松尾芭蕉と言えば、江戸時代の俳聖(俳句を読むすごい人!)です。
あなたはどのくらい松尾芭蕉のことを知っていますか?
ドラマや映画では、あまり描かれることの少ない芭蕉ですが、小説を読んでみるととても面白くて興味深い人です。
多くの有名な俳句を残した松尾芭蕉とは、いったいどんな人だったんでしょう。
今回は、
- 松尾芭蕉の生い立ちや経歴は?
- 松尾芭蕉の作品を紹介
- 逸話やエピソードから見える芭蕉の本当の姿とは?
について紹介します。
こちらを読めば、松尾芭蕉の生い立ちや性格、隠された人物像がわかります。
俳句以外には謎が多い松尾芭蕉を知れば、もっと歴史の面白さがもっとわかります。
ぜひ最後まで読んでください。
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松尾芭蕉の生い立ちや経歴を紹介
松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)伊賀の国(現在の三重県伊賀市)で6人兄妹の次男として生まれました。
松尾芭蕉の幼名は金作のち宗房(むねふさ)
父は松尾与左衛門、地元の有力者で藤堂藩から準武士の待遇を受ける農民でした。
- 明暦2年(1656年) 父松尾与左衛門死去
- 寛文2年(1662年) 藤堂良忠に料理人としてつかえる
藤堂藩は、武芸と共に文芸を重んじる藩でしたので、芭蕉も主君良忠と共に北村季吟(きぎん)に俳句の教えを受けていました。
- 寛文6年(1666年) 主君藤堂良忠が死去。藤堂家を離れ、俳諧の修行に没頭する
- 寛文10年(1672年) 初の俳句選集「貝おほい」を文芸・学問の神:伊賀天満宮に奉納する
- 延宝2年(1674年) 北村季吟の元を離れ、江戸へ向かう
江戸に住んだ芭蕉は、多くの俳人と交流し、修行を重ねていました。
- 延宝5年(1677年) 俳諧師として免許皆伝となり宗匠(そうしょう:師匠)になる
- 延宝8年(1680年) 江戸の中心地を離れ、深川の草庵に隠棲する
深川の草案には、芭蕉の弟子たちが庭に”ばしょう”を一株植えたら、どんどんと広がり、見事な”ばしょう”が広がりました。
これ以降芭蕉という号を使うようになりました。
- 天和4年(1684年) 母親が他界したため、郷里の伊賀へ向け旅に出る
出発前に詠んだ句「野ざらしを心に風のしむ身かな」から、この旅の紀行文は「野ざらし紀行」と呼ばれています。
- 貞享5年(1688年) 父母の墓参を兼ねて、伊賀から高野山、吉野、奈良、須磨、明石を旅する。 紀行文「笈(おい)の小文(こぶみ)」
- 同年 長野県にも旅する 紀行文「更科(さらしな)紀行」
- 元禄2年(1689年) 弟子の河合曾良(そら)と共に江戸から東北、北陸、岐阜の大垣へと周る旅にでる。紀行文「奥の細道」
- 元禄4年(1691年)頃 弟子の向井去来(きょらい)の別荘:京都嵯峨落柿舎(らくししゃ)と滋賀大津の義仲寺(ぎちゅうじ)の庵に交互に住む
芭蕉は、源平時代の武将である木曽義仲を敬愛していたために、義仲の墓がある義仲寺に庵を持っていました。
芭蕉はその後、江戸に戻りますが、有名な俳聖の松尾芭蕉に会うために、あちこちから来客が来たり、句会への誘いが絶えず、疲れ果てました。
ひと月間家の門に「来客謝絶」と貼ってすべての交流を断つことで、自然体で人や自然にひょうひょうと接する「軽み」という境地に達することができ、再び門を開けることができました。
今の言葉で言えば、
「余計な力を抜いて、自然な心持で人と接すれば、感じるストレスは最小限で済む」
という感じでしょうか。
もちろん芭蕉の境地は、もっと高いところにあったと思いますが。
元禄7年(1694年) 江戸から伊賀、奈良、大坂と西国の弟子達のもとを訪れるたびに出るが、大阪で病に倒れ、10月12日大坂御堂筋の旅宿花屋仁左衛門にて亡くなる。
「木曽義仲公の側に葬ってほしい」という芭蕉の遺言により、亡骸は義仲寺にある木曽義仲の墓の隣に埋葬されました。
松尾芭蕉の残した作品・俳句
松尾芭蕉の残した主な作品は
- 「奥の細道」
- 「野ざらし紀行」
- 「更科紀行」
- 「笈の小文」
- 「鹿島詣(かしまもうで)」
- 「嵯峨日記」
などがあります。
「嵯峨日記」は、芭蕉が落柿舎に滞在していた日々を書いた日記
他は紀行文で旅でのエピソードや逸話と共に俳句が記されています。
俳句は旅の一場面を切り取り、情緒豊かに表現する芸術です。
写真などなかった当時の人は、紀行文の中で俳句を読むことで、その場面を想像して楽しんんでいました。
今なら旅行に行った人のインスタグラムを見て、楽しむようなものですね。
