漱石の読書法の神髄がここにあります。
明治39年、『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊っちゃん』などを発表し、作家としてデビューしたての頃の文章です。
題名は「余が一家の読書法」。内容は、漱石が青少年向けの雑誌に書いた読書法の提案。
漢文調の文章なので読みにくいですが、ぼそぼそ声に出しながら読むと、割と頭に入るかと思います。
明治39年「世界的青年」への寄稿。青空文庫未収録。全文引用します。
新字新かな。私の判断で( )で読みがなをつけ、また読みやすいよう色付けや改行をほどこしました。
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余が一家の読書法
一 暗示を得来る事
読書の法、自ら種々あり。或は其書に記載せる所の事実及び学理を記憶し、若(もし)くは之を理解感知するを以て目的とするものあり。
これ又一方法たるを失わざるべし。然れども此他に於て亦(また)一種の読書法なしとせざる也。
余は必ずしも之を以て総(す)べての人々に適用せよと言うこと能(あた)わざるも、或(ある)創作を為(な)し、論文を草せんとするが如き場合に於て、多少功果ありと思わるる方法あり。
何ぞや、曰く自己の繙読(はんどく)しつつある一書物より一個の暗示(サゼッション)を得べく努むることこれ也。
唯漫然として書の内容を記憶し、理解するに止(とどま)らば、読書の上に何の功果かあらんや。故に或暗示を得んことを心懸けて、書に対すれば、吾人は決してその書の内容以外に何等の新思想、新感情を胎出すること能わざるようなる場合少かるべき乎。
仮令(たとい)その書の全部を読了せずとも、暗示だに得る時は、宜(よろ)しく之を逸せざるよう、消滅し去らざるように努めて、或は之を文章の上に現わし、若くはその思想を取纏むるを必須とす。
カントの哲学を読むに当りても、唯(ただ)彼の言う所のみを記憶して、其言語文字の中より一個の或暗示を得来らざれば、吾人終(つい)にカントの思想以外に独歩の乾坤(けんこん)を見出すこと能わざらん。
乃(すなわ)ち余の所謂(いわゆる)暗示を得んとする読書法に依る時は、如上の平凡に堕することを免れ且(か)つこれを活用することを得て、乱読家たるの譏(そしり)を受けざるに庶幾(しょき)からん。
されど余はこれを以て絶対的に一般功果を有すと断言せざるも、未だ之を知らざる青年諸子に対しては、多少功能ありと信ずる也。
二 思想上の関係を見出す事
青年諸子が其書を読むに当ってや、既読の甲書と、今現に繙読しつつある乙書との間に、何等かの関係を見出さんとするが如き心懸けあるや否やは、頗(すこぶ)る疑問也。
大抵のものは、両者が或方面に於て必然的に似合いたる箇所あることを発見せんと努めざるが故に、勢い読書の興味を減殺(げんさい)するのみならず、又一面に於て自家思想の散漫に流れ箱庭的に狭小となり、形式的、機械的の読書に堕することを防ぐ能わず、これ甚(はなは)だ不利益なる方法と言うべし、凡(およ)そ如何なる思想感情と雖(いえど)も、その間何等か共通の点を有し、磨滅すべからざる関係を保持せるに似たり。
例せば之を諺(ことわざ)の上に徴(ちょう)するも、「出る釘は打たれる」と言うが如き利害の事に関係せる俗諺(ぞくげん)と、「苟(いやし)くも道に戻らざれば、千万人と雖、吾往かん」と言える道徳上の金言とは、その間、何等の関係をも有せざるが如しと雖も、若(も)し前者が矢張(やはり)謹慎(プルーデンス)の徳より出でしを知らば、必ずしも後者と関係なしと言うべからざる也。
更らに之を文学上に於て見るに、アリストートル(アリストテレス)が『戯曲』(『詩学』)の上に於て整正(シンメトリー)と筋とを尊びしが如き見地と、マッシュ―アーノルドの戯曲上に於ける見解と、その間、一見関係なきが如く見ゆれども、之を歴史的に研究し、且つ一々相対照比較する時は、必ずやその間に於て、一個共通の関係あることを看取すべき也。
此方法も亦如何なる場合にも適用せよとは言わざるも、若し機械的詰込主義以外に立脚し、且つ読書の功果を収めんとする以上は、宜しく之を用いて、一個の新発見を為すも可ならずや。
しかし乍(なが)ら多くの青年諸君は、或甲書と乙書とが如何なる点に於て、関係あるや、漠然としてその共通点を見出すに疎慢(そまん)なるが故に、何時迄も甲乙両書が全く異なれる領分を有するものにして、何(いず)れも別々のものなりと見做すこと少なからず、勿論(もちろん)余の見る處(ところ)の庭前の松も、他の人が之を見る時は、又別様の感想を起すが故に、万人万種、其解釈を異にするは自然の帰結也。
されど之を同じ平面に置きて見る時は、必ずやその間に共通の点あるを看取すべき也。今二個の団扇(うちわ)を斜面的にその一端を相接せしむる時は、何れか契合点(けいごうてん)なるかを知る能わざれど、之を平面的に変ずる時は、明らかに両者の相接するところを見出すに苦しまざるべし。
青年諸子にして、這般(しゃはん)用意を以て書に対しなば、自ら別様の知識を得、且つ思想の散漫に失するを防ぐことを得ん。是又一方法也。
三 要訣
要之、右の読書法二則は、何れも機械的に詰込むと言うよりも、自発的態度と精神とを以て、その読書し得たる處より何等かの新思想を得、又一方には雑多なる智識を取纏めて一種の系統を得るように心懸くる處に、根拠を有する也。
これ「余一家の読書法」とも言うべき乎。若し此方法、精神を以て文学の書に対する時は、何等かの暗示、何等かの纏(まとま)りたる思想を得べく、又之によりて多大の興味を感ずべき也。
読書の理解を高める方法を漱石が提案!
