プラトン『国家』の魂三部分説は納得できるのか?




はじめに

いわゆる「魂三部分説」を何回かに分けて考察しています。

「魂三部分説」という言葉は、プラトンについての解説書を読んだ方なら誰でも目にした言葉かと思います。

その解説を読んで、どう思うでしょう。正直「ふーん ( ´_ゝ`)」以上の感想を抱くことは稀ではないでしょうか。

もしも「魂は三部分なのか! すげえ! いやー目から鱗!」などと感動された方がいたら是非教えてください。

そんな「魂三部分説」が本当に納得できるものなのか、ということを考察したいと思います。

でも本来そういうものだと思いませんか。プラトンは著者として、読者に「ふーん ( ´_ゝ`)」という反応を期待していたとは思えません。

「魂三部分ガチヤベエキタ━( ゚∀゚ )っ ━( ゚∀゚ )っ━( ゚∀゚ )っ ━!!!!」を期待していたはずです。

単なる雑学や教養ではなく、ガチでプラトンを読んでいきたいものです。

 

前回まで

さて、前回までに見てきたことは、大きく言って2点です。

1.いわゆる「魂三部分説」の文脈として「正義それ自体の価値を証明する」という大きな問題提起があること。

2.「魂の調和としての正義」を主張するために、部分と全体の関係が魂にも必要であるために国家の階層性を類比(アナロジー)として利用した」というプラトンの戦略

 

さて今回は、いわゆる「魂三部分説」が、議論として納得できるのかという、根本的な疑問をテーマとします。

もちろん、いわゆる「魂三部分説」はそれだけでも膨大な専門研究があります。この記事はそれらを考慮した上での論考ではありません。

あくまで、現代の私たちが、現代を生きるうえで、何かプラトンからヒントを学べるのか、というアマチュア的観点から考察した内容であることをあらかじめご承知置きいただければ幸いです。

 

「魂三部分説」は納得できるのか?

 

欲望について

いわゆる「魂三部分説」が納得しうるか否かは、『国家』において重要です。

というのも、この対話篇のテーマである正義を規定する上で、この説を承認しなければ、プラトンの正義論はまるきり根拠のないものになってしまうからです。

いわゆる「魂三部分説」が登場するのは『国家』第4巻ですが、議論に先立ちソクラテスは国家を3つの種族に分けていました(支配者ー守護者ー生産者)。そして「国家と魂が同じなら魂も3つの種族に分かれるはず」と推論し、グラウコンたちの同意を取り付けています。

 

さらに、具体的に魂が3つの部分に分かれている~などと言う前に、ソクラテスはなんだか細かい議論をごちょごちょ積み重ねています。たとえばこんな感じです。

「同一のものが、同一側面において、同時に相反することをしたりされたりはしない」(独楽のたとえ)

「欲望それ自体(例えば渇き)と、欲望の対象(特定の飲み物への渇き)は、別物である」

というように、主に「欲望」に関する話が出てきて、グラウコンやアデイマントスに細かくしつこく同意を取り付けています。これはなんなんでしょうか。

 

善いものを欲するのは、国家(=魂)のどの部分か

「善いものを欲する」とは、ピュシスの世界の価値観です。全ての生物は、自然本来の性向として、自らにとって善いものを欲する。といった議論です。これは基本的に理解できない議論ではありません。

では一体、自らにとって善いものとはなにか。たとえばお腹の調子が悪いときは、刺激物や油っこいものを食べてはいけませんよね。だけど「豚キムチ食いたくてたまらねええ!」とどうしようもなくなる場合があります。そうすると、豚キムチを欲しているけど、やめておいたほうが「善い」という判断が働きます。

「豚キムチを食べることは善い」という考え(欲望)と、「豚キムチは食べないほうが善い」という矛盾する考え(理性)が同時に存在するように見えます。ソクラテスが欲望について細かく議論している理由は、この辺りを厳密にしておくためです。

