日本文学を代表する作家・夏目漱石。
『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』、『こころ』などを教科書で読んだことがある人もいると思います。
そんな超有名人の夏目漱石ですが、どんな人生を送った人物かはあまり知られていません。
この記事では、そんな夏目漱石の代表作はもちろん、知られざる人生と人柄を紹介します!
順番に、
- 夏目漱石の生い立ちと生涯
- 夏目漱石の経歴や代表作品は?
- 【エピソード】夏目漱石の性格が分かる面白い逸話夏目漱石の経歴や代表作品は?
- まとめ 夏目漱石はどんな人物?おすすめ書籍や映画
について説明します。
これを読めば、夏目漱石の生い立ちや性格、作品についてより詳しく知ることができます。
また、夏目漱石の作品をもっと楽しんで読めるようになります。
ぜひご覧下さい!
夏目漱石の生い立ちと生涯
(引用元:新宿区立漱石山房記念館公式サイト https://soseki-museum.jp/soseki-natsume/sosekis-life/)
夏目漱石は、19世紀〜20世紀初頭の日本を生きました。
具体的には、
- 1867(慶応3)年9月24日(旧暦1月5日)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)で生まれる
- 1916(大正5)年12月9日、東京の新宿区早稲田南町で亡くなる
46年の人生を送りました。
夏目漱石は明治の人という印象が強いですが、江戸時代末の生まれだったんですね!
何か意外です。
夏目漱石は、町方名主(江戸の一部の町の管理を任される役人)の父・夏目小兵衛直克と母・千枝の5男として誕生しました。
生まれた時に両親から付けられた名前は夏目金之助で、夏目漱石はペンネームです。
この記事では、ややこしいので夏目漱石で統一します。
漱石は8人兄弟の中でも末っ子だったため、既に跡取りの長男がいる夏目家ではなく、子どものいなかった塩原家に養子に出されました。
この時わずか1歳です!
現代では考えられませんが、家の跡取りの存在が重要だった時代では当たり前のことだったのですよ…。
漱石は1868(明治元)年11月、塩原昌之助とやす夫妻の養子となり、正式に塩原家の跡取りとして戸籍も変更されました。
塩原昌之助は門前名主(江戸の町の一部の寺社仏閣の土地を管理する役人)で、夏目家とそれほど身分の違いはありませんでした。
だから漱石は塩原家に養子に出されたのでしょうね。
跡取りである漱石は塩原家で大切に育てられますが、3歳の時に天然痘という重い病気に罹ってしまいます。
その原因は予防接種を受けて発症したというのですから、本末転倒ですね。
この時天然痘が完治しても、痕が鼻の頭や頬に残ってしまいます。
漱石は、それ以外は特に何も問題なく幼少期を送りました。
昌之助も肩書きは変わりましたが、明治政府から土地を任される公務員という立場は変わらず、塩原家は比較的裕福な家庭でもありました。
しかし1874(明治7)年、夏目漱石が7歳の時に、塩原家で事件が起こります。
- 1月頃、昌之助が日根野かつという女性と浮気をしていることが発覚
- 養父母の仲が悪くなり、4月に養母やすが塩原家を出て行く
- 漱石は一時的に夏目家に戻されたり、昌之助とかつ、かつの娘と暮らしたりしなければいけなくなる
1875(明治8)年4月に塩原夫婦が正式に離婚するまで、漱石は大人の事情で様々な場所をたらい回しにされてしまうのです。
また、7歳のなる歳には小学校にも通い始めなければいけなかったため、幼い子どもには精神的に辛い環境でした。
周りの大人たちに「もっとしっかりしろよ!」とタイムスリップして喝を入れたくなりますね。私だけでしょうか?
とにかく漱石は、家庭環境が崩壊し夫婦が離婚してしまった塩原家の跡取りではなくなり、1876(明治9)年に夏目家に戻されます。
この時、漱石はわずか9歳ですが、既に波乱万丈の人生の予感がしてしまいますね。実際そうでしたし。
その後、漱石は
- 1879(明治12)年、東京府第一中学校正則科乙に入学
- 1884(明治17)年9月、17歳の時に東京大学予備門(東京帝国大学から一部の学部を分離した高等中学校のこと)に入学
と順調に進学し、優秀な成績を修めました。
しかし一方で、
- 1881(明治14)年1月、母・千枝が亡くなる
- 東京大学予備門(後に改称して第一高等中学校になった)に入学してまもなく、虫垂炎を患う
- 1886(明治19)年、19歳の時、胃病のため留年しなくてはいけなかった
- 1887(明治20)年、20歳の時、3月に夏目家の長男の大助が、6月には次男の直則が肺結核で亡くなる
- 同じ年の9月、漱石も伝染性の眼病であるトラホームに罹り、生涯眼病に悩むことになる
と自身を含めて家族共々病気に悩まされる日々が続きます。
いや~、健康って大事ですねと改めて思い知らされる経歴です。普段から健康でいることに感謝しなくては!
