新渡戸稲造という人をご存知ですか?
「誰それ?」「聞いたことない名前なんだけど…。」という方が多いですよね。
実は新渡戸稲造とは、『武士道』という本を書いた人です。
『武士道』という本のタイトルなら聞いたことがある人が多いですよね?
では、『武士道』を書いた新渡戸稲造とは一体どんな人だったのでしょうか?
この記事では、
- 新渡戸稲造の生い立ちと生涯
- 新渡戸稲造の経歴や代表作品は?
- 【エピソード】新渡戸稲造の性格が分かる面白い逸話新渡戸稲造の経歴や代表作品は?
- まとめ 新渡戸稲造はどんな人物?おすすめ書籍や映画
について紹介します。
これを読めば、新渡戸稲造の生い立ちや性格、面白いエピソードについて知ることができます。
また、難しいイメージがある『武士道』についても紹介しますので、新渡戸稲造の生涯を知った上で読んでみると、更に面白く読むことができるようになります!
それでは、新渡戸稲造についての記事を、ぜひご覧下さい!
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新渡戸稲造の生い立ちと生涯
(引用元:新渡戸記念館公式ホームページ http://www.nitobe.jp/inazo/index.html)
新渡戸稲造は、19世紀後半から20世紀前半を生きました。
具体的には、
- 1862(文久2)年8月3日(新暦9月1日)、南部藩(現在の岩手県)盛岡鷹匠小路下ノ橋で生まれる
- 1933(昭和8)年10月16日、カナダのビクトリアで亡くなる
71年の人生を生きました。
稲造は何と、幕末生まれなのです!
激動の時代に子ども時代を送ったのですね〜。
稲造は父・十次郎と母・せきの三男として誕生しました。
兄弟は姉5人、兄2人で、稲造は8人兄弟の末っ子です。
小さい頃は元気いっぱいに遊び回り、やんちゃな性格の男の子でした。
幼少期はこのくらい元気な方が良いですよね。
新渡戸家は鎌倉時代から続く由緒ある武士の家系で、地元・南部盛岡藩では身分が高い家柄でした。
そのため、稲造は時代が時代なら、立派な武士になったかもしれない人物なのです。
また新渡戸家は、南部盛岡藩の中では土地が痩せていてあまり作物が取れない三本木原の開拓に着手し、見事成功させました。
さらに三本木原で新しい産業を興そうとしていたのですから、懐を肥やすことしか考えていないような悪代官に比べたら立派な武家の人々ですよね!
ちなみに江戸時代には、子ども時代には親から名づけられた名前である幼名を名乗り、成人してからは改めて大人としての名前を名乗る習慣がありました。
稲造も例外ではなく、彼の幼名は稲野助と名づけられましたが、この記事では稲造の名前で統一します。
1867(慶応3)年、稲造がわずか5歳の時に父・十次郎が亡くなってしまいます。
つまり、新渡戸家の大黒柱がいなくなってしまったのです。
稲造の母・せきは、盛岡藩の中でも賢い女性
しかし稲造の母・せきは、盛岡藩の中でも賢い女性として知られており、一家を支えて子どもたちの教育に力を注ぎました。
この時代に、せきの様に自分の意志で地に足を踏む行動を取る女性は、珍しい存在です。
というのも、身分が高い家に嫁ぐような女性には教養が必須で、使用人たちや家のことを取り仕切るリーダーシップも必要とされました。
せきはその任務を立派に果たした女性だったのです。
いつの世も女性は強いですね〜。特に子どもを持つ母親ってホントに強いですよ…。
話が逸れてしまいましたが、そんな母親の教育の元、稲造はスクスクと育ちました。
「父や祖父の子と言われるように、偉い人にならねばなりません。」
せきは稲造に「父や祖父の子と言われるように、偉い人にならねばなりません。」と言い聞かせ、稲造もそんな母の教えを生涯胸に留めます。
良いお母さん!
