ルクレティウス事物の本性について解説|快楽主義を語るローマ詩人

ルクレティウス『事物の本性について』

エピクロスに端を発する「快楽主義」の検討をする上では、とても面白い本です。

 

亡くなった友人の思い出は快い感情をもたらす、という主張を見ました。

こちらを読んで戻ってきていただけると、いっそうルクレティウスの主張がよく分かります。

【隠れて生きよ】エピクロス『教説と手紙』に学ぶ幸福な生活とは?

他人の運命が我々に引き起こす感情は、我々の判断しだいで快とも苦ともなります。
だからと言って他人の運命に無関心であったり、他人の苦を喜んだりという意味ではありません。

 

ルクレティウスの一節

エピクロス派の詩人、ルクレティウスの一節を見てみましょう。

  楽しいことだ、大海のおもてを嵐がふきまくる時

  陸地にたって他の人の大きな難儀を眺めることは。

  人の苦しみが楽しい悦びだからというのではなく、

  わが身がどんな禍を免れているかを知るのが楽しいのだ。

  また楽しいことだ、平原に展開された大きな激戦を

  わが身の危険なくして眺めることは。

  しかしながら何にもまして甘美なことは賢人たちの

  教えによって守られた静かな高台にたち、

  そこから他の人々を見下ろし、彼らがあちらこちらと

  あてもなく生活の道を探しもとめ、

  天賦の才を競い、出生の高貴を争い、

また夜を日についで比類なき労苦を重ねて、

権力の極みにのぼり、世界を手にいれようとするのを見ることだ。

『事物の本性について』第二巻、1-13(藤沢令夫、岩田義一訳、筑摩書房『世界古典文学全集第21巻』)

この一節には、ストア派及びエピクロスの目指す賢者・知者への批判が浮き彫りになる。
そんな内容が含まれているように思えます。

ストア派について、ストア派が目指す心境は不動心(アパテイア)です。
そのためには一切の感情を撃滅しなければなりません(セネカ)。
憐れみや同情を持つことは許されず、学説によっては恒常的な悦びや配慮といった心を持つことも賢者に相応しくありません。

これが、賢者とは感情を持たない非人間的な人間ではないのかと批判されています※。

※これらの好ましいはずである感情は3つあり、「善き感情(エウパテイア)」と呼ばれます。

  1. 喜び(カラ)
  2. 用心深さ(エウラベイア)
  3. 願望(ブーレーシス)

(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』7.116)。この問題については廣川洋一著『古代感情論』岩波書店、2000参照。)

 

キケロによるエピクロス批判(『善と悪の究極について』)

一方、エピクロスは無苦のために欲望の充足を目的に生活します。
それは原則自己利益を求めるものであるから、ただ徳高く、高潔であることを目的に生活する場合と異なる判断が生じるのではないか。

これはキケロの著作『善と悪の究極について』において、キケロがエピクロス擁護者のトルクワートゥスを批判した最大の理由です。

そこにはエピクロス派の快楽を行為の目的とする思想に対して、以下のような反論があります。

不正行為者たちは魂のやましい自覚によって苦しめられる、のみならず処罰への恐れによってまた苦しめられる。
なぜならたとえ今処罰されていなくても、いつか処罰されるのではないかと常に恐れているからである。

エピクロスはこう主張するが(主要教説17,34、ヴァチカン断片7)、それは随分と軽い、根拠の薄い議論である。

想像すべき不正行為者とは、すべてを狡猾に自分の利害に当てはめて判断し、鋭敏で、策略に長け、悪に練達しており、どうすれば自分は隠れたまま、証人も作らず、誰にも知られず人をだますことができるか、容易く考え出すことができるような人間である。

(キケロ『善と悪の究極について』2.53)

悪事が露見せずに済むこともありうるだろうし、彼(不正行為をする知者)はそれを喜ぶだろう。
捕まっても、すべての罰を侮蔑するだろう。
なぜならその知者は死を軽視するように、追放を、苦痛そのものさえも何とも思わないように教え込まれているだろうから。(前掲書2.57)

友人が遺産を娘に渡してくれときみに頼んで亡くなった。
そのことは誰にも話さず、どこにも書かれていなかったらきみはどうするか。
(エピクロス派がいうような)良識のある知者なら返してやるに決まっている。

だが快楽をあらゆる行動の究極の目的とするならば、返す行為は矛盾する。
なぜなら快楽ではなく義務を追求していることを明らかに示す行為であるからだ。

(前掲書2.58。テキストそのままの引用では文意がわかりづらいため、あらすじ調にまとめてあります。)

キケロにとって、あらゆる行為の目的は徳や高潔です(ストア派の主張に沿っています)。

上記引用の例では、ただ利益や快楽を求めることが第一であれば、返すはずがないとキケロは主張します。

遺産を自分のものにする方が利益になるにも関わらず、知者は自己の利益を捨てて返すだろう。
少なくとも対話相手のトルクワートゥスに対して、あなた程の人であれば、必ず返すであろうと問いかけます。
なぜ返すのか。返すのが義務であり、正義であり、高潔であるからである。
キケロはそれらの徳を自然の力と言い、自然の力が快楽に勝ると反論しました。

これに対し、例えばこう反論することもできます。

返すのは自然の力などというものではなく、返さずにいるのは不快であるからだ。
返さなければ娘に悪いことをしたという思いがよぎるだろう。
そしてその娘を思い出す度に心は動揺する。
それは心境の平静を乱すものである。

このような反論は更に上の引用で示した、悪い人間を想像すれば通用しません。
返さないことを一つも悪いと思わない人間ならば返しません。
エピクロスの論理では、少しでも悪いと思う人間ならば必ず返すはずなのですが。

 

エピクロスの論理の欠陥

エピクロスはこう言います。

「何人も悪を見てあえてこれを選ぶわけではない。むしろそれをより大きな悪と比べて善であるかのように思い、これに惑わされて悪を追い求めるのである。」

「不正者は極度の動揺に満ちている 」

しかし、キケロは不正行為を悪とみなさず、死も罰も恐れずに不正を行う人間の存在を指摘しました。
エピクロスはこの「平静な不正者」を見落としていたと言えます。
ここが実際はともかく、エピクロスの論理の最大の欠陥である。

補足
「実際はともかく」と言ったのは、この時代の哲学は、きわめて実践的であったからです。
論理上は反論できるかもしれないが、実際問題どうなのかという点もまたきわめて重要だからです。

したがって、

  • 実際のところ「平静な不正者」のような人間がいるかどうか?
  • エピクロスの教えに従って非道徳的な人間が生まれるのかどうか?

という問題は依然として残されています。

 

キケロの徹底的な批判を読むと、ルクレティウスやエピクロス快楽主義が本当によく分かります。

快楽主義哲学に対するキケロの批判はこちら

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