【選挙に行くのは無意味!】国民全員に白紙投票を呼びかける澁澤龍彦の思想

澁澤龍彦




投票すべき政党がない……。

そんなあなたは、澁澤龍彦『快楽主義の哲学』を読んで慰められましょう。

ちょっとだけ引用。

私たちは、代議士の候補者に1票を投ずる権利を持っている。
しかし、見渡したところ、
保守政党にも進歩政党にも、ろくな政治家はいない。
実に選挙とは、私たち国民の不平不満を解消するための、巧妙な罠ではないでしょうか。

こんな風に選挙権のボイコット運動を愉快に空想しています。

この記事では、
澁澤龍彦が語る「快楽主義」と「選挙権の放棄」についてご紹介します。

三島由紀夫も激賞した名著です。

以降の文章は、基本的に澁澤龍彦『快楽主義の哲学』を要約・再編集したものです

政治に唾を吐きかける

「捨てる」ということを、もう少し別の角度から考えてみましょう。

例えば国民としての権利を、すすんで「捨てる」ということ。
別にたいしたことではありません。選挙権のことです。

私たちは、代議士の候補者に1票を投ずる権利を持っている。
しかし、見渡したところ、
保守政党にも進歩政党にも、ろくな政治家はいない。

政治の理想なんかどこにもなく、
社会主義の政党さえ、醜い内輪もめばかりやっている。

政治家とは、本来、現実社会を告発する批判者でなければならないと思うのですが、

「お願いします、お願いしまあす。」
とペコペコ頭を下げている候補者は、

どう見ても、政治を商売としている人間、つまり、政治屋以外の何者でもありません。

彼らは、要するに、私たちの票がほしいだけなのです。
だから政府が先に立って、棄権防止を呼びかけます。

ひるがえって、投票するほうの側を眺めてみましょう。

有権者、つまり私たちは、民主主義という大義名分により、何の疑いもなく投票所に行く。
1票を投ずることによって、
1日だけ主権者になるという政治の任務を果たしたつもりで、満足してしまう。

実に選挙とは、私たち国民の不平不満を解消するための、巧妙な罠ではないでしょうか。

選挙とは、支配者が人民をうまく治めるための口実に過ぎないのではないでしょうか。

1日だけ主権者で、後は内閣が解散でもしない限り、政治への一切の発言権を奪われるのです。

一人一人が票に候補者の名前を書いて、投票箱に入れてしまえば、それでもうおしまいなのです。

選挙という、人民支配のための罠を、鳴り物入りで宣伝しているのは、支配階級と政党だけです。

選挙が終わってしまえば、政治家=政治屋は、涼しい顔をしています。
私たちには、何の関係もありません。

支配のない社会を民主的社会というのだとすれば、
「民主的」ということと「民主主義」ということは、全然別物です。

民主主義とは、少なくとも現在では、
政党(進歩派、保守派を含めて)が国民を支配するためのイデオロギーであって、
昔のような、生き生きして魅力のある言葉ではなくなっています。

私はこんなことを空想します。

もし国民のすべてが、すすんで自分の選挙権を放棄したら?

政治に不信を抱く民衆が、この棄権運動を全国的な規模で大々的に推し進めたら?

面倒くさいから棄権するのではなく、強い信念を持って棄権するわけです。

国民全体が、政治という欺瞞の制度に唾を吐きかけるわけです。
建前の民主主義ではなく、真の民主主義を確立するために。

拒否は、無言の革命です。
これこそ、私たち人民がそれぞれの立場で、一番手軽に参加しうる、
最低限の革命的行動といえましょう。

以上のようなことを、あれこれ考えながら、
寒い投票日に布団をかぶって朝寝坊しているのは、実に気持ちの良いものです。

会社に遅刻したって、かまやしない。
なにしろ、国民の権利を行使する神聖な投票日なんですから。

「いや、投票所が混んでいてね、すっかり遅くなってしまった。」
とかなんとか、ぼやいていれば良いのです。

棄権したことがばれて、進歩的文化人気取りの友達に叱られたって、平気です。

「いやー、僕は現代の隠者なんだよ。君知ってるかい、隠者こそ、最も革命的な人間なんだぜ。」
とかなんとか言って、へらへら笑っていれば良い。
友だちの方でびっくりして、黙ってしまいます。