さらに稲造の祖父も、子どもたちの教育を協力しました。
- 1871(明治4)年、稲造が9歳の時、祖父の勧めで東京に行き、学問を修めることになった
- そのために稲造は東京に住む叔父・太田時敏の養子になり、上京した
- 東京での勉強の中で、稲造は語学の分野で頭角を表す
1875(明治8)年、13歳の時に東京英語学校に入学
優秀な稲造は、1875(明治8)年、13歳の時に東京英語学校に入学します。
そこで稲造は、
- キリスト教思想家となる内村鑑三
- 植物学者となる宮部金吾
など、後世にも名を残すような人物たちと友人になります。
この3人、本当に仲が良かったんですよ〜。
3人のうちの1人についてだけでも詳しく知っている人にとっては、もはや常識になっているレベルですなんです!
卒業後の稲造進路
- 三本木原の土地開発をした先祖の意志を継ぎ、農学を修めたいと考えた
- 1877(明治10)年、札幌農学校に入学した
- 札幌農学校には、親友の内村鑑三と宮部金吾も一緒に入学した
- 札幌農学校に入学する条件だったため、キリスト教の洗礼を受け、信者になった
という進路を選びます。
てか、あんたら仲良すぎでしょ…(笑)。
一方、稲造は9歳の時に上京してから
- 1度も帰郷せず、学問に励んだ
- 母・せきとは手紙でのやり取りしかしていなかった
ため、札幌農学校時代の1880(明治13)年、18歳の時に帰省することにしました。
しかし、稲造が出発して直ぐに「ハハキトク」という電報が札幌に届き、入れ違いになった稲造が故郷で対面したのは、既に息を引き取った後の母親の遺体でした。
何の心の準備もしておらず、母に会うことを楽しみにしていた稲造は、大変なショックを受けます。
そりゃそうだ!
その後の人生で稲造は、
- 母からもらった手紙を大切に保管した
- 母の命日には部屋に引きこもって熱心に手紙を読むようになった
など、母親の死に目に会えず、恩返しも出来なかったことを生涯悔やむことになります。
お母さんを大切にする素敵な息子だったんです…。
何て切ない!
その後、稲造はお母さんの教えを守り、後世に名を残す実績を築いたのです。
次に新渡戸稲造がどんな人生を送ったのかを紹介します!
新渡戸稲造の経歴や代表作品は?
(引用元:新渡戸記念館公式ホームページ http://www.nitobe.jp/inazo/index.html)
さて、1881(明治14)年に札幌農学校を卒業した稲造は、
- 開拓使御用掛
- 農商務省御用掛
- 成立学舎の英語教師
などの仕事に就きます。
しかし、得意な英語と札幌農学校で学んだ農学をもっと勉強したかった稲造は、
- 東京帝国大学(現在の東京大学)の入学試験を受け、見事に合格した
- 入学試験の面接で、面接官に「太平洋の橋になりたい」という言葉を言った
- 大学では英文学の他に、経済学・統計学を学び、農業の研究に活かそうとした
- しかし、当時の日本の大学で学べる知識だけでは飽き足らず、1年後に大学を中退
- アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学した
という経緯を経て、知識を求めて世界に飛び立ったのです!