あなたにもわたしにも現代の人にはとても想像できないことですが、簡単に旅行などできない当時の人にとって、俳句や紀行文は、このうえない楽しみだったのです。
芭蕉の代表的な俳句を紹介
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古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音
最も有名な俳句です。目の前で蛙が池に飛び込む風景と水音が聞こえてきそうです。とてもわかりやすい俳句ですね。
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夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
岩手県平泉で詠まれた俳句です。かつて栄えた奥州藤原氏や源義経に思いを馳せて詠んだ作品です。
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閑(しずけ)さや岩にしみ入る蝉の声
〈夕暮れに静まり返っている中で、セミの声だけが岩にしみいるように聞こえる〉
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五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川
〈五月雨で川の水が増水して、すさまじい流れになっている〉
俳句と言われるととても難しいものだと考えてしまいますが、このようにその時の風景と心持ちをそのまま表現していますので、面白くてわかりやすいですよ。
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むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
源平時代の合戦で討ち取られた武将斎藤実盛(さねもり)の兜を見たときの一句です。
この俳句は、横溝正史氏の推理小説:金田一耕助シリーズ「獄門島」の中で使われる俳句の1つです。個人的に思い入れがありますので、紹介しました。
ちなみに金田一少年は、金田一耕助の孫です!
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旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る
〈旅の途中で死の床に臥せっている私だが、夢の中では見知らぬ枯野を駆けまわっているよ〉
芭蕉最期の俳句です。死の4日前に詠みました。芭蕉は、この病気が治ったら九州方面への旅を計画していたのです。
松尾芭蕉の人物像がわかる面白いエピソードとは
芭蕉は、俳句を極めるために故郷の伊賀を出て、江戸で暮らしましたが、初めの頃は世間に評価されず、生計が成り立たないくらいでした。
そのため、肉体労働や事務のような仕事をして生活をしながら、俳句を読み続けていました。
松尾芭蕉といえども、若い頃は順風満帆ではなく、苦労をしていた
次第に弟子が増えてくると、芭蕉は、俳句の世界での名声や欲望の満ちた競い合いの中に放り込まれてゆきます。
嫌気がさした芭蕉は、当時は人の少なかった深川へ移り住みました。
宗匠(俳句の師匠)たちからは、敗北者のように見られましたが、芭蕉は気にすることなく、また弟子たちも芭蕉の行動を歓迎していました。
芭蕉は、名誉や名声のためでなく、純粋に俳句が詠みたいと気持ちから俳諧の世界に飛び込んだ人なのです。
松尾芭蕉の俳諧理論
有名な「奥の細道」の旅をしている途中で、芭蕉は「不易流行(ふえきりゅうこう)」という俳諧理論を見出します。
「良い俳句を作るためには、俳句の基礎をきちんと学ばなくてはならない。でも時代の変化に合わせた新しさも追求しないとつまらない俳句しか詠めないものだ」
これは、俳句に限らず言えることです。
まずは、基礎をしっかり作ってから、新しいことを試したり、取り入れたりしないと、結局上手くいかないし、上達もしないということです。
純粋に俳諧の世界で生きている芭蕉だからこそ見出した理論は、現代にも通じる教育論とも言えます。
このように見てくると、松尾芭蕉はとても純粋でまじめな人のようですが、晩年あまりの人気で来客に迷惑しているところなど、普通の人っぽいですね。
でも、その対応が「誰も家に来るな!」と張り紙をしてしまうのですからすごい。
その後、ひょうひょうと自然に任せた生き方にまでたどり着いてしまうところがまだすごい人です。
ストレスいっぱいの現代人には、芭蕉先生に教えてほしいことだらけです。
松尾芭蕉はただの俳人ではなかった!逸話からわかる本当の姿とは?