漱石はそんな病気に悩まされ、家族を失う悲しみにも負けずに勉強し、
- 1888(明治21)年7月、21歳の時に東京大学予備門(この時には既に第一高等中学校予科に改称していました)を卒業
- 9月に同じ学校の本科一部(文科)に進学し、英文学を専攻
しました。
後に夏目漱石を作家へと導く多くの出会いが、ここから始まります!
夏目漱石の経歴や代表作品は?
(引用元:修善寺 夏目漱石記念館公式サイト http://www.nijinosato.com/natumesouseki/kinenkan.htm)
さて、第一高等中学校本科一部に進学した漱石は、生涯の親友となる正岡子規と同級生になります。
そう!俳人として有名な正岡子規です!
明治を代表する文豪の2人がこんな所で出会っていたなんて、感無量ですよね…。
- 1888(明治22)年1月頃から、夏目漱石と正岡子規の交流が始まる
- 5月頃には、子規の和漢詩文集『七草集』に批評を書き入れるほど仲が良くなる
- この批評を書いた時に、「漱石」のペンネームを初めて署名した
- 9月には、子規にアドバイスを貰いながら、漱石も和漢詩文集『木屑録』を執筆した
もう影響与えまくりな2人じゃないですか!
ちなみに「漱石」というペンネームの意味は、「負け惜しみが強い頑固者」です。
覚えていると古典の授業の時に便利なので、学生の皆さんはここで覚えておきましょう!
- 1890(明治23)年7月、第一高等中学校本科一部を卒業
- 同年9月、国費の奨学生として帝国大学文科大学(現在の東京大学)英文学科に入学
- 1893(明治26)年7月、帝国大学文科大学英文学科を卒業
- そのまま、帝国大学大学院に進学
- 同年10月、高等師範学校英語の嘱託教員(契約社員のようなもの)になる
夏目漱石は順調に進学をしていきますが、庶民の感覚から言えば、当時の大学は今とは比べ物にならないくらい授業料が高いです。
その上、夏目漱石は27歳の頃から神経衰弱に悩むようになります。
トランプを使ったゲームじゃないですよ!
不眠症とか感情の急変とかが起こる精神病ですから、そこは間違えないように!
そんな中、漱石は国から奨学金を受けたり、一時的に東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をしたりしながら学業に励みました。
漱石の努力が実り、
- 1895(明治28)年、28歳の時に愛媛県尋常中学校に英語教員として赴任する
- この頃から、子規に自分が書いた俳句の原稿を送り、添削を依頼するようになる
- 1896(明治29)年、熊本市の第五高等学校に赴任
当時としては絵に描いたようなエリート街道を爆走します。
プライベートでも
- 1896(明治29)年6月、貴族院書記官長(要するに議員のすごく偉い人)中根重一の長女・鏡子とお見合い結婚をする
- 東京にいる子規に俳句の原稿を送り、添削してもらう
- 俳句の会にたびたび出席する
- 1896年頃から新聞『日本』に多くの俳句が掲載され、正岡子規と同じく俳人として有名になる
- 1899(明治32)年5月、32歳の時に長女・筆子が誕生
充実した日々を送っていました。
そんな中、英語教員としてエリート街道を走る夏目漱石に、ある転機が訪れます。
- 当時の政府は、開国したばかりで、欧米に追いつくために外国語が出来る人材を育てたい
- そのために、英語教育の方法を研究しなくてはいけないと考えた
- 国費の留学制度を作り、優秀な人材を外国で学ばせることにした
- 第1回目の留学生として、漱石にイギリスへ留学するようにと指示した
1900(明治33)年9月、漱石は33歳の時に、妻子を日本に残してイギリスへ行きました。
そこでは、日本で味わうことが出来ない多くのことを経験します。
- 漱石は主にロンドンに下宿して、英語教育の現場を研究した
- 病床の正岡子規への手紙で、ロンドンのことをたくさん書いて教えた
- 同じような手紙を俳人の高浜虚子にも送っていた
- 2人に書いた手紙は、文芸雑誌『ホトトギス』に掲載された
- 1901(明治34)年5月頃、化学者の池田菊苗と同じ宿に下宿する
- 自分の頭の中で「文学論」の構想を練る
- 菊苗は化学に留まらないたくさんの知識の持ち主だった
- 菊岡と仲良くなった漱石は、違う分野の学問の知識を身につけることに興味を持った
当時はインターネットなどなく、ロンドンについて知ることが出来る機会などほとんどありませんでした。
