主でした。

 

1868年、戊辰戦争が始まり、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、”朝敵”とされました。

上野寛永寺の貫主であった北白川宮能久親王は、慶喜に乞われ、次の行動を行います。

  • 徳川慶喜の助命と東征中止を東夷大総督・ 有栖川宮熾仁親王(皇女和宮の許嫁だった)に願い出る。
  • 願いを一蹴され、寛永寺へ戻る。
  • 寛永寺は親徳川派の彰義隊の前進基地になっていた。
  • 彰義隊と新政府軍の戦い、上野戦争に巻き込まれる。
  • 上野戦争敗北で、寛永寺を脱出。
  • 幕府海軍の手引きで東北へ逃避。

 

そして、北白川宮能久親王は会津・米沢を経て仙台藩に身を寄せました。

 

奥羽越列藩同盟盟主時代

東北へ入った北白川宮能久親王は、白石城(宮城県白石市)で、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されました。

この時、一説には「東武皇帝」として即位したとも言われていますが、盟主(元首)だったことだけは明らかになっています。

奥羽越列藩同盟は、1868年薩長中心の新政府の侵攻に対抗するために結成されました。

 

陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)・蝦夷地(北海道)・越後国(越州)

  • 現在の東北6県プラス北海道、新潟県】の諸藩が加わり、北白川宮能久親王を盟主としました。
  • 最初は、会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的としていましたが、
  • 赦免嘆願が拒絶された後は、「北日本」として独立することを目的とする同盟へと変化しました。

 

奥羽越列藩同盟は、

  • 盟主:北白川宮能久親王(輪王寺宮)
  • 総督:仙台藩主・伊達慶邦、米沢藩主・上杉斉憲
  • 参謀:小笠原長行、板倉勝静
  • 政策機関:奥羽越公議府(白石)
  • 大本営:軍事局(福島)
  • 最高機関:奥羽越列藩会議

 

という組織でしたが、実際に機能する前に同盟が崩壊したともいわれています。

 

北白川宮能久親王は、1868年7月に奥羽越列藩同盟の盟主となりました。

9月に仙台藩が新政府軍に降伏したことで、北白川宮能久親王も降伏状を提出し、11月から京都で蟄居の身となりました。

 

第一期謹慎蟄居時代

北白川宮能久親王は、実家の伏見宮家で謹慎蟄居生活に入りました。

この時「仁孝天皇の猶子と親王」の身分を解かれる処分も受けています。

1869年9月に処分が解かれ、1870年に伏見宮に復帰しました。

 

この時、明治天皇の命により、僧籍を離れ、俗人に帰る「還俗」を行いました。

  • その後、北白川宮能久親王は、京都から東京へ移住。
  • 12月にプロイセン(後のドイツ帝国)へ留学するまで、明治維新の際に縁故のある有栖川宮熾仁親王の邸に同居することになりました。
  • ドイツ留学中の1972年3月に、弟の北白川宮智成親王が早世し、その遺言で北白川宮家を相続しました。

 

以来、北白川宮能久親王となりました。

 

プロセイン(後のドイツ帝国)留学時代

25歳の北白川宮能久親王は、1872年から1877年まで、ドイツ帝国へ留学しました。

ドイツ語を学んだ後、陸軍大学校で軍事を学びました。

ところが、北白川宮能久親王はまた問題を起こします。

 

1876年、ベルリンでドイツ貴族の未亡人ベルタと許可なく婚約

北白川能久親王は、自らの婚約をドイツの新聞に発表してしまいます。

 

翌1877年、明治政府に結婚の許可を申し出ますが、もちろん許されません。

  • 明治政府の怒りに油を注ぐような行為に、即刻帰国を命じられます。
  • 帰国後、岩倉具視らの説得で、婚約を破棄します。
  • そして、北白川能久親王は、1877年2度目の謹慎蟄居を命じられます。

 

第二期謹慎蟄居時代

今回の謹慎期間は、3ヵ月と短いものでした。

北白川能久親王は、深く反省され陸軍で職務に励みました。

その結果

  • 1878年、維新の時に解かれた「仁孝天皇猶子および親王」への復帰
  • 1884年、陸軍少将に昇格
  • 1892年、陸軍中将に昇格、
  • 1893年、第4師団長に就任

 

を果たしました。

北白川宮能久親王は、多方面で活躍しています。

たとえば、

  • 1883年、群馬県に軍馬育成のための「浅間牧場」を開設
  • 獨独学協会の初代総裁となり、獨独学協会学校設立に尽力
  • 1884年、創設された大日本農会の初代総裁に就任

 

などです。

 

台湾出征と陣没

北白川宮能久親王は1895年、乙未戦争(いつびせんそう)の台湾征討近衛師団長として出征します。

  • 乙未戦争は、日清戦争後、日本に割譲された台湾で起こった戦争です。
  • 日清戦争の残敵掃討戦で、清国の残兵や一部の台湾住民が抵抗しました。
  • 北白川宮能久親王らの活躍で、5月から始まった戦闘は11月には終息し、全島平定を宣言しました。