以上が、「余が一家の読書法」の全文です。漢文調の読みにくい文章でしたが、内容はおおむね次のとおりです。
- 読書法は2つ。暗示を得ようとして読む。今まで読んだ本との関係を考える。
- 暗示を得ようとして読んだほうが、新しい知識や考え方を発見しやすい。
- 今まで読んだ本との関係を考えて読んだほうが、頭の中でバラバラの知識が系統的にまとまってくる。
- 要するに、読書は自発的(=能動的)な態度で行うべし。
- この読書法をあらゆる読書に適用しろとは言わないし、絶対に効果があるとも言わない。ただ何も知らないよりかはマシ。
相変わらず漱石は、自分の発言に責任を負わないというか、ちょっと身をかわして断定的な発言をしません。
愛読書は何か? と聞かれれば、「特にないけど好きな本なら・・・」と答える。(それを愛読書と言うんだ)
文章修業に役立つ本は何か? と聞かれても、「特にないけど好きな本なら・・・」と答える。(それを役に立った本と言うんだ)
↑の寄稿も同じ明治39年ですが、今回の「読書法」に対する寄稿は、おそらく↑2つから半年ほど経過しています。
雑誌が「中央公論」ではなく「世界的青年」という明らかに青年向け雑誌のためか、少しまじめに書いてくれたようです。
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さて、漱石が提案した読書法は、以下の2つにまとめられます。
読書法おすすめその1 気付きを得ようとして読め!
「暗示を得ようとして読む」とは、目的意識を持って本を読むということでしょう。
ただ漫然と読むのではなく、例えば次のような意識で読んでみる。
- 自分はなぜこの書籍を読むのか?(目的)
- この本から何を期待しているのか?(知りたいこと)
- この本に書いてありそうなことは何か?(知れそうなこと)
- 自分の知らないことが書かれているか?(新しい知識)
「問いを持って読む」ということに通じるものがあるかと思います。
そして自分の中で知らなかった事柄を発見できれば、「この本にはこういうことが書いてあった」と、頭の中で整理がつき、他人にも説明できます。
「全部読まなくてもいい」と漱石が言っているのも、魅力的です。
暇つぶしやエンタメとしての読書ももちろん価値あることですが、新たな知識を得るための読書を求めるならば、漱石の提案は役に立つかと思います。
読書法おすすめその2 既読本と関連付けて読め!
「若者たちが、今まで読んだ本と今読んでる本との間に、何か関係を見つけようとする意識があるかは、はなはだ疑問だ」
自分が今まで読んできた本と、現在新しく読んでいる本を、関係づけることが重要だと、漱石は述べています。
これは、先ほどの「暗示を得ようとする読書」よりも難易度が高い読書法かと思います。
- 第一に、今まで読んだ本を覚えていなければ、関係づけることができない。
- 第二に、興味に任せてノンジャンルに読んでいくと、互いの関係づけが難しい。
- 第三に、関係づけにそもそもある程度スキルや準備が必要(地頭とか経験とか)
- そして、何より疲れるし、面倒くさい読み方である。
いちいち関係を探しながら読むのはかなり骨が折れる作業ですが、有益なことは間違いありません。
たとえば、「漱石の提案する読書法を、これまで自分が身につけたり、学んだりした読書法と比較しよう」とする。
それならなんでもいいですがアドラー『本を読む本』であったり、加藤周一『読書術』であったり田中菊雄『現代読書法』と比較する。
そして、類似点・相違点を探して、新たな発見を得るべく努めてみる。
こういう風に、自分がすでに持っている経験や知識と照らし合わせて、新しい本を読んでいけば、自然と読書への興味が増すし、知識もまとまってくる。
反対に、何も考えずに読んでいたら、読んでいて段々興味がなくなってくるし、せっかく得た知識も実を結ばない。
漱石の2つの提案は主にインプットを意識したリーディングですが、そうした自発的・能動的な読書をする目的として、漱石はアウトプットを前提としています。
「或(ある)創作を為(な)し、論文を草せんとするが如き場合に於て、多少功果ありと思わるる方法あり。」
このように、創作や論文執筆をするにあたって、有益な読書法があるよと述べています。
漱石は英米文学の研究のため、ロンドンに留学していました。
その際に、英米の文学作品やその研究書を読むにあたって、こうした方法を自然と身につけていたのかもしれません。