平安時代の代表的な歌人である紀貫之。
みなさん、名前は知っていますよね?
『土佐日記』の作者として高校でならった印象の方が強いかもしれません。
今回は、紀貫之について、
- 紀貫之の生い立ちは?
- 紀貫之の経歴と作品
- エピソードで読む紀貫之の性格は?
を紹介します
こちらを読めば、紀貫之の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
紀貫之の生い立ちは?
紀貫之は平安時代の前期から中期を生きました。
誕生は870年前後、亡くなったのは945年頃と言われています。
75年ほど生きたことになりますので、平安時代としてはかなり長生きした人物ですね。
父は紀望行、従兄は紀友則であり、二人とも歌人として有名です。
親族揃って和歌で名を馳せたんですね。
紀貫之は官人でもありましたが、あまり官位は上がっていません。
地方の次官や長官を命じられ、美濃国(現在の岐阜県)や土佐国(現在の高知県)で任務につきました。
この土佐国での任務からの帰京のことを記したのが『土佐日記』ですね。
あまり官位が上がらなかったとは言え、『土佐日記』執筆後には従四位下木工権頭にまで昇進しています。
分かりにくいので、現在の金額に換算した推定年収で比べてみますね。
国司として地方巡りをしていたころは、推定年収が1000万円程度でしたが、従四位下までいくと、推定年収が3000万円程度ということになります。
お給料で見ると3倍ですよ!
国司でもいい給料ですけどね・・・
これで官人としては振るわなかったって言われちゃうんですね。私には十分でございます。
紀貫之の経歴と作品
官人としては振るわなかった紀貫之ですが(いや、十分ですけどね)、文学の才能、特に和歌の才能は秀でていたようですので、文人としての紀貫之の経歴に移りましょう!
文人として注目されていた割に、官人としては昇進しなかったってことでしょうね。
紀貫之が歌人として認められたのは、意外と遅く、20歳を過ぎてからでした。
紀貫之の和歌は『古今和歌集』以降の勅撰和歌集に435首も入集されており、これは歌人の中で最高数を記録します。
もちろん『小倉百人一首』にも収録されていますし、自ら『貫之集』も編纂しています。
この時代のどの和歌集を見ても、紀貫之の名前があったわけですよね。
和歌界のプリンス(プリンスだったかどうかは分かりませんが・・・年も年ですし・・・)として君臨していたわけですね。
勅撰集に多くの和歌が入集されるだけでも、とても名誉あることですが、紀貫之は撰者にも任命されています。
905年、紀貫之が30代の頃、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の撰者となりました。
撰者は紀貫之を含めて4人で、20巻、1100首を超える和歌を選びました。
最初は紀貫之の従兄である紀友則が中心となって選んでいたのですが、友則が病死してしまい、紀貫之が代わって中心となりました。
『古今和歌集』の「仮名序」を書く大役も任され、分かりやすい言葉で和歌の意義や和歌の性格を述べています。
これは、最初の歌論として歴史的意義が高いものとみなされています。
撰者として任命されるだけで、才能を大いに認められたことになるのに、序文まで任されるとは、紀貫之の和歌の才能は相当なものだったんですね。
そんな紀貫之の和歌は理知的分析的歌風と言われており、それまでの、自然をありのままに詠む歌風ではなく、技巧に富んだ和歌を詠むスタイルを完成させました。
有名なのは掛詞(かけことば)ですかね。
一つの言葉に二つの意味を持たせて、表現を豊かにすることが可能です。
高校の授業などではこの頃の和歌について「たをやめぶり」と習うはずです。
技巧的・理知的で優美・繊細な女性風の和歌です。
「古今調」とも言われますね。
このように、歌人として活躍する一方で、国司として任務にも就いていた紀貫之。
930年からの4年間は土佐国でお勤めしました。
『土佐日記』は、4年の任期を終えて、934年12月21日に土佐を出発し、935年2月16日に京の自宅にたどり着くまでの55日間の旅を記したものです。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
この一文から始まります。この文はとっても有名ですよね。
当時、男性の記す日記は公的な記録を目的としており、漢文で書かれていました。
