徳川家康の生い立ちと経歴は?性格やエピソードが面白い!




徳川家康といえば江戸時代の礎を築いた人で有名ですね。

織田信長や豊臣秀吉と共に三英傑なんて呼ばれてます。

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の歌のように本当に穏やかな人物だったのでしょうか、

いえいえ、戦国の荒波の中世の中から戦をなくしたほどの人です。そう甘くはないでしょう。

今回は徳川家康について

  • その生い立ちとは
  • 家康の経歴や強さ
  • 人柄や面白いエピソード

 

これらをお話ししましょう。

これを読むときっと家康の人柄や強さがわかって、作品を読むことが楽しくなります。

江戸時代260年の平安を招いた家康のこと色々知りたくなりますよ。

 

徳川家康の生い立ちとは?

家康は三河国の岡崎城で1543年に誕生しました。父は松平家の当主で松平広忠、母は於大の方でした。

  • 家康の幼名は「竹千代」といいます。いいところの若様っぽい名前ですね。
  • 父の広忠は今川家の庇護のもとにありましたが、於大の方の実家は織田信長と同盟を結びました。
  • そのため広忠は於大の方を離縁するのです。竹千代はわずか3歳で母親と離れ離れになったのでした。

 

1547年竹千代は6歳で今川へ人質として送られることになりました。

  • しかしその道中で尾張の邪魔が入り、織田信秀のもとへと送られてしまいました。
  • 人質を横取りするなんてことあったんですね。
  • それから2年間竹千代は尾張の人質となりました。

 

2年後竹千代の父松平広忠が家臣の裏切りで殺されてしまいます。それで嫡男の竹千代は元の予定だった今川の人質となります。

  • 今川家では、様々な教育を受けました。その教師の中には、今川義元が頼りにしていた太原雪斎もいました。
  • 彼は学問だけではなく戦の経験もある有能な人だったので、この人から受けた影響は竹千代の財産となったことでしょう。
  • このようなことから今川家は竹千代を大切に扱っていたことが伺えますね。

 

立派な武将になって今川のために力を尽くしてほしかったのでしょう。

 

1555年駿府の今川の人質生活の中で、竹千代は14歳で元服しました。

  • 名前も今川義元から一字もらい、次郎三郎元康と改めました。
  • そして義元の姪の瀬名(築山殿)と結婚します。
  • その後また名前を改め、蔵人佐元康と名乗りました。

 

そんな元康に転機が来ます。

1560年今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまったのです。

  • 義元亡き後の今川家は混乱し、岡崎城も空になっていました。
  • 元康は岡崎城に戻ることができたのです。
  • この機に乗じて元康は今川と縁を切り、1562年織田信長と同盟を結ぶことにしました。世に言う「清洲同盟」ですね。

 

この時元康は今川義元からもらった「元」と言う字を捨て家康と名乗るようになります。

そして1566年に徳川に改姓しここで徳川家康が誕生したのです。

 

徳川家康の経歴や強さは?

織田信長と同盟を結んだ家康は、直後に三河一向一揆にあいます。

武士や浪人、農民などを含んだ一揆勢の中には家康の家臣も含まれていました。

これを家康は武力で抑えて行きました。そして三河を統一していったのです。

 

1569年ついに今川氏真は家康に降伏し、ここで今川家は滅亡したのです。

  • 家康は人質の間大切に扱われていたこともあり、氏真は家康の保護のもとにおかれました。
  • 氏真の子は徳川家に仕えた旗本になっています。
  • 家康は同盟を結んだ信長を手助けして、1570年の金ヶ崎の戦い姉川の戦いでも奮闘しました。

 

武田信玄が信長を攻めようと上洛を始めた1572年三方ヶ原の戦いで家康はかなりの危機にさらされます。

  • 家康は家臣に守られながら、浜松城までやっとの事で逃げました。
  • この時の自分の情けない姿を絵師に書かせて、これからの教訓にしたそうです。
  • この後突然武田信玄が亡くなり、武田軍が撤退を始めます。

 

信長は家康と共に1578年朝倉義景浅井長政を滅ぼし、武田勝頼長篠の戦いで圧勝します。

 

1578年には越後の虎と呼ばれた上杉謙信も亡くなり、信長は西を攻めにかかりました。

西を任されたのは豊臣秀吉でした。

  • 家康は東を任されていたので武田も上杉もおとなしくなっていたので楽勝モードでした。
  • ところが、家康の嫡男信康築山殿に謀反の疑いがかけられたのでした。
  • 信康の正室は信長の娘 徳姫でした。この人が父信長に2人が武田と通じていると密告したのです。