スゴい行動力…。
そもそも、開国したばかりの日本には、大学と言えども
- ほとんどの専門書はまだ翻訳されていない
- 同時に日本では洋書は中々手に入らない
- そのため大学教授の知識も、欧米列強に比べて2〜30年分遅れていた
事情があり、稲造は東京帝国大学でこのことに気づいてしまったのです。
アメリカに渡った稲造
- 経済学
- 農政学
- 歴史学
- 英文学
などを意欲的に学びました。
また、キリスト教徒でもある稲造は、勉学の合間にもきちんと教会に通いました。
メリー・エルキントンと出会い
そしてそこで、メリー・エルキントンという女性と出会い、2人は恋に落ちます。
しかしメリーの両親は、日本人である稲造と娘が結婚することには反対で、2人が結婚するには厚い壁が立ちはだかっていました。
そんな中、1887(明治20)年、稲造は母校でもある札幌農学校から、ドイツに留学することを命じられます。
稲造は、
- ボン大学
- ベルリン大学
- ハレ大学
に留学し、
- 農政学
- 農業経済学
- 財政学
- 統計学
などを3年間かけて学びました。
そして1890(明治23)年、『日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について』という学位論文を提出し、
- 文学士
- 哲学博士
の称号を与えられました。
更にこの頃、日本では
- 稲造の兄であり、新渡戸家の長男・七郎
- 次男の道郎
が亡くなり、稲造は養子に入っていた太田家の跡取りから新渡戸家の跡取りとなります。
この時、名字も新渡戸に戻りました。
しかし稲造はすぐに日本には戻らず、
- 留学期間を半年延長することを希望
- ジョン・ホプキンス大学に戻る
- 『日米関係史』を執筆し、出版する
- 1891(明治24)年、フィラデルフィアでメリー(日本人名として万里と名乗る)と結婚
した後に帰国しました。
帰国後の稲造
- 札幌農学校の教授になる
- 農学関係科目、語学の科目を教える
- 他にも、教授主任や図書主任になる
などの多忙な日々を送ります。
そんな中
- 1892(明治25)年、長男・遠益が誕生
- しかし遠益は、誕生からわずか1週間後に亡くなってしまう
悲しい出来事があり、新渡戸夫妻は悲しみに暮れました。
子どもを失った悲しみから立ち直れなかった1893(明治26)年のある日、
- エルキントン家から突然の連絡が入る
- その内容は、エルキントン家で引き取った孤児の女性が亡くなり、残された財産はメリーに相続されることになったというもの
- 新渡戸夫妻は1000ドルもの遺産の使い道を相談し、無料の夜間学校を作ることにした
- 亡くなった遠益への想いから、2人は子どもの教育に力を入れたいと考えた
新渡戸夫妻が創立した夜間学校は、「遠友夜学校」と名づけられ、
- 札幌農学校の生徒を中心としたボランティアたちが教師を務める
- 授業料は無料
- 学業に必要な道具も全て提供する
今の公立学校も顔負けな教育システムで運営されました。
これ、国の偉い人たちにも見習ってほしいシステムです…。
1897(明治30)年、過労による脳神経症を患う
稲造は札幌農学校と遠友夜学校の仕事をこなしていましたが、身体が激務に耐えきれずに、
- 1897(明治30)年、過労による脳神経症を患う
- 仕事を休職し、鎌倉で療養しなくてはいけなくなる
状況になりました。
療養で手持ちぶたさになった稲造は、何と
- 『農業発達史』
- 『農業本論』
などの本を執筆しました。
いや、療養しろよ!
もはやワーカーホリックの領域です…。
その後も
- 札幌農学校の教職を退職し、カリフォルニアに渡って療養する
- その間に名著『武士道』を執筆する
という具合に、稲造の仕事ぶりは衰えません。
『武士道』どんな内容の本なのかを簡単にまとめ
ここで有名な『武士道』が出てきましたね。
タイトルは有名ですが、どんな内容の本なのかを読んだことがない人のために簡単にまとめますね!
- 日本古来から伝わる武士道が、日本人の倫理観や文化を支えてきたことをまとめた内容
- 武士道を外国人にとって分かりやすく書いており、外国人に日本のことを理解してもらうことを目的に書かれた作品
- 『武士道』は英文で書かれてベストセラーとなり、様々な言語に翻訳された
- 『武士道』に書かれた内容は稲造の目線から見た武士道であり、実際の武士の規範や思想とズレている点もある
稲造は留学生時代に、
- 「日本から留学してきた」と現地の人に言うと、相手は日本がどこにあるのか全く知らなかったり、日本は中国の一部と勘違いされることが多かった
- 日本の知名度の低さを嘆き、いつか日本のことを世界の人々に知ってもらうように努力しようと誓った
のです。
時間があった療養期間は、日本のことを外国人に知ってもらうための本を執筆するには正に絶好のチャンスだったのですね!
