学問研究、舞台芸術、クラシック音楽、スポーツやオリンピックをきちんと消費しよう、という話をします。
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最強の消費者になるということ
食料や家電に対しては、わたしたちはみな最強の消費者です。
おいしいもの、優れたものは気にいるし、少しでも欠陥があれば、口コミやレビューなどで、情け容赦なく批判しますね。
バグをテクニックにしてしまうプレイヤー
ゲームなんかすごいです。クソゲーといったん言われたゲームは、あらゆる悪いところをあげつらわれます。(「クソゲー」と検索してみてください。)
ゲームに関してプレーヤー(消費者)は、製作者が気がつかない欠陥(バグ)さえ、見つけてしまいます。
しかもそれを逆手にとって、高等テクニックとしてプレイに取り込んでしまう。化け物のような最強の消費者ですよね。
商品や料理は、優れているかどうかが全て
おもしろいか、おもしろくないか。料理ならば、おいしいか、まずいか。消費者にとってはこれが全てです。
作り手側の苦労話など聞きたくありません。
そして私たちは、かなりの精度で誤りなくそれらの価値を判断できる能力を持っています。
しかも自分で料理やゲームを作れないことに、いささかの気後れもありません。
料理屋でまずいものを出されたら、基本的に許しません。つまり、二度と行きません。
そこで料理人が「文句言うなら自分で作れ、来るな」などと言い返してきたらどうでしょうか。開いた口が塞がらない・あきれてものも言えないでしょう。
高級品も、最強に消費できているか?
ところがこれが芸術や学問になると、まったく態度が変わってしまいませんか?
「自分にはとてもできないこと。すばらしい」
「舞台に立つこと自体、努力してきた証拠だ」
などと、創作者側に対して下手に出てしまうことはないでしょうか? わたしはついついそうなってしまいます。
こうした下手に出てしまう卑屈な心は、高級な料理店や衣料店でも起こりうることです。
合わないと感じても「自分が未熟なのではないか」と物怖じしてしまいます。
最強の消費者となり、文明文化の発展に寄与せよ!
高級品であろうが、学問・芸術であろうが、安い料理屋や、ゲームに対する態度と同様にできないものでしょうか?
卑屈さは微塵もなく「作り手がいくら努力しようが知らねえよ、うまけりゃほめるし、まずけりゃけなす。おれの判断が正しいんだ。」というふうに自信を持って、堂々とした態度になれないものでしょうか? たとえばお笑い芸人に対しては、そのような態度をとれる方が多いと思われます。
こうなれば、消費者は、創作者にとってかなり恐ろしい存在であると同時に、創作の意欲にもなるのではないでしょうか?
多くの人から賞賛されたいという欲求は、自然な感情であって、卑しくもなんともありません。「何を作っても誰も文句を言わない状況」よりも「下手なものを作れば総スカンを食らう状況」のほうが、より良いものが出来そうな気がします。
だからこそ、消費者は、高級なものに対しても、物怖じせずに価値を判断できるようになることが望ましいと私は考えています。もしも自らの価値判断が間違っていたとしたら、納得した上で、撤回すればいいだけです。
要するに、学問や芸術に関しても、思いっきり「上から目線」で見てやろうという宣言です。「自分でやりもしない人間が偉そうに」を地で行く、ということです。
最強の消費者になることで、名もなき私たちも、学問・芸術といった文化の発展に寄与できると思います。