政治意識が低いのは困りものですが、
ちゃんとした考え方があった上で、すすんで政治に背を向けているのは、
少しも恥ずべきことではない。

羊みたいにおとなしく投票所の前に列を作る人間よりも、ずっと立派です。

アメリカのビート族が「順応主義者」と呼んで軽蔑している人間も、
この羊みたいに飼い慣らされた連中のことです。

もしエピクロスが現代に生きていたら、きっと、彼も私の意見に賛成し、堂々と国民の権利を捨てたことでしょう。


以上のような空想を、澁澤龍彦は語りました。

実に、魅力あふれる言説ではありませんか?

「快楽主義」とは「現実」に背を向け隠者になること

ここからは、

「快楽主義の哲学」とは何か?

という話。本の紹介ですね。

政治・選挙からは離れます。

興味ある方は、ぜひお読みください。

フロイトの「快楽原則」と「現実原則」

厳しい現実生活に適応するために、社会的な配慮により、
快楽を求める本能的な欲求をコントロールする心の動きを、
フロイトの精神学では「現実原則」と呼びます。

人間は「現実原則」に従うことによって、

  • 諦めを知り、
  • 理性を発達させ、
  • 法律や道徳や秩序や、
  • その他のあらゆる精神文化

を築いてきたのだともいえます。

すべての人間が無意識の世界では「快楽原則」に支配されているのですが、

日常生活の世界、意識の世界では、
「現実原則」に拘束されています。

そうでなければ社会的な人間として生きていけないからです。

世にいう「幸福」とは「引き延ばされた消極的な満足」である

人間の文明は、必ずしも幸福の増加を約束しない。
むしろ人間の自由を束縛し「現実原則」を発達させ、
生き生きした快楽をつかもうとする人間本来の欲求を阻喪(そそう)させる。

幸福とは、あくまで「現実原則」に拘束された欲求の満足なので、
持続的ではあっても激しさにかけ、
さらに個人の狭い主観や信仰の色眼鏡によって眺められることが多い。

そしてほとんどの場合、即座の満足を避けて、
引きのばされた満足を求める消極的な傾向である。

「ギリシャの哲学者エピクロス」と「鎌倉時代の僧侶たち」の共通点

エピクロスは弟子といっしょに「庭園学校」「エピクロスの園」なるものを営んで、

面倒くさい現実に背を向け静かに暮らすことを理想としておりましたので、
政治問題には徹底的に無関心でした。

「幸福であるために、隠れて生きよう。」

と彼は言っています。
つまりエピクロスは社会生活を否定していたのです。

日本の中世(鎌倉時代)にも、このエピクロスのように、
煩わしい世の中との関係を断ち切り、

  • 山にこもったり、
  • 放浪の旅に出たり、
  • 出家したりして、
  • 自分の理想を守ろう

とした人たちがありました。

  • 西行法師だとか、
  • 『方丈記』書いた鴨長明だとか、
  • 『徒然草』を書いた兼好法師だとか、
  • 『奥の細道』を書いた松尾芭蕉だとか

その他大勢の坊さんなどです。

彼らはすべて退屈な社会生活や、腐敗した政治がいやになり、

  • 世の中に背を向け、
  • 世の中から身を隠し、
  • 自然の懐に帰った人達、

つまり隠者です。

道元という坊さんは

「城邑聚洛(じょうゆうじゅらく)に住することなかれ、国王大臣に近づくことなかれ」(『建撕記』けんぜいき)と教えました

これは彼ら隠者の理想をズバリと語っています。

「捨てる」ということは大変難しいことです。
家族を捨てる。
財産を捨てる。

そういえば日本の鎌倉時代にも
「あれも捨てろ、これも捨てろ。」
と最後の最後まで捨てることを徹底的に解いた変な坊さんがありました。

「捨聖(すてひじり)」と呼ばれ、一種の「踊る宗教」を発明した一遍上人(いっぺんしょうにん)がそれです。

捨てるとは、要するに煩悩を捨て去ること、
いろいろな欲望の発する内部的源泉を涸らしてしまうことです。

禅坊主が栄養の少ない精進料理を食って、
修行の妨げになる性欲が起こるのを防ごうとしたのも、同じ考えからです。

澁澤龍彦『快楽主義の哲学』

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