まったく意味がわからないタイトルだが、そうとしか言いようがない。
それは、こんな話だった。
「ちょっと自慢してもいい?」
安い中華チェーン店(日高屋)のカウンターで、高等遊民は唐突に言った。
友人の劇作家はラーメンをすする途中で箸と唇の運動を止め、首を動かさずに眼を上げた。
「えっ! すげえ!」
「どうだ。」
創世記とはいうまでもなく旧約聖書の冒頭の物語である。
現存する書物の中でも最も旧い時代に書かれた書物のひとつであり、聖書を手に取る人なら誰でも読んでいる話だ。(少なくとも、そういうことになっている。)
- なぜ劇作家は目を輝かせて驚くのだろうか?
- なぜ高等遊民は、そんな他愛もないことを改めて自慢などとうそぶくのか?
それは日本人で聖書なんか読んでる者は本当に稀である、という事実があるからだ。
特に創世記なんかは西洋のあらゆる古典文学が言及している。
だから、おおまかな内容を知っているような気にはなっているが、実際に聖書を手に取って読んでみることは少ない。
聖書を開いてみる人のうちでも、創世記の最初の数頁で、楽園追放あたりまで読んで止めてしまうだろう。
これは文学かぶれの日本人に共通の問題でもある。
こういう人たちは、キリスト教文化圏の人々は聖書を共通の教養として頭に入れていると思い込んでいる。
そして共通の教養を持たない(せいぜいジブリ映画)日本人としての己を恥じている。
劇作家も、自らをそのような人間のひとりであることを十分に自覚していた。山本七平くらいで済ませてごまかしている。そして「夏目漱石も聖書を読んでいないこと」を例に出して、自らの不勉強を正当化していた。そのような自覚があるからこそ、高等遊民の言動に驚いたのだ。
「なんですか。」
「『ヨブ記』も読んだ。」
「おお神よ!」
『ヨブ記』とは哲学・思想にかぶれた上で聖書を論じたい連中が必ずといっていいほど取り上げるような話である。
ゲーテの『ファウスト』などもヨブ記を明らかに下敷きにしており、西洋古典文学にかぶれた者のうちでヨブ記のあらすじを知らない者はいない。だが、実際にヨブ記を読んだ者もいない。
「すげえつまらなかった。」
「え。」
劇作家は思わず食べていたナルトをごほごほと吹き出した。なるとの破片がスープの上に漂う。その漂流するなるとを高等遊民は目で追いながら話を続けた。
まあ正確にいえば、岩波文庫版で読んだから、関根正雄による詳細な注釈がある。
でもそれを役立てることができるには、創世記の文言が頭にすっかり刻み込まれるまで何度も読まなければならないね。
だいたい3000年も前に書かれた書物を一回読んで内容をあれこれ論評するなんて、ウソだよ。ヘブライ語を一文字も読めないような人間がさ。
いやなにもヘブライ語で読まなきゃ旧約を語っちゃいけないとまでは言わないよ?
でも、何か決定的な差があるんだ。
だから、ヘブライ語も知らないのに旧約をベラベラ語る、そういう類の本。悪い本とは限らないけど、そもそも読む必要性に欠ける。日本語一文字も読めない外国人が書いた「記紀論」なんて、あったとしても読む気にならないでしょ。」
「なるほど。でも一回読んでるか読んでいないかは、違うよ。えらいよ。」
ラーメン屋を出て夜の街を歩いた。歩道のない狭い駅前の通りを一列で歩く。バスとバスがすれ違うときには轢かれそうになる。
「よくってのは?」
「量だよ。書く量が度外れに増える。志賀直哉は28巻。三島由紀夫は40巻。司馬遼太郎なんかエッセイまで入れたら70巻くらい。ちょっと読み切れないよね。」
読み切れない? 高等遊民は引っかかった。
・・・俺だったら読み切れないなどという言葉は使わないだろうな。おれのもっている内村鑑三全集は40巻くらいだ。
おれはそれを「読み切れない」というか? 言わない。「読めない」という。なぜ読み切れないなどというのだこの男は?
高等遊民はおそるおそる尋ねた。
「拾い読みになっちゃうってこと。三島由紀夫なんかは大衆向けの娯楽小説なんかもかなりの量を書いていてさ、それは本当にむちゃくちゃおもしろいんだよ。
『レター教室』とか『命売ります』とかさ。『不道徳教育講座』なんかも小説じゃないけどエンタメで。
だけど評論とかは読めないなー。『小説家の休暇』なんてのはラディゲ論だの『モーヌの大将』だのコンスタンの『アドルフ』だの、読んだことない文学の評論が盛りだくさん。それに加えて演劇論だの絵画論だの入って来るからお手上げだよ。」
高等遊民は自らの愚かな自慢を恥じいった。
そして『小説家の休暇』を必死に読み始めたのだった。
志賀直哉はすごいらしいよ。いつか読みます。