前口上
プラトン『国家』の副題は「正義について」です。実際に「正義とは何か」が語られるのは中盤と終盤に2回ほどあるのですが、
プラトンの解説書の類を読んでも、ほとんどすべての解説書が第4巻の「魂三部分説」の解説をして終わらせます。
「正義とは自らのことをなすこと」とか何とか解説していますが、こんなのは途中の暫定的な結論でしかないわけです。
のみならず、なぜ『国家』では正義がテーマになったのか、という問題提起の部分さえ、おろそかになっています。
当たり前のように「『国家』は正義についての対話篇である。では正義とは何かというと、じつは魂とはポリスと同様に3つに分かれてて~~」などと語られています。
むしろ、「なぜ正義が語られなければならなかったのか」という、プラトンの問題意識のほうが、現代の私たちにとっては重要だとは思いませんか?
だれも説明してくれません。ギリギリ論文という形で発表してくれている日本人学者はいます。(ただし英語w)
しかし『国家』の問題提起の部分をまともに論点としたのは、その人の論文ひとつくらいしかない言ってもいいくらいです。
ということで、わたしがまとめました。詳しい考察は前回記事等をご覧ください。
『国家』の対話のテーマ
正義と不正はそれ自体としてどのように働くか。また、最も正しい人と最も不正な人の生涯を見比べて、どちらが幸福であるか。
グラウコンの挑戦(『国家』第2巻)
・トラシュマコスと一般民衆が共通に依拠する「正義と不正」についての考えを取り出す。
1「社会契約説」:
正義は強者からの搾取を避ける損得計算からの、やむをえない合意。
2「ノモスとピュシスの対立」:
正義は合意によって立てられたノモス。ピュシスにおいて人間は常に不正を望む。あるいは強者として支配・搾取することを望む。
3「ギュゲスの指輪」:
「より多く持とうとする人間本性」を解放したら、人間はつねに不正を求める。善人・悪人、平民・支配者問わず、同じ結果になる。
→人間は誰しも「ノモスとピュシスの対立」の思想に心の奥底では支配されている。理想とされる人間は独裁僭主的人間。
トラシュマコスの主張:
正しいことは強者の利益であり、不正なことは自分自身の利益になるものである。つまり独裁僭主の生き方が最も有利である(344a,c)。
正義は世にも気高い「人のよさ」(ソクラテスへの皮肉)。不正は計らいの上手。不正を徳と知恵の部類に入れ、正義を反対の部類に入れる(348de)。
グラウコンの主張:
被支配者である民衆もひとたび力を得れば、トラシュマコスと同じ考えになる。(ギュゲスの指環の物語)
ノモスとピュシスの対立とは何か
・グラウコンによる正義批判は、実在のソフィストであるアンティポンの議論と多くの共通性がある。
1.ノモス=法・習慣。ピュシス=自然・本性。ゆえにピュシスが真理でノモスは思わく。
→自然はつねに利益をもたらすよう定められ、自由で快いが、法はその自然を束縛し、したがって苦しみや不利益をもたらす。
2.「正義とはポリスの法に適ったことを逸脱しないこと」(アンティポン『真理について』断片44a)
→絶対的な必然性は持たない。法は合意によって成り立つ以上、人々に気付かれなければ罪も恥も及ばない。
他方でピュシスは他人の目のあるなしにかかわらず必然性と強制力をもつ。(アンティポンはピュシスを具体的な物理的・身体的能力として考えている)
アデイマントスの挑戦(『国家』第2巻)
1.正義は報酬ゆえに愛される。「永遠の酩酊」=快楽。悪事も「供犠」と「秘儀」によって神々に免罪される。
→正義がそれ自体で善とは語れない。そのうえ、悪徳を非難する人々の言い分がハデスでの罰などといったことでしかない。それはいよいよ弱者の恨みに過ぎず、正義を守ることの積極的意義は全くない。
2.正義を奉ずる人々の根底は、永遠の酩酊への憧れ。
→それでも正義を守る意義があるならば、永遠の酩酊を求めるためでしかない。そのために生きるならば、あらゆる行為の基準は快楽の損得計算でしかない。
とすれば、優秀で意志が強い若者なら悪徳を目指すことが、この世でもあの世でも幸福な生き方として、進むべき道だと考える。
3.正義が非難され、不正が讃えられる根本の原因:
→正義それ自体を讃える言説や、正義それ自体の働きを説明する言説が皆無。
二人の挑戦で明らかにされた問題
1.「ノモスとピュシスの対立」により、正義の根拠が根こそぎにされている。
2.正義について私たちが抱く認識では、利己主義者とそうでない人の区別ができない。
3.不正を極めることがこの世でもあの世でも幸福という主張に、反論できる言説がない。
4.正義を守る人生に、積極的意義が全くない。反対に不正を冒す人生は積極的意義であふれている。
→それでも正義を弁護できるのか。
プラトンの課題:ノモスとピュシスの対立との対決
ノモスとピュシスの一致が語られれば、少なくとも人間の自然本性が「より多くの利得の獲得」だけではなく、「法と秩序を守ること」も関係してくると言える。
批判の矛先
グラウコンの挑戦はノモスとピュシスの対立(正義は損・不正は得)をあらゆる人々が暗に認めていることの証明である。
そしてアデイマントスの挑戦は、対立を認めているにもかかわらず、むなしく正義を守る・奉ずる人々への批判。
→「ノモスとピュシスの対立」の図式に陥っているかぎり、正義をそれ自体として愛することはできない。
そういう人々は偽善者か消極的快楽主義者でしかない。トラシュマコスやカリクレスはこれを完全に認識している。
→自分に害の及ばぬ範囲で正義を守ろうとする人々への批判とも受け取れる。
プラトンの批判は真理に対する態度に向けられる
正義を奉じるには、利得を一切省みないという覚悟が必要である。これはプラトンが『国家』を書くにあたっての覚悟を示しているとも想像される。『国家』の序盤でこの挑戦を自らにたたきつけることが、どれほど自分に不利であるか。
読者として
グラウコンとアデイマントスの挑戦は、『国家』の読者に対して、正義についての自らの認識を問うもの。
正義を奉じる根拠が利得でしかないことを突きつけた上で、正義を弁護する長大な議論が始まる。