夏目漱石『こころ』には同性愛的な描写がたくさんある?
確かに、こころの物語には随所にボーイズラブ的な話があるという指摘がたくさんありますね。
べつに腐女子がいい騒いでるわけじゃなくて、評論家とかエッセイストとか、学者さん達が色々言ってるんですよ。
ということで、そういう同性愛的な描写とも思える箇所を、色々まとめてみました。
※原文は青空文庫から引用しているので、ルビが入り込んでいます。
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私の先生に対する同姓愛
「私」は、先生をこう評しています。
私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。
人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐ふところに入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
先生と私の恋愛についての対話
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
この辺も腐女子狂乱ですね。漱石はギリシャローマの文学にもかなり造詣が深い人物だったので、このようなモチーフを使ったのかもしれません。
恋を「階段」のモチーフで使うなどは、完全にプラトン『饗宴』を彷彿とさせますね。
海水浴のシーンでの西洋人の肉体描写
海水浴のシーンも、きわめて肉体に関する描写が多いです。
まずは、西洋人の肉体を。
西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否いなや、すぐ私の注意を惹ひいた。純粋の日本の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりと放ほうり出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿はく猿股さるまた一つの外ほか何物も肌に着けていなかった。
西洋人と先生が2人で泳ぐシーンです。
並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いでいる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。
私は、じっと見つめています。まあ、裸なわけです。鎌倉の海水浴場なので、浜辺はみんな裸。
喫茶店が脱衣所にもなってます。
ここで、私は先生を見つけます。そして、ある意味では見初めるわけです。
- トーマスマン『ヴェニスに死す』は、老人が浜辺で少年を見初める話。
- 夏目漱石『こころ』は、若者が年上の先生を見初める話。
という指摘もあります。
私と先生が沖まで泳ぐシーン
私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
はい。まるで三島由紀夫のような描写、という指摘もあります。
先生のKに対する同性愛
つづいては、先生。
恐ろしい力を同性愛的に読む
自ら命を絶つことを考える先生。それを打ち消すために、色んなことをもやってみようとします。しかしそのたびに、以下のような感情が起こります。
しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。
この「恐ろしい力」がKに対する男色への傾斜とも読めなくもない。
と、なんか本に書いてありました。(文末の参考文献)
ちょっと私には何言ってるか分かりません。
Kへの告白
Kにお嬢さんへの気持ちを打ち明けるか、悩むシーン。文脈を抜けば、もろそれっぽいですね。
私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際では旨うまくゆかなかったのです。
東浩紀の『こころ』同性愛論
東浩紀氏も、同性愛的なテーマを『こころ』で読み取っています。
いくつか引用してみますと
「私」の先生の場合には尋常ならざるものがある。そして小説の中には「私」の性的嗜好を明確にする記述はないので、彼は同性愛者だった可能性、それも自覚的な同性愛者だった可能性は十分にある。
と言うよりも、そうでなければ、なぜ彼は1人で毎日のように海水浴場に通い、半裸の中年男性を追いかけたりしたのか、動機は理解しにくい。
つまりは「私」は、 先生に恋をしていた可能性が高いし、また先生もそのことに気づいた可能性が高い。
ふーむ。そして最終的には、先生はKのあとを追うようにして、自ら命を絶ちます。
「それゆえ、先生はお嬢さんよりもKを愛していた」という解釈が出てきます。
で、東浩紀さんは、結論というか主張として
「私にであうことで彼(先生)が……妻帯者だというのにいまさら自分が同性愛者であることを自覚してしまったがゆえなのではないかと、筆者はそのように思うのだ」
たしかに、先生と静とのあいだには、子どももいなく、そのような交渉もほとんどないように思われます。
【解釈】2つの海水浴場での場面から読み解く、同性愛の肉体性と精神性の違い
海水浴場のシーンが『こころ』には2つあります。
- 私と先生、鎌倉
- Kと先生、房州
そして、鎌倉での私は、明らかに肉体的な面に感心があります。というか、漱石がそのような肉体の描写を多用しています。
一方で、房州での先生とKが泳いでも、そのような身体の叙述や描写は一切出てきません。
このあたりの対比は、面白いと思います。
まとめ
夏目漱石『こころ』における「同性愛」を考察してみました。
まとめると、
- 私は先生や西洋人の肉体を非常に見ている
- 恋の階段としてまず同性のもとへやってくる
- 海水浴のシーンと同性愛が結びついている
- 東浩紀氏説では先生は私と出会うことで、自らの同性愛的性質を自覚した
ということになります。
意外に、おもしろい視点がたくさん掘れるものですね。
参考になれば幸いです。
主な参考文献