僭主独裁政治は民主主義から生まれる!プラトン国家第8巻9巻要約




 

プラトン『国家』第8巻~第9巻では、国制を5つに分類する。

  1. 「優秀者支配制」(哲人王)
  2. 「名誉支配制」(スパルタの国制)
  3. 「寡頭制」(少数者支配・金銭)
  4. 「民主制」(大衆支配・平等・快楽)
  5. 「僭主独裁制」(独裁政治)

プラトンの論じるところでは、それぞれの国制への変化は、アトランダムに変わるのではなく、上から下に、堕落していく。

つまり哲人政治が堕落して名誉支配制になり、民主制が堕落して僭主独裁制になるというプロセスを経る。

 

僭主独裁制はいかにして生じるか?

僭主独裁制の国家・国体とはどのようなものか?

僭主独裁的な魂を持つ個人は、どのように生きるか?

プラトンの論述を見ていこう。

 

僭主独裁制の記述は、プラトン『国家』の第8巻~第9巻にかけて論じられる。

 

僭主独裁制は民主主義政体での過度の自由から発生する

 僭主独裁制は、民主制から生じる。変化の仕方はそのひとつ前のサイクルである「寡頭制→民主制」とある意味同じプロセスを経る。

寡頭制的人間が目標として立てた善とは、富である。その善=富へのあくなき欲求、そして富以外のことをなおざりにする考えが寡頭制を滅ぼした。いわば自滅である。

それに対して、民主制において善と規定されるのは、自由である。自由へのあくなき欲求と、他の全てへの無関心が国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備する。これも自滅である。

その自滅のプロセスとは、およそ以下のようなものである。

民主制において支配者はくじ引きによって決められるから、偶然タチのよくない人々を指導者に得ることがある。

彼らは大衆を必要以上に強い自由の酒に酔わせてしまい、国民たちを少しの不自由も我慢できないような軟弱な精神にさせてしまう。

そこで次の代の支配者が、自由をふんだんに提供してくれないような場合があったとしよう。すると国民は、彼ら支配者たちをけしからぬ、寡頭制的であると非難し迫害する。その一方で、自由に酔っぱらわずに、支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬ奴らと辱める。

こうした自由の風潮が、国家のすみずみに行き渡ってしまうと、家庭内も無政府状態に侵されることになる。たとえば父親は子供に似た人間となるように、息子たちを恐れるように習慣付けられ、息子は父親に似た人間となり、両親の前に恥も恐れも持たなくなる。最大の自由が達せられた暁には、奴隷と主人・男と女といった関係が、対等であり互いに自由となる。そして動物たちも自由の精神に満たされ、家畜でさえも飼い主の人間と対等の関係を要求するようになるだろう。

そうしたことが集積された結果、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になり、少しでも抑圧が課せられると腹を立てて我慢できないようになる。どんな主人も自分の上に戴くまいとして、最後には法律さえかえりみない。

これが僭主独裁制が生まれてくる、かくも立派で誇り高き根源にほかならない。自由放任のために民主制を隷属化させることになる。

なにごとであれ、あまりに度が過ぎることは、反動として反対の方向への大きな変化を引き起こす。

過度の自由は、個人をも国家をも、過度の隷属状態へと変化させてしまう。最高度の自由からは最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる。

 

僭主独裁制は富裕者層と大衆層の対立から生じる

民主主義国家では、国民は3つの構成集団に分類される。

  1. 支配者層。国民を演説で扇動する政治家。
  2. 富裕者層。寡頭制の名残で、生まれつき節度のある性格。
  3. 大衆層。公共のことに参加したがらず、財産も持たない。最多数で、結集すれば最強の勢力。

支配者層の政治家たちは、金持ちから財産を取り上げて民衆に分配しながら、大部分を自分で着服する。

そこで、富裕者層の人々は、国民議会での演説などで、自分たちを防衛せざるをえなくなる。すると彼らは、陰謀を企んでいるとか寡頭制をもくろんでいると非難を受ける(自己防衛をしているだけなのに)。

最後には民衆が、自分の意志によってではないが、無知ゆえに中傷家たちにだまされて、富裕者層に危害を加えようとするのを見ると、もはや欲する欲しないにかかわらず、本当に富裕者層と大衆との間で対立が深まり、多くの弾劾や裁判や係争が行われることになる。

上流階級と戦う民衆の慣わしとして、いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭に推したて、その人間を養い育てて大きく成長させるものだ。

これが僭主発生の最初である。僭主が生まれるときはいつも、そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであり、ほかのところからではない。

こうして民衆の指導者となった者(僭主の卵)が、群集をしっかりと掌握したうえで、同胞の血を流すことを差し控えることなく、不正な罪を着せては法廷に引き出して殺し、追放死刑を繰り返し、負債の切捨てや土地の再分配をほのめかす。