 

が、1902年までゲリラ的な抵抗が続きました。

南洋の地で、戦闘の時期が雨季と重なったことなどから、日本軍は

  • 赤痢、
  • マラリア、
  • 脚気

 

などの病気にも悩まされました。

  • 北白川宮能久親王は、戦闘が激化した10月、マラリアに罹りました。
  • 台湾全土平定直前の10月28日、台南で48歳で薨去しました。
  • 軍の士気にかかわると考えたのか、その死は秘匿されました。

 

北白川宮能久親王の遺体は日本へ運ばれ、陸軍大将の昇進が発表された後、

薨去が発表され、国葬に付されました。

北白川宮能久親王は、皇族として外地における初めての殉職者でした。

 

終焉の地に、親王を祀った「台南神社」を建立。

  • 台北には「台湾神社」が次々と建立され、台湾各地に60もの神社が存在しました。
  • 第二次世界大戦で日本が敗戦したことにより、これらの神社はすべて破却されました。
  • 現在、北白川宮能久親王は、「靖国神社」と群馬県長野原町北軽井沢の「牧宮神社」にて祀られています。

 

また、台湾苗栗県にある「通霄神社(つうしょうじんじゃ)」は、天照大神と北白川宮能久親王を祀っています。

 

北白川宮能久親王の家系図は?

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北白川宮能久親王の家系図とは?

北白川宮能久親王は、仏門に入っていました。

1869年に還俗し、妻帯することができるようになりました。

北白川宮能久親王はその後、

  • 1876年、留学先のドイツで貴族未亡人との婚約騒動
  • 1878年、旧土佐藩主山内容堂の長女・光子と結婚
  • 1885年、光子妃の病気を理由に離婚
  • 1886年、伯爵伊達崇徳の次女・富子をいったん島津久光の養女とした上で、後室に迎える
  • 1887年、富子妃との間に、北白川宮の継承者となる第三王子成久王を授かりました。

 

北白川宮能久親王は、先室、後室のほかに家女房や外妾など計5人の側室に10人の子を産ませています。

その内、8人までが成人に達しました。

  • 側室:申橋幸子(家女房)

    ○第一王子:竹田宮恒久王 武田宮家を創設、明治天皇第六皇女と昌子内親王結婚    ○第一王女:満子女王 伯爵甘露寺受長

    ○第三王女:武子女王 子爵保科正昭のち香淳皇后女官長

    ○第四王女:信子女王 夭折

 

  • 側室:岩浪稲子(家女房)

    ○第二王子:延久王 夭折

    ○第二王女:貞子女王 伯爵有馬頼寧

    ○第四王子:輝久王 侯爵小松輝久

 

  • 側室:浮山幾牟(家女房)

    ○第五王女:拡子女王 伯爵二荒芳徳

 

  • 側室:申橋カネ(外妾)

    ○第五男子:芳之 伯爵二荒芳之

 

  • 側室:前波栄(外妾)

    ○第六男子:正雄 伯爵上野正雄

 

北白川宮能久親王の第四王子・輝久王は、臣籍降下した際に、

侯爵となり、伯父の小松宮彰仁親王の「小松」の家名が下賜されました。

北白川宮能久親王の突然の薨去後、その外妾だった申橋カネ前波栄が、

芳之正雄が親王の後胤だと名乗り出ました。

宮内省の調査でそれぞれ確認されました。

 

が、すでに北白川宮能久親王は亡くなられ、この両名を認知する遺言書もなかったことから、

親王の子として認知することができません

北白川宮家では、他の庶子と同様に富子妃がこの両名を引き取り、養育することにしました。

1897年、明治天皇はこの両名を特に華族に列して伯爵に叙し、それぞれに「二荒」「上野」の家名を下賜しました。

 

北白川宮能久親王のエピソードとゆかりの地

波乱万丈の生涯を送った北白川宮能久親王ですが、皇族という立場からか、エピソードはあまり伝えられてはいません。

そんな中、北白川宮能久親王の素顔を示す、ちょっとしたエピソードを見つけました。

 

北白川宮能久親王は、群馬県に牧場を開設しましたが、その時の出来事です。

  • 当初は、軍服などを作るための羊を飼う牧場が予定されていました。
  • ところが、群馬県長野原町を視察した親王が「軍馬」を育成する牧場にしたいと伝え、馬の牧場に変更になったと伝えられています。
  • 最初から親王は「軍馬」育成の牧場を考えられていたようです。

 

