高等遊民というと、現代のニートや引きこもりをイメージしがち。
ですが、そんなことはありません。
高等遊民の生態を知りたければ、夏目漱石『それから』は必読書です。
夏目漱石『それから』の主人公、長井代助は、いわゆる高等遊民の代表として描写されています。
漱石自身が代助を形容して「高等遊民」と書いているわけではありません。
しかし、代助の生活ぶりは、明らかに高等遊民のそれであることが見て取れます。
高等遊民とは、簡単に言うと働かないで暮らしている人間のことで、現代でいうニートと相通じるものがある。
しかし、違うところはたくさんあります。
ニートと高等遊民の違いと、高等遊民独自の特徴について、ご紹介します。
長井代助の生活をつぶさに眺めることで、
高等遊民の生活や、自らを高めていく営為について学んでみたいと思います。
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ニートと高等遊民の違い1 常に身だしなみにも気を使っている
『それから』を開いて、長井代助の暮らしぶりを観てみると、あることに気が付きます。
- 体にきちんと油を塗り
- 歯を磨く
- 髪型を整えている
- いつ出掛けてもいいような身なりを整えている
自分の生活についておろそかにしない。
これは、高等遊民としての生活を送る上での第一に持つべき重要な心情です。
ニートと高等遊民の違い2 高等遊民は上昇志向の塊。休日なし
高等遊民・ニートと言えども、日がな1日布団の上にいるのではありません。
何もしないでいることはツライです。
- 働いていようが、
- 高等遊民であろうがニートであろうが、
生きていく上では何かをしていなければなりません。
そして、高等遊民は、自発的に「当時の流行や学問の知見」を得ようと努力する存在です。
高等遊民は、「上昇志向」のようなものは、失っていないのです。
※ただし、長井代助クラスになると、上昇志向は薄れます。後述。
『それから』の主人公、長井代助のプロフィールを詳しく
『それから』のあらすじについては、wikipediaに詳しいです。
ですが正直に言えば、見ることは全くおすすめしない。
あらすじが詳しすぎるからです。
非常におもしろい筋なので、ネタバレすると、全然面白くなくなってしまいます。
見ても良い、主人公の長井代助のプロフィールはこちら。
長井 代助(ながい だいすけ)
主人公。裕福な家の次男。東京帝国大学卒。
無職のまま実家に頼って、読書や演奏会に行くなどして気ままな生活を送る。
高等遊民と称される有閑知識人。数え年で30歳(第三章)。
身長は「五尺何寸」(約 1.51 m あまり。第八章)
自分の肉体を自慢に思っていて、大病の経験は無い(第十一章)。
口ひげを生やしている。
母はすでに亡い。
喫煙者。酒に強く、二日酔いにはならない(第十一章)。
住まいには専用水道の設備がある(第一章)が、電話はまだない。
ピアノを弾く。
洋書を読む。
象牙製のペーパーナイフを使う(第十章)。
神経質な敏感な性格。
長井代助に学ぶ、高等遊民の生活
適当に拾ってみますと、長井代助はこんな生活をしています。
- 枕元に花瓶を置く(椿の花)
- 丁寧に歯を磨く。
- 1日じゅう本を読む
- 音楽を聴きに行く
- 煙草(タバコ)をふかす
- 細君はもらわない
- 親に小さい家を買ってもらう
- 自分の恋愛のことばかり考える
- 世の中には出ているけど、世の中の種類が違う(労働者としては世に出ない)
- 食うに困ればいつでも降参する
- パンに関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だと思っている
- nil admirariの域に達する
- 盆栽・園芸をたしなむ
ろくでもない感じですね。
『それから』長井代助の生き方が、大正教養主義を担う文豪の志を生み出した
長井代助の生活。
箇条書きで生態を拾うと、ろくでもない感じです。
しかし、1909年。明治42年。
世は衝撃を受けました。
若き武者小路実篤や芥川龍之介たち。
若き文豪たちが、新しい人間像として憧れた人物。
それはまぎれもなく、夏目漱石の『それから』の長井代助でした。
代助は、かつての知識人であった、江戸の文人たちとはタイプが全く違いました。
長井代助とはこんな人間です。
- ヨーロッパの近代文明の根底を知っている
- その上で日本の文明開花に絶望している
- 期待も幻想ももたず、徹底して冷めた目を持つ
- 外国の最先端の思潮にも目を通している
- 文楽や芸術にも接している
- 日本のエリートたちと交わっている
それなのに決して、世の中の役に立つことはしません。
高等遊民として、自分の恋愛のことばかり考えている。
あくまで「自己本位」な人間です。
この点で、長井代助は、上昇志向がある意味では薄れています。(先ほど後述するといったところ)
こうして新しい知識人像が、夏目漱石の『それから』では提示されたのでした。
とはいえ、夏目漱石が意識的に提示したわけではありません。
「これが日本の新しい知識人像だ!」
などというような意識は持っていなかったでしょう。
しかし、大正時代に活躍することになる若き文豪たちは、
まさに『それから』の長井代助に夢を見ていたのでした。
この代助に対して、もう1人象徴的な人物が登場します。
それは、寺尾という男。
代助の友人、ジャーナリストです。
彼は、現代社会の功利主義に「身をすり寄せていく知的あり方」を表現する存在。
寺尾は小説によって、一旗あげようと言う志を持っています。
しかし仕事にかまけて、自分の志には正面から取り組みません。
翻訳やら何やら「食うためだ」と言って手をつけ
「やり始めてから3年になるが未だに名声あがらず窮窮行って原稿書きの生活を持続している」
語学力も怪しげなので、代助のもとへ聞きに来たりもします。
「結局何者にもなれないだろう。」
友人たちにもそう見られています。
自らの立派な志を「食べるために投げすてている」わけで、どう贔屓目に見ても、その姿はみすぼらしいものです。
(とはいえ、食うために生きることは全く否定されるべきではありません。)
その問題についてはこちらでも書きました。
(関連記事)【人は何のために生きる?食って寝るためだ!】田川建三『宗教とは何か』を読む
まとめ 長井代助の生き方は現代社会での「情報との付き合い方」を突き付ける
高等遊民
長井代助の生き方がそれ自体、
- 明治社会の高度経済成長的発想
- その根底にある英米系の功利主義
と厳しい対立関係を保って生きています。
これは、「現代社会の知のあり方にも関わる本質的な問題」です。
現代でも、
- 知にかかわるガジェットは英米から発信されている
- 現代の哲学も、英米系の思想が主流
『それから』の時代と、うり二つです。
このような、
- 長井代助
- 寺尾
という2人の人物によって、私たちは「知を求める人生」を生きるために
- 「いかにして志を立てるか?」
- 「いかにして情報社会と付き合うか?」
- 英米系の知識型社会をどのように批判するか?
その方法と態度を学ぶことができます。