夏目漱石から手紙を貰った正岡子規も高浜虚子も、『ホトトギス』の記事を読んだ読者も嬉しかったでしょうね。
しかし1902(明治35)年9月、結核に苦しんでいた親友の正岡子規が亡くなります。
その後の夏目漱石は、
- 正岡子規が亡くなったショックで、神経衰弱が悪化する
- ロンドンから日本に、夏目漱石の病状が伝えられる
- 留学は中断され、同年12月に帰国の途に着く
自分が異国にいる間に大親友が亡くなったと知ったら、誰だって落ち込みます。
その上、夏目漱石は神経衰弱を元々患っていました。
ダブルで大打撃が来てしまった訳です…。そりゃ帰った方がいいってなりますよ。
帰国した夏目漱石は、少しの療養の後、
- 1903(明治36)年4月、東京帝国大学文科大学講師、第一高等学校英語嘱託として教鞭を取る
- 9月、ロンドンにいた時に構想を練っていた「文学論」の講義を開始する
- 1904(明治37)年9月、明治大学高等予科講師を兼任
など、ロンドンで得たことを元に教師として働きます。
もちろんほんの少しの休養で神経衰弱が治った訳ではなく、良くなったり悪くなったりという状態をずっと繰り返しています。
その頃、プライベートの方はどうだったのかというと
- 1903(明治36)年10月頃から水彩画を始める
- 同年11月、三女・栄子が誕生
- ちなみに、次女・恒子は漱石が留学のために出立した4ヶ月後、1901(明治34)年1月に生まれている
- 漱石の神経衰弱の病状を見た高浜虚子は、何か俳句以外の物も執筆して気を紛らわせることを提案する
- 高浜虚子のアドバイスを受け、夏目漱石が書いた作品が『吾輩は猫である』
など、神経衰弱をどうにかしようと色々なことに手を出しています。
そんな中で、有名な作品『吾輩は猫である』は創られたのです!
治療のために書かれた文章だったとは、意外や意外ですね。
とにかく、ここから夏目漱石の作家人生が始まるのです!
- 1905(明治38)年1月〜1906(明治39)年8月、『吾輩は猫である』が文芸誌『ホトトギス』に断続連載されると、人気が出る
- そこで他にも作品を書いて、新聞や雑誌に寄稿する
この頃に書かれた作品は、
- 1905年1月『倫敦塔』『カーライル博物館』、4月『幻影の盾』、5月『琴のそら音』、9月『一夜』
- 1906(明治39)年1月『趣味の遺伝』、4月『坊ちゃん』、9月『草枕』、10月『二百十日』
などが挙げられます。
これらの作品で好評を得た夏目漱石は自信を持ち、
- 1907(明治40)年3月、40歳の時に東京帝国大学教授就任の話を蹴り、4月に朝日新聞社に入社する
- それ以降は『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』で作品を発表する
- 同年5月、『文学論』を刊行する
- 6月〜10月、『虞美人草』が連載される
- 1908(明治41)年1月〜4月、『坑夫』が連載される
- 同年6月、『文鳥』を発表
- 同年7月〜8月、『夢十夜』が連載される
- 同年9月〜12月、『三四郎』が連載される
- 1909(明治42)年3月、『文学評論』を刊行
- 同年6月〜10月、『それから』が連載される
次々と作品を発表していきます。
私生活では、
- 1905(明治38)年12月、四女・愛子が誕生
- 1907(明治40)年6月、長男・純一が誕生
- 同年9月、東京府牛込区早稲田南町(現在の新宿区)に引っ越す
- そこで文人たちが木曜日午後3時以降に集まって交流する「木曜会」を開いた
- そのため、漱石の自宅は「漱石山房」と呼ばれた
- 1908(明治41)年12月、次男・伸六が誕生
しました。
漱石山房の間取り図および写真
(引用元:Web版夏目漱石デジタル文学館公式サイト https://www.kanabun.or.jp/souseki/sanbou.html)
この頃まであまり病魔は目立ちませんでしたが、その反動のように夏目家に悲劇が一気に襲いかかります。
- 1910(明治43)年3月、五女・ひな子が誕生
- 同年6月〜7月、漱石は胃潰瘍のため入院
- 同年8月、療養先の伊豆で吐血し、一時は危篤状態になる
- そのため10月〜1911(明治44)年1月まで再入院する
- 1911(明治44)年8月、講演旅行中に吐血し、大阪の病院に1ヶ月間入院する
- 同年9月、痔の手術を受ける
- 同年11月、五女・ひな子が急死する
その後も一生、夏目漱石は胃腸炎と神経衰弱に悩ませられ続けます。
しかしこの時漱石が一番ショックを受けたのは、五女・ひな子の急死です。