 

これを受けて信長は信康に切腹をさせ、築山殿は殺すように家康に命じるのでした。

本当に武田との密通があったのか、それとも家康と信康の仲が険悪だったのか、

この悲劇の理由ははっきりわかっていませんが、家康は信長の命令を受け入れ妻と子を死なせたのです。

 

1582年武田が完全に滅亡しました。その功績から家康は駿河を拝領します。

しかしその年思いもよらぬ事件が起きました。

あの無敵な信長が明智光秀によって本能寺で討たれたのでした。

  • その時家康は信長に招待されて大阪見物の旅行中でした。
  • 焦った家康は服部半蔵の案で伊賀を超えて三河へと命からがら戻っていったのです。
  • そしてすぐに光秀討伐に兵を挙げたのですが時すでに遅く、豊臣秀吉によって光秀は討たれたのでした。

 

秀吉はその後信長の嫡男信忠の遺児である三法師を織田家の後継者とし、思うように織田家を操ります。

反抗する柴田勝家賤ヶ岳の戦いで滅ぼしてしまいます。

ついに家康と秀吉は小牧長久手の戦いで戦うことになりました。

家康側は徳川四天王が活躍して、敵の森長可や池田恒興らを破ります。ここで徳川家の強さを発揮しています。

 

1586年秀吉は正室のいない家康に自分のをおくり、その上自分の母親を人質として家康の元へ送ったのでした。

ここまでされると家康も折れるしかありませんでした。

大阪へ行き秀吉に頭を下げることになったのです。

  • その後は小田原征伐や朝鮮出兵など秀吉の配下として働いています。
  • 家康は朝鮮には渡らず名護屋城での留守居役でした。
  • このように勝手を言う秀吉に不満を持つ大名も多く、家康はこれらの人の苦情係でもありました。

 

秀吉は幼い秀頼のことが気がかりで、前田利家に後見役を頼み、家康には政治と秀頼の保護を頼みました。

そして秀頼の妻に家康の孫 千姫を嫁がせ、両家が仲良くやっていけるように願いました。

 

秀吉は秀頼を守るため五大老を決めていました。

  • 前田利家
  • 宇喜多秀家
  • 上杉景勝
  • 毛利輝元
  • 徳川家康

 

1598年豊臣秀吉が亡くなります。

徳川家康は実質的に五大老のトップとして頭角を現していくのです。

主な政治は徳川家康がおこなうことになりました。

同時に秀吉が禁止していた大名同士の婚姻をどんどん行っていったのです。

  • 伊達政宗の娘五郎八姫と家康の六男 松平忠輝
  • 松平康元(家康の甥)と福島正則の養子福島正之
  • 蜂須賀家政の子 蜂須賀至鎮(よししげ)と小笠原秀政の娘(家康の養女)
  • 水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正
  • 保科正直の娘(家康の養女)と黒田長政

 

というように嫁がせた娘は全て家康の養女です。

これによって前田利家や石田三成から反感を買いました。

その後前田利家が亡くなると、福島正則や加藤清正が石田三成を襲うという事件が起こります。これを仲裁したのも家康です。

怪しいですね。

  • その上家康は北政所に三成の件を仲裁させています。
  • 豊臣家を表に出し、家康はあくまでも豊臣の臣下であるふりをしているようにも見えます。
  • そして豊臣臣下の中で、ギクシャクとしてきたところで、あの関ヶ原の戦いに流れ込んで行くのです。

 

1600年に起こった関ヶ原の戦いはあくまでも豊臣の家臣による東軍、西軍に分かれての戦いです。

表向きは、豊臣か徳川かの戦ではないことを頭においてください。

徳川家康は石田三成を豊臣家に弓引く奸賊とした大義名分を持って挑みました。

しかし裏では三成が挙兵するのを待っていたようです。

  • この戦いは西軍の小早川秀秋らの寝返りで、東軍が圧勝します。
  • 早朝に始まってお昼過ぎには決着がついてましたから、すごくスピーディですね。
  • この戦いで勝利した東軍の大将の家康がここからは天下人のようなものです。

 

家康は1603年に征夷大将軍となります。

そして2年後に将軍職を嫡男 秀忠に譲り、将軍家は徳川がつないでゆくということを天下に知らしめたのです。

将軍を秀忠に譲っても、家康は大御所として幕府の実験を握り続けていました。

 

実質天下を握った家康は、1つ不安がありました。それは豊臣家の存在でした。

東に徳川、西に豊臣がいて2つの大きな権力が存在していたのです。

豊臣家も政治の実権を徳川に奪われ、面白くありません。

 