松尾芭蕉の郷里は、伊賀地方ですが、伊賀と聞いて何か気が付きませんか?
そう、伊賀忍者です。
その上芭蕉の母方は、百地三太夫(伊賀忍者)の子孫でした。
実は、松尾芭蕉は俳人という顔以外に、忍者という顔もあった
「奥の細道」を見てみると、芭蕉の歩いた距離は、なんと2400㎞。
それを150日ほどで歩ききっているのです。
現代人とは比べものにならないほどの健脚だった当時の人たちの中でも飛びぬけて健脚です。
その頃の芭蕉はもう46歳です。
何かの訓練を受けていたのではないかと考えるのは当然のことです。
当時は簡単に国から国へ移動することはできません。東海道や中山道など主な街道には、多くの関所が設けられ、そこを通る人々は厳しく調べられていました。
ところが芭蕉は、けっこう自由に旅をしています。
これは、幕府から何らかの使命を受けて関所の調べが簡単に住むようになっていたのではないかと考えられます。
「奥の細道」では、日本三景の1つ、松島にも寄っています。
芭蕉は、松島の風景を見ることをとても楽しみにしていたのですが、何故か松島には1泊しかしていません。
他の場所では何泊もしているのになぜでしょうか。
俳句も全く詠んでいません。あのきれいな風景を見て一句も詠んでいないのです。
実は、仙台藩の情勢を調べていたのです。仙台藩の伊達家が幕府に謀反を起こす疑いがあり、それを調べることが目的だったのです。
芭蕉のあまりにも多くの旅は、俳句を極めるためや全国の弟子に教えを授けるためだけではなく、もう一つの目的が隠れていたためだと考えられます。
まとめ:松尾芭蕉の生い立ちや経歴からわかる意外な人物像
今回は、松尾芭蕉の生い立ちやエピソードからわかる人となりを紹介しました。
簡単にまとめましょう。
- 松尾芭蕉は俳聖と言われる有名な俳諧師
- 松尾芭蕉は多くの旅をして紀行文を残した
- 松尾芭蕉は純粋に俳句を愛した人
- 松尾芭蕉の別の顔は忍者だった
松尾芭蕉は、今や海外でも芸術家として有名です。今日見ていただいた俳句のように親しみやすくて楽しい俳句が多くて世界的にも日本の素晴らしい文化として受けいられています。
俳句の世界から芭蕉を見てしまうとなんだか堅苦しいですが、小説やドラマなどで松尾芭蕉という人を知ることから始めれば、面白いと思いますよ。
- 芭蕉入門 井本農一
芭蕉を知るための入門書としてぴったりの本です。旅の行程とともに詠まれた俳句が紹介されているので、その時の芭蕉の心情もわかります。また芭蕉の生涯もわかりやすく書かれています。
- おくのほそ道 まんがで読破 イースト・プレス
「奥の細道」を漫画化した作品。芭蕉が道中に体験した出来事や俳句が簡単にまとめられているので、とても読みやすい本です。
- 歴史サスペンス隠密・奥の細道 テレビ東京系1988~89年放映 連続テレビ時代劇
水戸光圀の密命を受けた隠密(スパイ)が、芭蕉一行を装いながら、陰から芭蕉の道中を守りつつ、東北地方の藩の不正を暴き、悪を退治していく物語です。
隠密の偽芭蕉に佐藤浩市さん、本物の芭蕉を中村嘉葎雄さんが演じていました。
芭蕉がにんじゃだったという説から作られたドラマで、ナレーションで実際の「奥の細道」の道中を解説しています。
どれも、松尾芭蕉の生涯と俳句や生き方を知るのに面白い作品ですよ。
以上:「松尾芭蕉の生い立ちや作品、逸話から見る人物像」でした。