牡馬1頭、雌馬20頭からスタートした牧場は、日本有数の牧場となり、多くの名馬を飼育しました。

北白川宮能久親王にとって、牧場のある長野原町北軽井沢は思い入れの強い場所でした。

  • 家系図の中で触れた、第五男子・芳之伯爵は、親王の信任が厚かった牧場の主事(事務長)・黒巌有哉氏に預けられ、
  • 3歳から6歳まで長野原町で過ごされました。
  • わずかな期間通った応桑村小学校(現:長野原町立応桑小学校)には、北白川宮のご紋章が残されています。

 

北白川宮能久親王ゆかりの地

  • 上野寛永寺

北白川宮能久親王が貫主を務めていた当時の上野寛永寺は、新政府軍の攻撃でほとんどの伽藍が焼けてしまいました。

現在の寛永寺は、1875年に再発足したもので、川越の喜多院の本地堂を移築して本堂として、復興しました。

第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の多くが焼失しました。

 

  • 輪王寺

栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院です。

北白川宮能久親王は、輪王寺のある日光山主でもありました。

日光には、たびたび訪れていたようで、この地から側室も迎えています。

2007年から2018年まで「平成の大修理」という三仏堂の大規模な修理が行われました。

日光山内の東照宮、二荒山神社も、親王ゆかりの場所です。

 

  • 白石城

宮城県白石市にあった城です。

仙台藩伊達氏の支城として用いられていました。

北白川宮能久親王は、奥羽越列藩同盟の盟主として、入城しました。

明治初頭の廃城令で、廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却されました。

現在本丸の一部が復元され、公園となっています。

 

  • 浅間牧場

1883年、北白川宮能久親王が開設した軍馬を育成する牧場です。

群馬県長野原町北軽井沢に、東西20キロ、南北18キロの広大なものでした。

現在は、約四分の一に縮小され、800ヘクタール群馬県県営牧場となりました。

放牧も、馬から牛へと変わりました。

売店の牛乳・ソフトクリームが有名です。

 

  • 牧宮神社

群馬県長野原町北軽井沢にある、親王を祀った神社です。

台湾にあった北白川宮能久親王を祀った神社がすべて廃社となりました。

これを惜しみ、北軽井沢の祖といわれる北白川宮能久親王の御霊を迎え、その遺徳を長く偲ぼうと、1947年に建立されました。

本殿は茅葺ですが、鳥居は金属製、ちょっと変わった佇まいの神社です。

 

  • 通霄神社(つうしょうじんじゃ)

北白川宮能久親王を祀る台湾で唯一の神社です。

台湾西部の苗栗県にあります。

日本統治時代の1937年に建立されました。

天照大神と北白川宮能久親王を祀った神社です。

敗戦後、なぜこの神社だけが残ったのかは不明です。

一昨年大ヒットした映画『君の名は』の神社に似ていると、ネットで話題になりました。

 

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まとめ: 北白川宮能久親王がわかるおすすめ本など

北白川宮能久親王の経歴や家系図、エピソードやゆかりの地について紹介しました。

最後に北白川宮能久親王についてまとめておきますね!

  • 北白川宮能久親王は、幕末から明治にかけて活躍した皇族であり、陸軍軍人。
  • 明治維新で「奥羽越列藩同盟」の盟主となり、明治政府と対立した。
  • ドイツ留学後、陸軍軍人として活躍し、近衛師団長として台湾へ出征した。
  • 台湾にてマラリアで薨去、国葬に付され、親王を祀る神社が台湾中に建立された。
  • 先室や後室、側室の間に10人の子を設けた。
  • 国内外にゆかりの地がたくさん残っている。

 

北白川宮能久親王の波乱に富んだ人生は、皇族であるということもあってか、これまであまり取り上げられてきませんでした。

特に「東武皇帝」については、第二次世界大戦後まで扱われることはありませんでした。

その後、研究が始まり、徐々に成果があがってきています。

一般的な読み物として、北白川宮能久親王を題材とした作品は2編あります。

  • 『戊辰秘策 小説・輪王寺宮公現』長尾宇迦(新人物往来社)
  • 『彰義隊』吉村昭(朝日新聞社)、(新潮文庫)

 

「東武皇帝」に関する研究や書物は、

  • 『戊辰戦争に消えたもう一人の「天皇」東武皇帝』逸見英夫(『天皇の伝説』オルタブックシリーズ001、主婦の友社)
  • 『東武皇帝の実像ー戊辰の歴史に埋もれたもう一人の天皇』山蔭久志(『別冊歴史読本 皇位継承の危機 ‥‥』新人物往来社)
  • 『彰義隊遺聞』森まゆみ(新潮社)、

 

などがあります。

 

北白川宮能久親王は、幼くして京を離れ、江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々としました。

後に陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死を遂げました。

明治維新から150年を経て、これまであまり取り上げられなかった、北白川宮能久親王の生涯に触れてください。

以上、「北白川能久親王の経歴とエピソード、その死因とゆかりの地」でした。

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