好きな戦国武将は?と聞かれて一番多く出てくる武将と言えば真田幸村でしょう。
真田幸村は多くのドラマやゲームに登場し格好いい青年として描かれています。
しかし、若いときの幸村に関する史料はあまりなく、年を取ってからの方が活躍が見られます。
また、「真田幸村」という名の人は実際にはいませんでした。
幸村の本当の名前は「真田信繁(幸村)」です。
なぜ、幸村という名前で呼ばれるようになったのか?
※ここからは信繁で紹介します。
今回は真田信繁(幸村)について
- 真田信繁(幸村)の生い立ちは?
- 真田信繁(幸村)の経歴は?
- エピソードから見る真田信繁(幸村)の性格は?
をご紹介します。
これを読めば、真田幸村(信繁)の性格や経歴、生い立ちとエピソードがわかるようになって、さらに真田幸村のことを知れますよ。
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真田信繁(幸村)の生い立ちは?
真田信繁(幸村)は
- 永禄10年(1567年)
- または元亀元年2月2日(1570年3月8日)
に武田家の家臣・真田昌幸の次男として生まれます。
幼名は弁丸または源次郎です。
源次郎が生まれた当時の真田家は武田家の外様家臣でした。
真田家は源次郎の祖父幸隆の代に、武田信虎から故郷である信濃国小県郡から追い出されます。
- そして、武田家の当主が晴信に変わると幸隆は武田家に登用されます。
- 武田家の家臣となったあたりから真田家は歴史に姿を現します。
父の真田昌幸は幸隆の3男であったため武田家に人質として出されます(この時に昌幸は武藤家の養子となっていたため、名を武藤喜兵衛と名乗っていました)。
しかし、晴信は昌幸を人質として見ておらず、一家臣として重用します。
当然、昌幸の子である源三郎(信幸)・源次郎兄弟も晴信から大事にされます。
- 源次郎は元服し名を信繁と改名します。
- 信繁という名は晴信の弟である武田信繁にあやかって名乗らせました。
- 昌幸は晴信・信繁兄弟のように仲良く育つように願っていました。
天正3年1575年に長篠の戦いが起こります。
この戦いで真田家から出陣した昌幸の兄2人(信綱・昌輝)が戦死してしまいます。
これによって真田家の当主は昌幸となります。
天正10年(1582年)3月に織田信長の甲州征伐によって主家であった武田家が滅びます。
- 真田家は織田家に恭順することを決め、信繁は織田家臣・滝川一益のもとへ人質として送られます。
- しかし、武田滅亡から3ヶ月後の6月12日に本能寺の変が起こります。
- 信長の死は日本全国を戦乱の世に戻し、真田家もその影響を受けます。
旧武田領は徳川家・北条家・上杉家の取り合いになります(天正壬午の乱)。
天正13年(1585年)に旧武田領をめぐり3勢力が争う中、昌幸は上杉家に帰属し、信繁は上杉家へ人質として送られます。
天正14年(1586年)、昌幸は信長の後を継いで勢力を伸ばしていた豊臣秀吉に服属し、信繁は人質として大坂に送られます。
この時に豊臣家臣・大谷吉継の娘を正室に迎えます。
天正18年(1590年)には秀吉による小田原征伐が開始され、信繁は父と兄とともに参戦し、秀吉の天下統一を助けます
これが信繁の初陣だとされています(当時24歳)。
文禄3年(1594年)には従五位下左衛門佐に任命され豊臣姓をもらいます。
豊臣政権内での活躍がわかる史料が少ないため、細かいことはあまりわかっていません。
真田信繁(幸村)の経歴は?