それは親として当たり前のことですよね…。
神経衰弱と胃腸炎に子どもを亡くすというショッキングな出来事が加わったことで、夏目漱石の体調はどんどん悪くなります。
- 1912(明治45/大正元)年9月、痔の再手術を受け、入院する
- 1913(大正2)年4月、胃潰瘍を再発し、神経衰弱が悪化する
- 1915(大正4)年3月〜4月、京都を旅行中に胃痛で倒れる
もう見るだけで痛々しい病歴ですね…。
それでも夏目漱石は執筆活動を続けたのですから、大したものです。
- 1912(明治45/大正元)年1月〜4月、『彼岸過迄』が連載される
- 同年12月〜1913(大正2)年11月、『行人』が連載される
- 1913(大正2)年9月〜11月、病気のため執筆を中断されていた『行人』最終編『塵労』が連載される
- 1914(大正3)年4月〜8月、『心 先生の遺書』が連載される
- 同年9月、『心』が出版される
- 1915(大正4)年1月〜2月、『硝子戸の中』が連載される
- 同年6月〜9月、『道草』が連載される
- 1916(大正5)年5月、『明暗』の連載が開始される
しかし、夏目漱石の身体は既にボロボロでした。
実際、
- 1916(大正5)年11月12日、連載作品『明暗』の第189回目の原稿を執筆しようとした時、胃潰瘍の再発で倒れる
- その後、机に向かっても原稿用紙に1字も書くことが出来ない
状態になりそのまま
12月9日、自宅(漱石山房)で胃潰瘍のため亡くなりました。
49年の生涯でした。
そんな病気と闘いながら夏目漱石が書いた作品の中でも代表的な物は、「前期三部作」と呼ばれる
- 『三四郎』
- 『それから』
- 『門』
です。
他にも、
- デビュー作『吾輩は猫である』
- ユーモア小説『坊ちゃん』
- 朝日新聞入社後に初めて書いた作品『虞美人草』
- 短編集『彼岸過迄』
- 短編集『こゝろ』
- 自伝的小説『道草』
- 未完の遺作『明暗』
- スケッチ作品『硝子戸の中』
などが有名です。
後で詳しく紹介しますので、興味がある方は是非ご覧下さい!
【エピソード】夏目漱石の性格が分かる面白い逸話
(引用元:[フリー写真] 1914年12月に撮影された夏目漱石 https://publicdomainq.net/natsume-soseki-0023373/)
さて、夏目漱石の性格ですが、経歴を見ると
- 頑固
- 精神的な面で弱い
- 優秀
- 家族想い・友だち想い
- 社交的
だと分かります。
それぞれ、
- 東京帝国大学教授の職を蹴り、朝日新聞社に入社した
- 精神衰弱に悩まされ、友だちや家族が亡くなった時に病状は悪化した
- 英語教員として当時としてはエリートコースを爆走した
- 五女のひな子の急死、親友である正岡子規の死では、神経衰弱が悪化するほど悲しんだ
- 「漱石山房」で開かれる「木曜会」には様々な分野で活躍する人々が集まり、交流を深めた
というエピソードから分かることです。
特に「木曜会」には、
- 評論家・政治家の赤木桁平
- 小説家の芥川龍之介
- 哲学者・評論家の阿部次郎
- 哲学者・評論家・教育者の阿部能成
- 岩波書店創業者の岩波茂雄
- 小説家・随筆家の内田百聞
- 小説家・評論家の江口換
- 文藝春秋社創設者の菊池寛
- 小説家・劇作家の久米正雄
- ドイツ文学者・評論家の小宮豊隆
- 小説家・童話作家の鈴木三重吉
- 俳人・小説家の高浜虚子
- 画家の津田青楓
- 物理学者・随筆家の寺田虎彦
- 小説家・詩人・随筆家の中勘助
- 能楽研究者・英文学者の野上豊一郎
- 教育者の野村伝四
- 英文学者・俳人の林原耕三
- 小説家の松岡譲
- 俳人の松根東洋城
- 小説家の森田草平
- 哲学者・文化史家・倫理学者の和辻哲郎
など、後世にも名を残すような人々が集まったのです。
てか漱石さん、交友関係広すぎ…。
あと、意外にも夏目漱石はグルメで、食事にこだわりがありました。
- 夕食には必ず牛すき焼きを食べた
- お汁粉の飲み過ぎで盲腸になった
- 朝食には必ずトーストを食べた
- 自宅の裏庭にアイス製造機を設置していた
- 豚汁の中に餡子を入れた友人と絶交した
- 大好物は、落花生を砂糖で固めたお菓子
- 1ヶ月で4kgのジャムを食べた
正直に言って、甘い物の食べ過ぎです…。
病気続きだったのは、食生活にも問題があったのではと思わせられます。
ちなみに食べることが大好きだったのは筋金入りで、最期の言葉は「何か喰いたい」だったそうです。
もっと他にあるだろ!