一方、それまでの功績が認められ、稲造の努力が身を結ぶ時が来ました。
- 1899(明治32)年、日本初の農学博士になる
- 台湾総督府で働いてほしいと政府から懇願され、引き受ける
そこで天狗にならないのも、彼の凄い所です。
台湾では、
- 「住民の利益を尊重する」土地改革をしようと考えた
- その上で『糖業(サトウキビから取れる砂糖を輸出する事業のこと)改良意見書』を総督府に提出した
- 稲造の意見書を参考にして行われた政策で、台湾糖業の売上が伸びた
という結果を出しました。
また、
- 1903(明治36)年、台湾総督府臨時糖務局長と京都大学の教授を兼任する
- 1904(明治37)年、京都大学教授専任になる
- 1906(明治39)年、法学博士となる
- 同年、東京帝国大学農科教授と第一高等学校の校長を兼任する
など、次第に教育者としても頭角を表しました。
札幌農学校時代にも遠友夜学校を設立したほどなので、稲造も若者の教育に力を入れたいと考えていたのです。
稲造の教育方針の特徴
- 「知識偏重の教育」よりも「人格教育」を重視
- コモンセンス(常識)の重要性を教える
- 生徒の自由と自主性を尊重
などの点が挙げられます。
パッと見て分かるように、欧米式の教育ですね。
元々の日本の教育システムには、生徒の自由や自主性を重視する風潮はなかったのですから。
しかし稲造の教育方針は、従来の教育方法を重視する人々にとっては有り得ないことばかりでした。
そのため稲造は、一部の人々から精神的な圧力を受け、
- 1913(大正2)年、第一高等学校の校長を退職
- 東大の専任教授になる
しかなくなったのです。
いつの時代も新しい考え方の人のことを理解できない、器の小さな人間っているものですね〜。
そんな圧力ぐらいで、稲造への信頼が揺らぐことはありませんでした。
- 1911(明治44)年、初の日米交換教授に選ばれ、アメリカの大学で講義を行う
- 当時遅れていた女子教育を普及させたいと考え、『婦人にすすめて』を執筆した
- 1918(大正7)年、東京女子大学の設立に協力し、初代学長に選ばれる
- 1920(昭和3)年、札幌農学校時代の教え子である森本厚吉と協力して、女子経済専門学校(現在の新渡戸文化学園)を設立し、初代校長になる
一方、世間では第1次世界大戦が終結し、このような大きな戦争が2度と起きないようにするためにはどうしたら良いかという問題に注目が集まっていました。
そのために1920(大正9)年に作られた組織が、国際連盟、今の国際連合です。
欧米列強の仲間入りを果たしたかった日本政府は、何としてでも国際連盟の設立に関わろうとしていました。
そこで日本政府を代表して活躍を期待された人物が、国際感覚豊かで教養もある新渡戸稲造だったのです!
稲造は、
- スイスのジュネーブに渡り、国際連盟の事務局次長として働く
- 北欧で起きたオーランド紛争の解決
- 1922(大正11)年、教育や文化交流、著作権問題などを審査するための知的協力委員会を発足させる
- 知的協力委員会では、ノーベル賞の受賞者を主な委員として任命した
- この知的協力委員会は、現在のユネスコへと繋がる
など、現在の国際連合にも繋がる先進的な組織作りに成功しました。
(引用元:新渡戸記念館公式ホームページ http://www.nitobe.jp/inazo/index.html)
1926(大正15)年に日本へ戻ると、
- 貴族院議員として活躍
- 同時に日本各地を巡って公演活動を行う
- 1929(昭和4)年、太平洋問題調査会の理事長となる
- 同年、京都で行われた第3回太平洋会議では議長となる
他にも、
- 1930(昭和5)年、英文大阪毎日新聞で“Editional Jodding”(編集余禄)を連載
- 1931(昭和6)年、岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任
- 東京医療利用組合の設立に協力する
など、様々な分野で活躍しました。
しかしここで、今まで稲造が努力して築き上げた物が音を立てて崩れてしまう事件が起きます。
それは1931(昭和6)年に勃発した、満州事変です。
ここで満州事変について、簡単に説明しますね!