富裕者層たちは、僭主の卵を何とかして追放や、国民との不和に追い込もうとする。しかし、それが不可能であれば、力ずくで暗殺しようと企む。

それに対して僭主の卵は、例外なく「護衛隊の要求」を思いつく。そして民衆は何の心配もなく要求をかなえてやる。物理的な力を得た僭主に対しては、富裕者層たちは逃げるしかない。

かの指導者は、他の数ある敵たちをなぎ倒し、国家という戦車のうえに立ち、そのとき民衆の指導者であることをやめて完全に僭主となってしまっている。

 

僭主独裁制の政体とは

富裕者層を追放し、晴れて僭主となった人物は、当初は民衆の誰にでもほほえみかけ、自分が僭主であることを否定し、私的にも公的にもたくさんのことを約束する。

負債からの自由、土地の分配をして、自分が情深く穏やかな人間であるとアピールする。しかし抗争から解放され、国家が平和な状態に戻ろうとすると、僭主は民衆が指導者を必要とする状態に置くために、絶えず何らかの紛争を引き起こす。その目的は民衆が税金を払って貧しくなり、その日暮らしに追わせることで疲弊させ、謀反をしにくくさせること。

そのようなことばかりしていては次第に嫌われるし、協力者も、紛争をやたらと起こす僭主を咎めるようになる。しかし僭主は、支配権力を維持するためには、彼に逆らう者たちをすべて排除しなければならないと考える。だから彼は勇気ある人、高邁な精神の持ち主、思慮ある人、金持ちを鋭く見抜き、排除しなければならない。

こうして国家をすっかり浄化してしまうと、国家のなかから最善の部分はすっかり取り除かれ、最悪の部分だけが残ることになる。

その必然は下らぬ人間と共に、そういう者たちから憎まれながら暮らしていくことになる。

国民から嫌われれば嫌われるほど、数多くの護衛を必要とする。その護衛人も程度の低い連中であり、以前の仲間を滅ぼして解放奴隷を部下としている。

この国家の軍隊がどのように養われるか。まずは神社の神聖な財産を使う。また滅ぼされた人々の財産を使う。足りなくなったときは父祖からの財産(民衆の財産)を奪う。

そのときこそ民衆は思い知らされる。僭主は父殺しにほかならず、老いた親に対して残酷な養い手になる。これこそが僭主独裁制である。

民衆は自由人への隷属という煙を逃れようと、奴隷たちの専制支配という火の中に落ちた。

度外れの自由のかわりに、いまや最も厳しく最もつらい奴隷たちへの隷属という仕着せを身にまとう。

 

僭主独裁制的な人間について(571a-580b)

変化の過程を描く際にあたり、ソクラテスは欲望に関する話をする。不必要である快楽と欲望のうちには「不法な」ものがある。すべての人の内に生まれついているものだが、法によって懲らしめられ、知性に助けられた他のより良い欲望にたしなめられて、ある人々の場合にはすっかり取り除かれ、残ったとしても力の弱いものとなる。

しかし不法な欲望や快楽は、ある人々の場合には、もっと力強く、数も多い。それは眠りのうちに目覚めるような欲望。眠りにつくにあたって自分の内なる理知的部分を呼び覚まし、美しい言葉と省察の数々をもってこれをもてなし、自己自身への想いのうちに深く自らを沈める。このような場合は人は最もよく真理に触れ、夢に見るさまざまの像も、不法な姿をとって現れることが最も少ない。要するに、各人の内にはある種の恐ろしい猛々しい不法な欲望がひそんでいて、このことは立派な品性の持ち主と思われている人々とて例外ではない、そして夢の中ではこの恐ろしい欲望が明らかに現れている。

 民主制的人間が年を取るとその息子は親が寡頭制的人間と雄蜂の間で引っ張られて中間(民主制的)の性格に落ち着いたのと同様に、再びあらゆる不法の限りへ、誘惑者たちが完全な自由と呼ぶ生き方へと誘い導かれる。こうした恐るべき妖術師たち、僭主の作り手たちが彼の内にひとつの恋の欲情を植えつけて、これを怠け者で何でも手当たり次第に分配しあって浪費する欲望どもの指導者として押し立てようとはかる。翅のある、ひとつの巨大な雄蜂を。そこでさまざまな快楽に飽満しながら極限まで大きく成長させ養って、飽くことのない欲望の針をこの雄蜂のなかに生じさせたならば、そのときにこそ魂の指導者(としての雄蜂)は狂気によって護衛されながら暴れ狂いはじめる。節制の徳を粛清して魂を清めつくし、外から導きいれた狂気で満たしてしまう。僭主独裁制的な人間ができあがるのは、人が生まれつきの素質か生活の習いによってか、その両方によってか、酔っ払い、色情的、精神異常的特性を併せ持つに至ったとき。

 生き方について。宴会とどんちゃん騒ぎ、恋の神が僭主となって彼らの内に住まい、魂の舵を全面的に取り仕切っている。収入があったとしてもたちまち消費、次は借金と財産の食いつぶしになる。全てが尽きたとき、恋の欲情が荒れ狂いながら騙し取ったり力ずくで奪い取ったりできる物持ちがいないかと探し回る。あらゆるところから掠め取ってこなければならず、そうでなければ大きな苦痛と苦悩に苛まれること必定。こういった所業のあいだに、美醜について古く子供のころからもっていた考え、正しいとみなされている考えを最近奴隷の身分から解放されたばかりの恋の欲情の護衛隊をつとめるさまざまの考えが征服してしまう。以前まだ自分の内に民主制を保っていた頃は夢の中で解放されるだけのものであったが、僭主独裁制に支配されるに至っていまや彼は目覚めながらに夢であったような行為に身を引くことがなくなる。恋の欲情は内なる僭主として君臨しつつ、あらゆる無政府・無法状態のうちにいき、恥知らずのことを行わせ、自分と自分を取り巻く騒々しい一団を養っていく。

 私的な生活においては次のように振舞う。人との交わりにおいては自分にへつらう者たち、奉仕してくれる者たちと交わるか、何かを頼む必要のある相手には平身低頭してみせるが、目的を達すれば赤の他人となるような交わり方。一生涯誰とも親しい友とならずにいつも誰かを支配するか、誰かの奴隷として仕えるかしながら生きる。自由と真の友情とを味わうときがない。信義のない人間。最高度に不正な人間。要約すると、目覚めていながら、夢の中でそうなると語ったような人間。そのような人間になるのは、生まれつき最も僭主的な素質をもつ者が専制支配の権力を手に入れた場合なのであり、僭主として生きることが長ければ長いほど、それだけますますそのような人間になる。最も邪悪である人間は最もみじめ。

 幸福と不幸について。国制について、国家の全体を観察すれば、僭主独裁制が最も不幸。人間の判定でも全体を見る。すなわち品性を見抜く、見せ掛けに眩まされないようにする。そのためには僭主と同じ屋根の下に暮らしたことのある人間が判定能力を持つ。さらに公の場において危険に臨んだときの振舞いにも居合わせた人。そうした実体を見届けた人に僭主は幸福か不幸か、他の人間と比べて実情はどうかを報告してもらう。考察にあたっては、国家と人間の類似性を思い出しながら、ひとつひとつの点について順次観察する。

 第一に国家として、僭主独裁制は最高度に隷属状態にある国。主人であり自由人である人もいるが、小部分にすぎない。ほぼ全体が、とくに最も優れた部分は奴隷の状態にある。すると個人の場合でも、魂は多くの隷属状態と不自由に満ちているはず、最も優れた部分が奴隷として仕え、ごくわずかの最も性質の悪い気違いじみた部分が主人として専制的に支配している。

 すると奴隷状態の国家は望むとおりのことを行うことが最も少ない。魂も望みどおりのことを最もなしえない。たえまなく欲望の針によって引き回され、騒乱と悔恨に満たされている。そして貧乏が必然の国家であるから、魂もつねに貧乏で満たされぬ状態。恐怖で満ちている。

 少なくとも国家の場合さまざまな国家のうちでこの国が最もみじめな国と判定。僭主独裁制的な人間は最もみじめかというと、そうではない。もともと僭主独裁制的な性格の人間である上に、運悪く実際に僭主となる羽目になった人が私的な生活にとどまった僭主独裁制的人間よりもみじめ。

 さらに考察。市民が多くの奴隷を支配していられるのは、国家の保護のおかげ。仮に彼らが国家の保護の届かないところへ置き去りにされたとしたら、恐怖しやむを得ず媚びへつらい、解放してやらざるをえなくなり、彼自身が奴隷たちの追従者となるだろう。そうでなければ殺される。さらに隣人に支配-隷属の関係を認めない人が住めばさらに不幸きわまる状態におかれる。敵ばかりにまわりを囲まれ監視されているから。僭主はまさに同じような一種の牢獄の中に縛られている。貪欲な魂を持ちながら、国民のうちで彼だけは旅も見物もできず引きこもったまま暮らす。たとえそう思わない人がいたとしても、真実には正真正銘の僭主とはじつに最大のへつらいと隷属を行う正真正銘の奴隷であり、最も邪悪な者たちに仕える追従者にほかならない。自分のさまざまな欲望をいささかでも充足させるどころか最も多くのものに不足していて、魂の全体を見て取る能力のある人の目には貧乏人であることが明らか。全生涯を通じて、恐怖に満たされ震えと苦しみに満たされて過ごす。彼は必然的に妬み深く信義なく不正で友なく不敬でありとあらゆる悪を受け入れて養う人間であらざるをえないし、またその支配権力のゆえにますますそのような人間になっていかざるをえない。