夏目漱石は神経衰弱に悩んでいたため、「繊細な人だったのかな?」と思いますよね?
実は、かなりいい加減な一面もある人でした!
- 飼い猫のことは「ねこ」と呼んでいた
- それなのに、飼い犬には「ヘクター」と名づけていた
- 飼い猫が死んだ時、墓標には「猫の墓」と書かせた
- 愛媛県尋常中学校で英語教師をしていた時、2年間の授業で、教科書3章分しか内容が進まなかった
猫の扱い酷すぎ…。
『吾輩は猫である。名前はまだない。』って飼い猫のことだったんかい!
と思ったら、本当に飼っていた黒猫が『吾輩は猫である』の猫のモデルでした…。
まあ、甘い物好きで少しズボラな所があるけれど、情に深くて愛されキャラな作家だったんですね!
まとめ 夏目漱石はどんな人物?おすすめ書籍や映画
夏目漱石の経歴と生い立ち、面白いエピソードについて紹介しました。
ここで夏目漱石について簡単にまとめておきますね!
- 幕末に生まれ、明治に生きた作家
- 俳人の正岡子規とは大親友
- 38歳の時に『吾輩は猫である』で作家デビューするまで、英語教師をしていた
- 神経衰弱と胃腸炎に一生悩まされていた
- 神経衰弱の酷い症状を見た俳人で友人の高浜虚子に、治療の一環として物語を書くことを薦められたのが作家になるきっかけだった
- 『吾輩は猫である』の猫のモデルは、「ねこ」と呼ばれていた夏目家の飼い猫
- 作家として活躍した期間は、わずか12年間
- グルメで甘い物が大好き
- 社交的で、自宅で「木曜会」という会を開き、様々な分野で活躍する人々と交流した
- 最期の言葉は「何か喰いたい」
明治時代を代表する作家である夏目漱石は、ユニークで社交的で食べることが大好きで、どこか人を和ませる愛されキャラの持ち主だったんですね。
そんな夏目漱石が書いた作品を改めて読んでみたくありませんか?
「夏目漱石の作品を読んでみたいけど、何から読んだらいいか分からない…。」という人に、私のお薦めをご紹介します!