もちろん、紀貫之も官人ですので、この帰京の旅も漢文で日記を付けていたに違いありません。
それを自宅にたどり着いてから、文学としても書き残しておこうと試みたのです。
女性になりすますことで、仮名で日記を書くことができます。
漢文だとどうしても記録的で、堅い文章になってしまいます。
そこを仮名にすることによって、記録ではなく、自分の心情なども含めた私的な日記にしたかったのでしょう。
『土佐日記』には、亡き子への追悼、和歌に対する批評、社会への風刺などが書き込まれています。
これらはどうしても漢文では表現しづらかったのでしょう。
また、和歌を愛する紀貫之ですので、その時その時の心情を和歌に詠んでいます。
漢文で書かれた日記に和歌を詠み込むのは難しいですよね。
これもまた仮名で記した理由の一つでしょう。
最後に、技巧にこだわる紀貫之ですので、散文である『土佐日記』にも、さまざまな技巧を凝らしています。
これは、諧謔(かいぎゃく)表現と言われますが、簡単に言うとジョークやダジャレのことです。
諧謔表現については次の見出しで詳しく見ていきますね。
仮名だからこそ、諧謔表現を多用することができるんですよね。
『土佐日記』は今まで公的に漢語で記されてきた日記を、私的な仮名で表現したことが大きく評価されています。
初めての日記文学としても歴史的価値は高く、後の女流日記文学に大きな影響を与えています。
エピソードで読む紀貫之の性格は?
さぁ、それでは先ほど出てきた諧謔表現についてです。
今風に言うと、紀貫之は親父ギャグが大好きでした。
『土佐日記』には、たくさんの親父ギャグのようなものが出てきます。
もちろん、私たちが今読んで、抱腹絶倒するものはありませんが、当時の人からすると、クスっとさせられる要素が散りばめられています!
例えば、これは高校の教科書でも採用されていることのある箇所なのですが、
22日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原ときざね、船路なれど馬のはなむけす。
どこが面白いか分かりますか?
今でも使うことのある「はなむけ」という言葉、実は、昔は「馬のはなむけ」と使われいたんです。
旅立つ人の乗る馬の鼻を、旅先の方向に向けて無事を祈ることが語源です。
ここから、送別の宴を催したり、餞別の品を贈る際に使われるようになりました。
ここでは、「船での旅」だけれども、「馬のはなむけ」をするところにシャレを効かせているんですね!
面白い!!
このような言葉遊びが『土佐日記』には溢れており、読む人の心を掴みました。
紀貫之が『土佐日記』をまとめたのは、60歳を過ぎてからですので、親父ギャグを多用してしまう気持ちも分からなくはないですよね。
今でも、失笑レベルの親父ギャグを恥ずかし気もなく言いまくるおじさん、たくさんいますもの。
もちろん、シャレばかり書いているのではなく、赴任中に亡くなってしまった我が子への哀悼を記している、しっとりとした場面もあります。
ただ、真面目に旅程を記録しているのではなく、シャレや自分の心情を含めつつ、時には虚構も交えながら書かれていることが、後世まで伝わる日記として評価されているんでしょうね。
まとめ: 紀貫之はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
紀貫之の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
最後に紀貫之についてサクッとまとめておきますね!
- 紀貫之は平安時代前期~中期の官人、歌人である
- 紀貫之は歌人として多くの優れた和歌を詠み、『古今和歌集』の撰者でもあった
- 紀貫之は初めての日記文学である『土佐日記』を仮名で書いた
- 紀貫之はダジャレ好きだった
歌人として名高い紀貫之は、日記文学界のパイオニアでもあったんですね!
『土佐日記』は現代語訳で読んでも2時間もあれば読み終えることができるほどの分量です。
しかし、堅苦しい現代語訳だけではちょっとしんどいな・・・と言う人にはこの2冊がおすすめ!
- 『すらすら読める土佐日記』林望
- 『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』大伴茫人・田村秀行
ぜひ、紀貫之のシャレが効いた『土佐日記』を読んでみてください
以上、「紀貫之の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした