マックス・ウェーバーの『プロ倫』は難しい?ポイントの要約と解説

      2017/02/07

 

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のあらすじや内容をコンパクトにまとめて要約解説します。

分厚い本ですが、決して堅苦しくて難しい本ではなく、ユーモアとセンスにあふれた楽しい本だと個人的には考えています。

 

『プロ倫』ほど人口に膾炙されながら、読まれていない本もありません。

この本には、まさにマーク・トウェインのこの言葉がぴったりなのです。

‘Classic’ – a book which people praise and don’t read.

「古典 誰もが褒め称えるが、誰も読まない本」

 

ベンジャミン・フランクリンの引用というユーモアセンス

さて、この本のテーマは「近代社会は資本主義によって成り立っており、その資本主義が生まれる歴史的起源の探求」とでも言えます。

さて、資本主義の精神の例示として、ベンジャミン・フランクリンの自伝の一節、「時は金なり」といった富を得るための教訓が引用されます。

このウェーバーのセンスの良さに私は度肝を抜かれました。

フランクリンという人間はいわゆるセルフヘルプ・自己啓発の権化のような人間です。そして自己啓発書は現代では「ビジネス書」に生まれ変わり、相変わらず生き残っている、それどころか猛威をふるっている、それどころか出版社の救世主となっています。

学問研究の世界で、自らの論文の中に、フランクリンの自伝を引っ張ってくるという、このウェーバーの度外れのセンスと勇気。これでわたしは一気にウェーバーに引き込まれてしまいました。

 

ベンジャミン・フランクリンに見る「資本主義のエートス」

資本主義社会で成功するのは、資本主義に適した生活態度(エートス)を身につけた人間であるとウェーバーは述べています。その生活態度とは、もうけを出すことを義務とみなし、それを怠るものを愚鈍とみなすにとどまらず、義務忘却者として倫理的に非難するような生活態度を指します。

 

ウェーバーが引用するフランクリンの言葉を少しだけ確信してみましょう。

 時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリングをもうけられる者が、散歩のためだとか、室内で懶惰(らんだ)にすごすために半日を費すとすれば、たとい娯楽のためには6ペンスしか支払わなかったとしても、それだけを勘定に入れるべきではなく、そのほかにもなお5シリングの貨幣を支出、というよりは、抛棄したのだということを考えねばならない。
信用は貨幣であることを忘れてはいけない。ある一人の人が、支払期日の過ぎてからもその貨幣を私の手もとに残しておく場合には、私はその貨幣の利息を、或いはその貨幣でその期間中にできるものを彼から与えられたことになる。もし信用が善且つ大で充分に利用されるとすれば、それが少なからぬ額に達することは明らかである。

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)より

 

フランクリンの正直さは本当にすばらしいです(笑)

ちなみに20世紀フランスの思想家ジョルジュ・バタイユも、自身の構想した「普遍経済学」の理念において、フランクリンを引き合いに出す箇所があります。

フランクリンの教訓は、見事に倫理的色彩を帯びている、とウェーバーは指摘します。もうけを得ることは、本来よき生を送るための手段であったはずが、資本主義の精神においてはそれ自体が目的化されているのです。

 

金儲けの精神は「予定説」から生じた

この一見倒錯した価値観はどこから生じたのでしょうか。ウェーバーはそれを、禁欲を旨とするプロテスタンティズムから生まれたと主張するのだから驚きです。

プロテスタントも色々ありますが、ウェーバーは、カルヴァンという宗教家が唱えた「予定説」というものが、資本主義の精神の誕生に大きく影響していると判断します。

「予定説」というのは悪名高い教えで、救われる人と救われない人、天国と地獄が既に決定されているという教えです。

この教えのせいで、天国に入るためにこの世で善行を積むといった従来の価値観が覆されてしまい、救済に関して個人は全く無力な存在になってしまう。どうしたら、自分が救われる側だと知ることができるのか。人々はこれが知りたくてたまらないわけです。

 

そこで言われたのが、自分は救われている側だと確信し、自らの職業に励むこと。与えられた職業に励むことこそ、宗教的使命である。というものでした。

この教えから次第に、禁欲的に職業に励む人は「宗教的使命=神の命令を全うする人」であり、怠ける人は「神に背く人」だとみなされ始めました。

要するに、

金儲けに励まない怠け者は、あの世でも罰せられる、ということです・・・。

(あの世の話ってそんなに都合よく書き換えていいものなのでしょうか?)

 

ともあれ、ここから「職業的な成功者=宗教的な成功者」とみなされ、世俗性と宗教性は時間の経過とともに重要度が逆転していきます(世俗性の支配)。

 

 

予定説の世俗化=「成功」のスポーツ化

世俗性の価値が、宗教性の価値を覆した局面。ここで生じるのが、資本主義の精神であるとウェーバーは指摘しました。

世俗化が一層進むと、職業に励むことについて、宗教的な理由を一切必要としなくなります。禁欲的に仕事に邁進する理由は、もともとは宗教的使命を全うするためでした。

それがいつの間にか、仕事に邁進しなければ人生の落伍者になり、社会的に非難されるから、というふうになります。職業に励むことの宗教的理由が抜け落ちてしまいました。

 

禁欲が要請されることに、もはや宗教的な意味づけは消え去り、単に効率的で確実な目標達成(=成功)のために効果的だからだ、とウェーバーは言います。

そして職業は効率性や確実性を競うスポーツのようなものとなる。私たちが生きているのは、禁欲の意味が詮索されない、禁欲的な文明の時代である。ウェーバーは結論においてそう述べています。

 

ウェーバーを心の慰めにしよう

わたしは生来怠け者なので、ずっと抱いていた産業社会への違和感を、ウェーバーがこれ以上ないほど説き伏せてくれたという感がありました。

それにしてもウェーバーの話を聞いていると、現代社会の価値観が決して普遍妥当性を持つものではないというふうにも感じられます。この「金儲けと怠け者」という図式は、現代日本の価値観にもありありと反映されていますからね。

なので、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、仕事で失敗したときの心の慰めの書と解釈することもで、この社会を乗り切って行くこともできるでしょう(?)

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