<入門編>
『吾輩は猫である』(出版社:宝島社)
- 夏目漱石のデビュー作
- 名前がない猫「吾輩」の視点を通して見た、人間たちの生活を風刺的に描いた作品
- 飼い主である英語教師の珍野一家や彼らに関わる人々の様子が、平易で面白い文章で書かれている
『坊ちゃん』(出版社:新潮社)
- 松山での教師生活を元に書いた作品
- 主人公の「坊ちゃん」が中学校の数学教師として四国に赴任することになり、そこで騒動を巻き起こす
- 教頭の陰険さ、生徒たちの嫌がらせを持ち前の無鉄砲さで解決していく「坊ちゃん」の手腕は爽快
- 夏目漱石の作品の中でも、最も大衆にウケた小説
『文鳥・夢十夜』(出版社:新潮社)
- 『文鳥』は、文鳥を飼い始めた夏目漱石と、木曜会に参加するメンバーの中でも鳥好きな人々との間で起こる出来事を書いたエッセイ
- 夏目漱石や彼の周りの人々の性格がよく分かり、1人の人間としての漱石を感じることが出来る
- 『夢十夜』は、10の自由でファンタジー色溢れる短編で構成されている
- それぞれの話に繋がりはなく、登場人物も舞台もまとまりがない
- 漱石自身が見た夢なのか、創造した話なのかは不明
- 美しい日本語で、昔話のような世界観を楽しめる作品集
<中級編>
『三四郎』(出版社:新潮文庫)
- 明治末期に上京した青年・三四郎が主人公
- 田舎とは別世界に見える東京で繰り広げられる世界が描かれる
- 現代日本で上京した人にとっても「東京は田舎と違い、まるで別世界である」と感じた時のことを思い出させるような作品
『それから』(出版社:新潮社)
- ニートである主人公の代助に、友人の平岡が失業したため仕事を紹介してほしいと頼み込む
- 代助は新聞社の仕事を紹介して、平岡夫妻を自分の家に住まわせる
- 平岡の妻である三千代に恋をした代助が、三千代に告白するまでの葛藤が描かれる
- 青年の心理的な葛藤や心の痛みが見事に描かれ、読者は物語に引き込まれる
『門』(出版社:新潮社)
- 『三四郎』『そらから』と並んで「前期三部作」と呼ばれる作品の1つで、『それから』の続きに当たるような内容
- 主人公の野中宗助は、親友だった安井から恋人を奪い、妻としていた
- 恋人を宗助に奪われた後、安井は姿を消し、宗助は罪の意識に苛まれていた
- そんな中、安井の消息が分かり、宗助は安井の元へと向かう
- 宗助の姿は罪を犯してしまったために救いを求める人間の姿であり、人によって賛否両論の意見が出る
- 罪を犯した人間は救われるべきかどうかという、普遍的な問いかけを考えさせられる作品
<上級編>
『こゝろ』(出版社:集英社)
- 三部構成の長編小説で、夏目漱石作品の中では1番売れている作品
- 主人公の「私」は、夏休みに奥さんと静かに暮らす「先生」と出会う
- 「先生」は頑なに自分の過去を話そうとしないが、「来るべき時に話す」と「私」に告げた
- 父親の容態が悪化したため実家に帰省した「私」の元に突然、「先生」の遺書が届く
- 人間のエゴイズムとそれに対する心の葛藤がテーマ
- また、三部を読んだ後に一部の「先生」の言動を読み返すと更に楽しめる構成になっている
- 教科書にも採用されているため、読んだことがある人が多い作品
『明暗』(出版社:新潮社)
- 夏目漱石が書いた最期の作品で、未完の小説
- 会社員の津田由雄は自分の手術費を工面しようとするが、親も妹も頼ることが出来ない
- 由雄の夫婦関係も不安定
- 視点が1人に定まっておらず、様々な登場人物たちの視点から物語は語られる
- それぞれの登場人物たちが持つエゴイズムと、人間関係の難しさが描かれている
『夏目漱石、かく語りき』(出版社:響林社)
- 夏目漱石の学生時代を回想したエッセイ集
- 5章で構成されている
- 優秀で帝国大学を卒業し、イギリス留学までした夏目漱石ではなく、等身大の1学生としての夏目漱石の青春が描かれている
- 夏目漱石をより身近に感じることが出来る1冊
また、夏目漱石の作品の多くは映画化もされています。
「いきなり小説を読むのはちょっと…。」という方は、映画から入ってみてはいかがでしょうか?
私がお薦めする夏目漱石作品が原作の映画を紹介します!
『吾輩は猫である』(監督:市川崑、販売元:東宝)
- リアルな猫の視点から見た人間社会を痛快に描いている
- 原作に忠実で、自分が本当に猫になったような気持ちで観れる
『坊ちゃん』(監督:前田陽一、販売元:松竹)
- 何度も映画化されている人気作品
- 「坊ちゃん」のたった1ヶ月の教師生活を、原作に忠実で、濃厚なエピソードでまとめ上げている
他にもたくさんの映画がありますが、夏目漱石の作品に初めて触れる方には、この2本がお薦めです。
時代を超えて愛される夏目漱石の作品の世界観に、ぜひ触れてみませんか?
以上、「夏目漱石の経歴や性格はどんな人物?生い立ちやエピソードが面白い」でした!
参考文献
新宿区立漱石山房記念館ホームページ http://soseki-museum.jp/
Web版夏目漱石デジタル文学館ホームページ https://www.kanabun.or.jp/souseki/
新!夏目漱石 新潮文庫 https://www.shinchosha.co.jp/souseki/