エピクロスの快楽主義について、何度か考えてきました。その内容は、幸福のために、快楽を第一に考えるというものでした。
今回は、そもそもどうして快楽を第一に置いたのか、という点について見ていきたいと思います。
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快楽説の理由とエピクロスの正義
そもそも快楽主義という点で、エピクロスは最も非難・批判されています。快苦が善悪の基準であるという、エピクロス思想の根本的な原理について、キケロをはじめ様々な学派がこれを批判しています。
エピクロスはプラトン・アリストテレス、およびストア派の論じる、イデアをはじめとした「絶対的・観念的な実在」を否定するために快楽説を唱えたのではないかと思います。
エピクロスは徹底した経験主義を貫いています。
飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これらが肉体の叫びである。これらの叫びを抑えることは、霊魂にとって難しいことである。のみならず、霊魂それ自身が日毎に自己充足を得るようになっているからといって、霊魂に訴える自然の声を無視し去ることは、霊魂にとって、危険なことである。
『エピクロス 教説と手紙』(岩波文庫)より
ここではエピクロスが肉体の感覚を重要視しているのが良く分かるかと思います。実在としての人間は、肉体・身体無しでは存在できません。エピクロスは経験論・唯物論者であり、霊魂も物質としてみなしています(これはストア派も同じ)。では物質としての霊魂とは何でしょうか。
物質としての霊魂
エピクロスによれば、霊魂は微細な部分から成り、全組織体にあまねく分散しており、熱をある割合で混合している風に最も良く似ていて、ある点では風に、ある点では熱に似ている物体であるといいます。
大雑把に言えば、肉体の中に充満する気体ということになります。そして、「霊魂の能力」として挙げられているのは、「肉体を動かすこと」「感情」「(思考などの)精神活動」といったものです。さらに「霊魂は感覚の原因である。肉体が感覚の原因なのではない。霊魂が肉体から出て行けば感覚はなくなるからである」と述べます。
このように説明すると、霊魂を普通考えるような「非物質的なもの」としても、あまり変わらないのではないかと思います。肉体とは独立した非物質な霊魂が身体を動かし、感情を持ち、精神活動をしても良いはずです。
ではエピクロスが霊魂を物質とした理由ですが、おそらく以下の2点ではないかと考えます。
1つは、原子論を採用し、万物は原子と空虚で成り立っているとしたこと。
原子論においては、独立した非物質的なものとは、空虚のみです。しかも空虚はそれ自身働きを持ちません。霊魂が働くことは明らかであるのに、非物質的なものとするのは愚かな矛盾である、とエピクロスは述べています。
もう1つは、死への恐怖の除去という点。
死後も霊魂が存続し、何か罰を受けたり、再び生まれ変わるなどということに、恐怖や苦悩をすることは馬鹿馬鹿しい、とエピクロスは考えました。そこで霊魂不滅によって生まれる恐怖を拭い去る思想をエピクロスが示したのです。これらはいずれも霊魂の不死を主張する思想(プラトン・アリストテレス)に対する反発であるとも読めます。どちらが正しいのか証明することは困難である(少なくともエピクロスは頭脳明晰なほうではなかった)。ならばどちらでも自分にとって幸福な方を選べば良い。
幸福な生に関する新たな選択肢の提示
このように、エピクロスの思想は、幸福な生き方ということで示しうる、新たな生き方の選択肢の提示として、読み取ることができるのではないでしょうか。その証拠として、『教説』 31-38までの正義についてのエピクロスの言葉を挙げることができます。
31「自然の正は、互いに加害したりされたりしないようにとの、相互利益のための契約である。」
36「一般的に言って、正は全ての人にとって同一である。なぜならそれは人間同士の交渉に際しての、一種の相互利益だからである。しかし、地域的な特殊性、その他様々な原因によって、同一のことが全ての人にとって正であるとは限らなくなる。」
38「法的に正と認められている行為が、いざ実際に行われてみると、正についての先取観念(相互利益)に反していることがわかった場合、その行為は実は正ではない。」
『エピクロス 教説と手紙』(岩波文庫)より
エピクロスはこのように古典期アテナイのソフィストに見られるような相対主義的正義・社会契約説も述べていたとされます。
当時の社会では、霊魂の不死や冥界の存在が常識的なこととして皆に浸透していました。
しかしながら、死後の世界に対する恐怖や不安もまた生まれてきました。
それはあまりにもばかげたことではないか、とエピクロスは考えたのだと思います。
そのようなイメージに対するアンチテーゼ・新たな世界観・新たな生き方の提示として、エピクロスの快楽主義思想を読むことができます。