- 日本は資源が乏しい国で、植民地が欲しかった
- その頃、中国は政府の力が弱く、欧米列強に多くの土地を植民地にされていた
- 関東軍(日本の陸軍の一部)は、中国の北部にある満州で鉄道の爆破事件を起こし、中国の反政府勢力の仕業だと主張した
- また、「中国は満州を治める力がないため、日本が支援して満州に独立国を創るべき。」と日本は主張した
- 国際社会は鉄道の爆破事件は日本軍の仕業ではないかと疑っており、日本の支援で満州に独立国を創ることを反対した
満州事変をきっかけに国際社会での日本への非難が高まり、日米関係も一気に悪化してしまいます。
稲造は「太平洋の架け橋」となる
- 体調不良にも関わらず、上海で開催された第4回太平洋会議に出席
- そこで日中関係を改善する道を模索した
- 1932(昭和7)年にアメリカに渡り、フーバー大統領を訪問した
- 加えてスチムソン国務長官との対談をラジオ放送で行い、国際社会における日本の立場を主張した
という奔走を見せます。
しかし、
- その後に開催した松山での講演で、「軍部が暴走して戦争が勃発するかもしれない」と記者に説明した
- 軍人会や右翼から攻撃を受け、帝国在郷軍人会評議会で謝罪しなくてはいけなくなった
- 日米関係は悪化の一途を辿る
- さらに「稲造がアメリカに来たのは、松山事件の保身のための行動」という誤解を受け、アメリカ世論を敵に回してしまう
など、稲造の努力も虚しく、国内外で稲造の活動を理解されませんでした。
稲造の最後71年の生涯
結果、
- 日本とアメリカで多くの友人を失う
- 日米関係を改善することができないまま、1933(昭和8)年3月に帰国した
- 稲造の帰国直後、日本は国際連盟を脱退する
日本の国際的な孤立が進んでしまったのです。
この時、稲造はすでに71歳。これ以上日米関係改善のために動くには、体力・気力共に不可能でした。
- 帰国から5ヶ月の間、旧知の人々や自分の先祖に縁がある場所を訪ねて回った
- 同年8月、最後の力を振り絞ってカナダのバンフに渡り、第5回太平洋会議に出席
- 日本側代表としての演説を成功させる
- 9月に病で倒れる
- 10月15日、カナダのビクトリアで亡くなる
最後まで平和のために尽力した71年の生涯に幕を下ろしたのです。
稲造の死後、第2次世界大戦が勃発し、彼の平和への望みは絶たれたかのように思われました。
しかし戦後、平和のために尽力した国際人として稲造は注目され、彼の遺志はユネスコへと引き継がれるなど、現在の国際社会にも稲造の面影を探すことが出来ます。
【エピソード】新渡戸稲造の性格が分かる面白い逸話
(引用元:新渡戸記念館公式ホームページ http://www.nitobe.jp/inazo/index.html)
さて、国際人・教育者として名高い新渡戸稲造ですが、彼だって1人の人間です。
ここでは、人間・新渡戸稲造の意外な一面について紹介していきます!
トピックで簡単に挙げますと、
- 札幌農学校時代に、周囲が驚くほど性格が変わった
- ビール好きだった
- 誠実さとユーモアのセンスで、職場の同僚に大人気
- 女性にとっても魅力的な人物!プロポーズは奥さんから⁉︎
について、それぞれ説明します。
札幌農学校時代に、周囲が驚くほど性格が変わった
- 札幌農学校に入学した時は活発な少年だったため、同級生からactive(活発)と呼ばれていた。
- しかしキリスト教を学ぶ中で次第に内省的になり、寡黙になっていった。
- それを見た同級生たちは、稲造がmonk(修道僧)になったと言って驚いた。
ビール好きだった
- ドイツ留学時代からビールを飲むようになり、同じ日本人留学生から「飲みすぎだ。」と注意された。
- その時の稲造は、「ドイツではビールを飲まない人は悪性の病気を持っているというから飲んでいるのだ」と言い返し、ドイツ人並みにビールを飲んでいた。
- ビール片手に議論を交わすことが好きだった
誠実さとユーモアのセンスで、職場の同僚に大人気
- 国際連盟事務次官として勤めていた時、職場の仲間内で人気投票が行われた
- 誠実でユーモアのセンスに溢れていた稲造が、見事に人気投票1位を獲得した
女性にとっても魅力的な人物!プロポーズは奥さんから⁉︎
- アメリカ留学時代に稲造は後に妻となる女性・メリーに出会う
- 2人は女子教育推進についての考え方が合い、文通をするようになった
- その手紙の中でメリーから稲造に逆プロポーズをして、2人は結婚することになった
- しかし白人であるメリーと黄色人種である稲造との結婚は当時ありえないことで、メリーの家族は猛反対だった
- メリーは家族の反対にも関わらず、稲造と結婚して日本に渡ることを決意し、2人の結婚を認めさせた
人間としての新渡戸稲造は、
- 真面目
- ユーモアのセンスがある
- 人望が厚い
- 周囲に常に人が集まる
- 文化の違いも柔軟に受け入れる
魅力的な人物だったんですね!