上記の対立のままでは「欲望も理性も善いものを求める」となり、お互いを区別できません。区別できないとなれば、欲望が満たされるか満たされないかが善悪の判断基準になり、それはソフィスト的議論の正当性を証明するものとなります。強者の論理において、善悪とは欲望充足の可否でしかなく、魂の内的な状態(プラトンの主張する正義の基準)は全く省みられません。

そこで「何でも求めるのが欲望的部分」「欲求の善悪を判断するのは理知的部分」というふうにソクラテスは区別を立てました。人間には理性の働きがあって、それが欲望の善悪を区別できる。善い欲望もあれば悪い欲望もあるということを、自己自身の心の状態を基準に判断できるというふうに立論していきます。

 

ピュシスとノモスの対立(ソフィスト)と一致(プラトン)

理性と欲望が分かれている以上、人間の魂は自然本来においてソフィストが主張するピュシスの世界とは、異なる構成です。ここから人間にとっては欲望の充足が善悪の基準にはなることはないと主張できます。

第2巻でグラウコンが物語った「ギュゲスの指輪」は、ピュシス(自然)がノモス(法)に先立つことを認めざるを得ない議論でした。しかし、自然本来における人間は、理知的働きの存在によってこの縛りから自由であると言えるのではないか。これがソフィスト的な正義論に対するプラトンの正義論の決定的な眼目です。

ソフィストにおいてピュシスとノモスは対立するものであり、ピュシスはノモスに先だつために、ノモスを守ることに根拠はないと主張できました。

これに対しプラトンは、人間においてピュシスとノモスは対立せず、むしろ一致するものであると主張するのです。

 

魂の「気概的部分」

さて、理性と欲望が対立するものとして存在するということで、魂がふたつの部分に分かれるだろうという主張がなされました。残るは「国家の守護者」にあたり「勇気」を徳目とする「気概的部分」の存在です。

ソクラテスの議論では、気概は理知的働きとセットになっています。つまり、理知と欲望の争いにおいて必ず出てくるものと言われます。根性みたいなものですね。「あーもう疲れたー!」「いやもうひと踏ん張りだ!」という気合の部分です。

また人間は盲目的に憤慨する時は理になだめられているとも言われます。「この得意先、勝手なこと言いやがって・・・」「いや我慢だ! こらえるんだ!」という気合の部分です。

こんな感じでわりとふんわりと気概的部分の存在は議論されています。グラウコンたちも「まあそうだねぇ」くらいで同意しています。

 

魂三部分説は納得できる・・・気がする!

以上が魂三部分説の議論でした。理性と欲望、理性と気概の区別という話は、かなり日常の具体的なシーンをたとえ話にして議論されましたので、納得せざるを得ない面があるかと思います。しかし、いいように議論されていて、特に反論も浮かばないけど、どうも気に入らないというようにも感じます。

しかし、ソフィストの主張を覆せる新たな正義を立論するために、魂の三部分説を導入し、魂の調和が正義であるとするプラトンの戦略には、目を見張るべきものがあるように思えました。

 

残る問題:理想国家の実現可能性

こうして、『国家』における国家建設・魂の正義に関する類比は、一段落します。ソクラテスも終わった終わったと言うのですが、グラウコンたちが噛み付きます。

「しかし、その理想的な国家は、実現される可能性はあるのでしょうか」と。

素朴な疑問のようにも思えますが、重大な論点をはらんでいます。というのも、理想国家が実現できなければ、その類比(アナロジー)としての魂のあり方も、実現不可能な理想的状態にすぎないということになります。であれば、本当に優れたわずかな人々だけが「魂の調和としての正義」を実現できるかもしれませんが、圧倒的大多数の人々にはそれができないことになり、国家や魂の調和を乱す存在に変わってしまう恐れがあります。

反対に理想国家が可能となれば、すぐれた教育と養育によって人々が内的状態に配慮できるようになる可能性が芽生えます。

以上からして理想国家の実現可能性は、それは正義の生を生きるか、不正の生を生きるかという、人間ひとりひとりの生き方の決定にあたり根源的に関わってくる議論と言えるでしょう。