1614年ついに家康は大阪攻めにかかります。

大阪冬の陣です。

  • 家康は真田丸には手を焼いたものの、圧倒的な強さで淀殿から和議を申し込まれます。
  • ここで本丸のみを残し、外堀を埋めるという徳川に有利な条件で和睦しました。
  • しかし豊臣方は埋めた堀をまた作ろうとしました。これに徳川はいちゃもんをつけて大阪夏の陣へと発展したのです。

 

徳川は圧倒的に有利に戦を進め、ついに大阪城で秀頼と淀殿、その側近たちは自刃して果てたのでした。

これで徳川を揺るがす恐怖は完全に消え去ったのでした。

 

1616年家康は鷹狩りに出かけた時に病に倒れます。3ヶ月後家康は駿府城でこの世を去りました。享年75歳でした。

 

徳川家康の人柄や性格の面白いエピソード

  1. 家康の趣味
  2. 健康にこだわり
  3. 家康の死因は
  4. 家康はケチだった
  5. 家康の影武者説

 

家康はとても趣味が多い人でした。

その中で鷹狩りを好んで行なっていましたが、ただの気分転換ではなく、政治的、軍事的な視察としての役割もありました。

いつも気を緩めることがなかったのです。

 

家康は薬を作るのが好きでした。自分で調合したものを飲んでいたのです。

その上健康志向で、野菜や魚を好み、食べ過ぎや飲みすぎることのないようにいつも気を使っていました。

それで人々の寿命が短命な時代に75歳まで元気だったのかもしれません。

 

家康の死因は天ぷらの食べ過ぎという説があります。

しかしいつも身体に気を使っていた家康が寿命を縮めるほど天ぷらを食べたとは考えにくいですね。

そして倒れてから3ヶ月経って亡くなっているので家康は胃癌だったとの見方も出ています。

 

家康はケチでした。

  • どのくらいケチかというと同じ着物をずっときていたり、下着も汚れが目立たない黄色いものを使用していたりしていました。
  • お金には困ってないのに無駄は一切嫌いだったようです。
  • せめて下着だけはかえてほしいですよね。

 

徳川家康には影武者説があります。

  • 1560年まだ家康が元康と名乗っていた頃、家臣の手によって殺害されます。
  • その時家康の身代わりとなったのは世良田次郎三郎元信という人物です。
  • これ以降元信は元康として生きて行ったことになります。

 

もう1つ影武者の話があります。

  • それは大坂の陣で、家康の本陣に切り込んだ真田幸村により家康は討たれていたというものです。
  • ここでも別の小笠原秀政という人物が影武者として家康の人生を歩んだと言われています。
  • とても興味深いですね。

 

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まとめ 徳川家康はどんな人?分かりやすいおすすめ作品

徳川家康についてその経歴や性格などエピソードを交えて紹介してきました。

  • 幼い頃から人質生活を余儀なくされ、それでもめげることなく生きてきた家康は、織田信長や豊臣秀吉の影にいました。
  • そして天運が家康を表舞台へと引っ張り出したのです。
  • 信長や秀吉の影にいてもきっとチャンスを狙っていたのかと考えれば「鳴くまで待とうホトトギス」であっているのかもしれませんね。

 

それでもじっと影からチャンスを待っていたところは、かなりのタヌキおやじであることも間違いなさそうです。

徳川家康を扱った小説

 

  • 「関ヶ原」 司馬遼太郎

 

徳川家康を悪役として描いている作品です。

 

  • 「徳川家康」 山岡荘八

 

全26巻にも及ぶこの小説は徳川家康が忍耐強く生きた生涯を描いています。

 

  • 「影武者徳川家康」 隆慶一郎

 

徳川家康が関ヶ原で死んで、その後を影武者が演じるというお話です。

 

徳川家康が登場するドラマ

  • 「徳川家康」 NHK大河ドラマ 主演 滝田栄 1983年

 

山岡荘八の小説を原案にしたドラマです。

 

  • 「真田丸」 NHK大河ドラマ 家康役 内野聖陽 2016年

 

真田幸村の生涯の敵として描かれています。

 

  • 『おんな城主 直虎」 NHK大河ドラマ 家康役 阿部サダヲ

 

井伊家の内情を語りながら、井伊直政が成長し、家康のもとで出世していくところを描いています。

 

徳川家康を扱った小説やドラマなどはたくさんあり紹介しきれません。

それだけエピソードにとんだ生涯を生きた大物だったということですね。

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