まとめ 新渡戸稲造はどんな人物?おすすめ書籍や映画
新渡戸稲造の経歴や性格、面白いエピソードについて紹介しました。
ここで簡単に、新渡戸稲造についてまとめますね!
- 幕末から20世紀初頭にかけて活躍した国際人
- 農学者、教育者としても知られる
- 人望が厚くて、国籍に関わりなく常に周囲に人が集まった
- 国際連盟事務次官として勤務し、ユネスコの前身である知的協力委員会を設立した
- 執筆家でもあり、『武士道』を執筆した
国際化する開国後の日本と海外を繋ぐために、生涯をかけた人物だったんですね。
そんな新渡戸稲造について「もっと知りたい!」という方に、私がお薦めする作品を紹介します!
『まんがで人生が変わる!武士道ーー世界を魅了する日本人魂の秘密(単行本)』(著:新渡戸稲造 イラスト:カネダ工房 出版社:三笠書房)
- 言わずと知られた新渡戸稲造の代表作『武士道』を分かりやすく解説した漫画
- 日本に留学してきた外国人大学生が新渡戸稲造の『武士道』について知っていくという物語仕立てになっており、「外国人に日本のことを知ってもらいたい」という新渡戸稲造の願いに沿ったストーリー展開になっている
- 漫画・イラストでの説明だけではなく、解説も充実しており、「ここのポイントについてもっと知りたい!」と思ったことをすぐに確認できる
- 「文章で読むのは時間がかかり過ぎる…。」「『武士道』って難しそうな文で書かれているイメージで、倦厭してしまう。」という方にお薦めです。
『逆境を越えてゆく者へ(じっぴコンパクト文庫)』(著:新渡戸稲造 編集:実業之日本社 )
- 人生をどのように生きるべきか、どのように困難を乗り越えていくか、そのためにどのように日々を過ごすべきかなど、新渡戸稲造からの言葉がまとめられた1冊
- 新渡戸稲造によって書かれた『修養』『自警録』の内容から、「苦難の時をいかに生きるか」をテーマにして文章がまとめられている
- 若者だけでなく、全ての世代に響く新渡戸稲造の言葉が書かれており、「いきなり新渡戸稲造の文章を読むのはちょっと…。」という人にぜひ読んでもらいたい作品
新渡戸稲造の言葉は、現代を生きる私たちにも響くものばかりです。
難しいことは考えずに、「今の自分に響く言葉は何かな?」というくらいの軽い気持ちで、ぜひご覧ください!
以上、「新渡戸稲造の経歴や性格はどんな人物?生い立ちやエピソードが面白い」でした!
参考文献
新渡戸記念館公式ホームページ http://www.nitobe.jp/
れきたん歴史人物伝 新渡戸稲造 http://rekitan.net/person/070829.html
キリン歴史ミュージアム公式ホームページ https://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/person/kindai/16.html
学校法人 新渡戸文化学園 公式ホームページ https://www.nitobebunka.ac.jp/nitobe/chronology/
新渡戸カレッジ 基礎プログラム・オナーズプログラム 大学院教育コース公式ホームページ https://nitobe-school.academic.hokudai.ac.jp/aboutus/inazonitobe
歴史上の人物.com https://colorfl.net/nitobeinazo-matome/
世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒント 満州事変 https://www.y-history.net/appendix/wh1504-036.html