武者小路実篤『愛慾』あらすじ|大正時代戯曲のリアリズム

武者小路実篤




武者小路実篤『愛欲』は、4幕物の戯曲。1926年7月初演。

武者小路実篤は白樺派の作家で、1918年(大正7年)に宮崎県の「新しき村」に移住し、8年間暮らした。

26年に村を去り、翌年東京に戻るまでの1年あまり、奈良と和歌山に滞在していたことがある。

『愛欲』は奈良在住時代の初めての作品で、初演の舞台より半年早い1926年1月に、改造社より刊行。

『愛欲』登場人物とあらすじ

主な登場人物は3人。

  1. 野中英次:せむしで天才的な画家。信一の弟。経済的に貧しい。
  2. 野中信一:同じく天才的な俳優、女出入りの多い。英次の兄。経済的に豊か。
  3. 千代子:英次の妻、美しい容姿と肉体を持つ。

野中英次と千代子は夫婦の関係であるが、もともと千代子は、英次との結婚前から、美しい兄信一の方を慕っており、信一は千代子の心を知りながら、弟英次に彼女を譲った。

英次は自らの醜い肉体への卑下から、妻に完全な自由を赦すと、妻は家出して俳優の兄、信一のもとへ行ってしまう。

兄の信一と妻との関係に気づいた英次は、ひそかに激しい嫉妬に苦しむ。そのうち妻の千代子が帰宅し、いったんは無事に元の鞘に収まる。しかし、再び自分のもとへ戻った妻に対し、英次のうちにあった遠慮は消え、千代子を占有したい気持に駆られる。

千代子への愛着の強さから、英次のうちに嫉妬と憎悪が生まれ、英次の「胸をはりさくやうに苦しめる」

妻に殺意を覚えた英次であったが、けれども偶然に見た雪舟の絵が絵心を刺激して、英次は旅に出る。

危険を察知していた妻千代子は、英次が留守のうちに、信一を迎え、この機会に英次から逃げ出すことを計画する。そこへ英次がもどって来て、物陰で二人の話を聞いてしまった。

信一が帰宅したのち、英次は妻に問いただすが、千代子は開き直る。英次は、鋭い神経と劣等感から、逆上する気持ちを抑えきれず、千代子に飛びかかって首を絞めた。

次の日英次の家を訪問した親友小野寺と信一とは、千代子の死骸のわきに気絶した英次を見出した。

 

『愛慾』の評価

 

理性と感情の葛藤

英次は平時、せむしであることの劣等感から「妻が僕の処へ来た方がまちがひだ」と考えている。

しかし、兄信一と千代子との関係を知ってしまった時から、劣等感は嫉妬へ変わり、徐々に憎しみの感情が芽生えていく。

英次は高まる嫉妬と憎しみを理性によって押さえつけ、また雪舟の絵によっても一時は助けられるが、兄と妻の密会の現場を見たとき、その理性の堤防が決壊する。

 

妄想が次々と実現する恐怖と戦慄

『愛慾』では、英次の病的な神経が妄想を生み、その妄想が次々に実現してゆく戦慄を描かれる。これが作者武者小路実篤の、真の主眼であったと考えられている。

生き生きとした会話は、少しも説明的なニュアンスを感じさせずに舞台の状況を説明し、嫉妬と精神錯乱の醸し出す恐怖を付加することに成功している。

芸術家の気分本位から千代子に犠牲をしいる結果になる英次も、その時々の真実に生きる千代子も、ともに悪い人間ではなく、むしろ正直に自我を生かしたい人間に過ぎない。

しかし、そこに生死の争いが生じるという点に、自我と自我の相克が描かれている。

 

これまでの武者小路実篤の作品における思想は、自己を生かすことが全体を生かすことになるという考えであった。

しかし、この『愛慾』をきっかけに、以降の作品では、心理リアリズムを脱却していくことになる。