こころのお嬢さんって、かなりの悪女なんじゃないの?
そんな疑問が、湧きあがりますよね。
ということで、実際に検討してみました。
※原文は青空文庫から引用しているので、ルビが入り込んでいます。
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先生の語るお嬢さん悪女説
お嬢さん悪女説は、作中で先生の口から語られます。
私の煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪たまらなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。
それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。
叔父に裏切られて人間不信になった先生。このように、また裏切られることについて強い警戒をしています。それがお嬢さんへの不信となって現れます。
しかし先生は、お嬢さんを疑いきることができません。
私は金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他ひとから見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
悪女例1 日本橋での買い物
お嬢さんは大層着飾っていました。地体じたいが色の白いくせに、白粉おしろいを豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
三人は日本橋にほんばしへ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇ひまがかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物たんものをお嬢さんの肩から胸へ竪たてに宛あてておいて、私に二、三歩遠退とおのいて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目だめだとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
こんな風に、既成事実を作っていくわけです。それが先生の学友に目撃されたりします。そして学友が「私の細君さいくんは非常に美人だといって賞める」などということが起こります。
悪女例2 先生の嫉妬を笑うお嬢さん
家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅うちを空けた例ためしはまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。
一週間ばかりして私わたくしはまたKとお嬢さんがいっしょに話している室を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや否や笑い出しました。
悪女例3 私に対するお嬢さんの技巧
若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方ほうでしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬しっとに帰きしていいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚みなしてしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。
先生はお嬢さんを自分を翻弄する悪女とみなす節もあったのです。
悪女例4 上巻の私に対しても悪女ぶりを発揮?
お嬢さんは、静という奥さんになっても、青年である私が驚くほどの気持ちの切り替えをしています。
「自分は先生に嫌われている」そのように涙を流して、私に相談していた静。それが先生が帰ってきた途端、笑顔で出迎えます。それを私はこのように述懐しています。
今までの奥さんの訴えは感傷センチメントを玩もてあそぶためにとくに私を相手に拵えた、いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。
補足:襖をすぐ開ける先生の嫉妬心
私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子こうしをがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数てかずのかかる靴を穿はいていないから、すぐ玄関に上がって仕切しきりの襖ふすまを開けました。私は例の通り机の前に坐すわっているKを見ました。
先生の嫉妬深さは、吉本隆明氏がおもしろく説明しています。襖のモチーフともつながりますね。
「私(先生)の愛のとり方で普通でないところがあります。これもまた作者漱石の深い知恵が込められているように思われます。
例えば私(先生)が学校の授業から下宿に帰ってきて、茶の間とか、娘さんの部屋で男の話し声が聞こえると、この私は、ガラッと障子を開けて誰だか確かめずには居られない衝動を覚えるのです。
これもまた程度問題で、誰でも女性を好きになって、その女性の部屋で男の声が聞こえたら、気になってしょうがない事はあるのでしょうが、作者の描写によりますと、お客が帰ってから下宿の女主人や娘さんに、今きていたのは誰だみたいなことを確かめ、そのこと自体が笑われてしまうほどの状態になってしまうのです。」
まとめ
夏目漱石『こころ』における「お嬢さんの悪女説」を考察してみました。
要点をまとめると
- 悪女(策略家)ではないかと先生自身が疑っている
- 感情を隠して不敵に笑うことがよくある
- 先生をからかう嬌態をよくとる
- 日本橋で買い物に一緒に行ってお化粧たっぷりで思わせぶり
- 「先生と私」においても、私に対して気持の豹変を見せる
といったところですね。
結局、悪女なの?
わたしはそうは思いません。お嬢さんは、けっして策略家ではありませんでした。ただ、一般の女性よりも少し賢くて、素直で控えめだっただけなのです。そして、先生を愛していたのです。
主な参考文献