女性翻訳家の草分け若松賤子(しずこ)。
旧姓および本名は、松川甲子(かし)。生年月日は1864年~1896年。
若松は『小公子』で有名な翻訳家。
少年少女文学でも1、2を争うほどの有名な『小公子』。
これを初めて訳したのがこの若松である。
『小公子』の原題はLittle Lord Fauntleroyというタイトル。
だいたい『小公子』というタイトルが素晴らしい。
この『小公子』の邦題をつけるにあたり、若松は当初「小公達」(しょうきんだち)と名付けた。
ところがいまひとつピンとこないから夫にタイトルをどうしようかと相談した。
すると夫が『小公子』がいいんじゃないかと提案したという逸話が残っている。
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『小公子』は子育てと並行して翻訳された
若松の夫は誰かというと、巌本善治(いわもとよしはる)という出版人だ。
この巌本善治という男、明治の文学界に新しい風を引き入れたジャーナリストである。
巌本は内田魯庵や島崎藤村や北村透谷らを見出し文学界に紹介したという鑑識眼を持っていた人物だ。
『小公子』の出版は、この若松の夫、巌本善治の主催する「女学雑誌」に連載された。
連載当時、若松の肩書きはなんと巌本善治妻。
誰々の妻という肩書きは現代でするとちょっと考えられないことである。
名刺の肩書きに誰々妻と書いてあったら苦笑するしかない。
『小公子』の連載は明治23年である。
実は若松賤子はこの明治23年に長女の清子を出産し、また『小公子』のが翌年に長男の荘民(まさひと)を生んでいる。
翻訳史上名高い傑作は、子育てと並行して行われたのだ。
坪内逍遥や森田思軒から大絶賛された『小公子』
この『小公子』単行本の出版直後読者に大受けとなり、批評家も絶賛の嵐だった。
中でも英文如来として名高い翻訳家の森田思軒は次のように『小公子』の読書感想を綴っている。
淡泊に直言すれば余は方今海内にありて上流の著述にして能く我眼を惹くべきものいでむとは想はず
故に此書に於ても亦た甚だ重きを置かず、ただ知人の贈りたるものなるがゆえに
たまたま煙を喫するの暇漫然その第1ページを開き見しのみ
しかるに読むこと数行にして遣辞温順はなはだ常にあらざるものあるを覚えたり
因て更に2,3ページを読みゆくに、いよいよ益す凡ならざるものあるが如し
ここにおいて心すこぶる驚き起ちて書笥を探り原本を取り来たりて
かつ読みかつ照らし、ついに第一回を終わりたり(『小公子』を読む)
正直言ってわしは、現代の日本では、女性の書いたものに注目すべきものなどないと思っておった。
それで『小公子』、この本も特に重要とも思わず、単に知り合いに貰ったから、
暇つぶしにタバコ吸いながら読み始めたに過ぎなかった。
しかし数行読んでこれは読み易いものだった。今までのものとは全然違うぞと思った。
そしてさらにもう2、3ページ読みこんでみると、いよいよ並外れている。
そこで私は一目散に本棚にあった原書を取りに行った。
その原文と『小公子』の日本語訳をあっちこっち照らし合わせながら、第1回を読み終わったのだ。
森田思軒がどこに感心したかというと「もっとも伏せるところは談話ダイアログなり」と言う。要するに会話文だ。
それまで言文一致体で優れた作品は二葉亭四迷の『浮雲』だけだったが『小公子』をもって2冊になったとまで褒め上げている。
若松訳『小公子』の特徴
若松訳の『小公子』は、ネットで読める。
若松賤子訳小公子 (物語倶楽部のインターネット・アーカイブ)
ちょっと書き出しを見てみよう。
セドリックには、誰も云うて聞かせる人が有りませんかツたから、何も知らないでゐたのでした。
おとツさんは、イギリス人だツたと云ふこと丈は、おツかさんに聞いて、 知つてゐましたが、
おとツさんが、おかくれになつたのは、極く小さいうちの事でしたから、 よく記憶《おぼ》える居ませんで、
たゞ大きな人で、眼が淺黄色《あさぎいろ》で、 頬髯が長くツて、時々肩に乘せて、
座敷中を連れ廻られたことの面白さ丈しか、瞭然《はつきり》とは、 記憶《おぼ》えてゐませんかツた。Cedric himself knew nothing whatever about it. It had never been even mentioned to him.
He knew that his papa had been an Englishman, because his mamma had told him so; but then his papa had died when he was so little a boy that he could not remember very much about him, except that he was big, and had blue eyes and a long mustache, and that it was a splendid thing to be carried around the room on his shoulder.
明治23年の文章でこれほど読みやすいのは、ちょっとほかにない。
原文を少し見ればわかるが、お父さんの特徴をダラダラと接続詞や that でつないでいて、素人が和訳するには一苦労な文章だ。
それが若松訳だと、ちょっと送り仮名が昔風なだけで(ツとか)、後は現代の小学生でもすらすら読める。
ちなみに明治24年の斎藤緑雨の文章と比較してみよう。
枕に就きは就いたが眠られない、眠られないとゝもに忘れられない、仰向いて見る天井に小歌が嫣然笑って居るので、これではならぬと右へ寝返れば障子にも小歌、左へ寝返れば紙門にも小歌、鴨居にも敷居にも壁にも畳にも水車の裾模様が附いて居るので、貞之進は瞼を堅く閉じて、寝附こう寝附こうとあせるほどなお小歌が見える。
これも読めなくもないが、多分に講談調だ。
それに対して若松の文章は、お母さんが子供に聞かせるような口調で書かれている。
若松の翻訳のテクニックは、およそ次の2つであろう。
- 会話文にしても地の文にしても英文における人称代名詞や指示代名詞がほとんど省略されていること。
- 3人称を主語とする文であっても、1人称語りのような口調で和訳されること。
このように、若松賤子の『小公子』の訳文の特徴は、とにかくすらすら読めることにある。
明治20年代の女性翻訳家が、これほど優れた文章、21世紀の人間でも理解できる文章を残したことは、ただただ驚くほかない。