信繁の活躍が表に出てくるのは豊臣秀吉が亡くなった後からです。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に太閤豊臣秀吉が亡くなります。
秀吉の死は全国を再び戦乱の世に戻します。
中でも、すぐに動いたのが豊臣政権内でナンバー2だった徳川家康でした。
慶長5年(1600年)、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)の間で関ヶ原の戦いが起こります。
信繁は父・昌幸とともに西軍につきますが、兄の信幸は東軍につきます(信幸の正室は徳川家臣・本多忠勝の娘、信幸は名を「信之」に変えます)「犬伏の別れ」。
昌幸と信繁は関ヶ原には行かず、本拠地・上田城で家康の3男徳川秀忠と戦います(第二次上田合戦)。
- 徳川軍38000に対して真田軍は2000でしたが、昌幸の策略や信繁の活躍で勝利します。
- しかし、関ヶ原の戦いは東軍の勝利となり真田家は負けることになります。
戦に敗れた昌幸と信繁は、兄・信之の助命嘆願によって命は助けられましたが、紀伊国九度山(和歌山県)に配流されることになります。
九度山での生活は兄・信之の援助もあってなんとか食べていけていました。
また、この間に昌幸から兵法などを教わります。
配流生活は10年ぐらいになり慶長16年(1611年)に父・昌幸が亡くなってしまいます。
信繁の周りには奥さんと嫡男幸昌、数人の家来しかいませんでした。
慶長17年(1612年)に信繁は出家し「好白」と名乗ります。
慶長19年(1614年)、信繁のもとに1人の使者が来ます。
大坂の豊臣秀頼から徳川と戦うために大坂に来てほしいという内容でした。
信繁は脱出を決意し、嫡男幸昌と共に大坂城に入城します。
大坂城では、城の弱点といわれていた南側に「真田丸」と呼ばれる砦を築きます。
そして同年12月に大坂冬の陣が起こります(真田軍は赤備えで出陣)。
序盤は信繁が築いた真田丸の活躍により豊臣方が有利でしたが、中盤から終盤にかけて徳川軍が用意したカルバリン砲(大砲)によって形勢が逆転します。
- 12月10日には徳川軍から降伏文が届き、話し合いの結果降伏することを決意します。
- また、降伏の際に大坂城の堀は埋められ、土塁と石垣は破壊されてしまいます。
- 和平の成立によって戦は終わりましたが、徳川軍は大砲の製造をするなど戦争準備を行っていました。
また、大坂を中心に浪人による狼藉や放火といった噂が家康の耳に入ると、浪人の解雇や豊臣家の移封の要求をしてきました。
そして、最後まで交渉していた豊臣方でしたが決裂してしまいます。
慶長20年(1615年)、再び徳川軍が大坂城に攻めてきました(大坂夏の陣)。
戦況は圧倒的に豊臣方が不利でした。
理由は、大坂冬に陣の際に堀は埋められ、土塁と石垣は破壊されていたからでした(真田丸も破壊)。
籠城戦ができないと考えた信繁は野戦することを決定します。
豊臣方の武将は各地で奮戦するも次々と討ち死にしていきます。
- こんな中、信繁が率いる真田隊は徳川本陣へ突撃し、徳川方の将兵を次々と討ち取っていきます。
- そして、本陣へ突撃した信繁でしたがあと一歩のところで鉄砲隊の攻撃を受け討ち死にします。
- この時、信繁は48歳でした。
また、嫡男の幸昌も討ち死にします。
エピソードで見る真田信繁(幸村)の性格は?
信繁は温和で明るい性格でした。
『幸村君伝記』には「物事に対する態度はものやわらかで忍耐強い。言葉数は少なく、怒ったり腹を立てたりすることはない」という兄・信之の言葉が残っています。
- 信繁が上杉家の人質として越後にいた際に、景勝にとても可愛がられており領地をもらうほどでした(18歳)。
- また、昌幸が秀吉に服属した際に信繁が秀吉の人質となると、景勝は「返してくれ」と秀吉に頼んだという話があります。
大坂の陣の際には、日本全国から多くの浪人が集まってきていましたが、全然まとまりがありませんでした。
そんな中にいた信繁は、ものやわらかで忍耐強い性格を発揮し、いろんな人の意見を聞きまとめ上げていきます。
もし信繁がいなかったら、もっと早くに豊臣方は負けていたでしょう。
- 一方、信繁は戦になると性格が鬼のようになり敵を倒していきます。
- これは、配流生活で父から教わった兵法の影響があるのかもしれません。
このギャップが信繁人気の秘密なのでしょう
まとめ 真田幸村の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い
ここまで真田信繁(幸村)について紹介してきました。
まとめてみると
- 信繁の若い頃はあまりわかっていない
- 信繁の若い頃は人質生活がほとんどだった
- 信繁は普段はおとなしいが戦になると鬼神になる
- 信繁は多くの人から慕われる人物だった
最後に、真田信繁(幸村)の最大の謎がなぜ「真田幸村」となったか。
「幸村」という字は江戸時代に書かれた『難波戦記』という大坂の陣ことを描いた軍記物にでてきます。
- 江戸時代に入ると、家康を追い詰めた信繁は人気が出ましたが、実名で登場させると著者が処罰される可能性がありました。
- そのため、真田家の通字である「幸」に「村」(村が使われた経緯はわかっていません)をつけて「幸村」にしたと言われています。
- そして、明治時代になり幕府の規制がなくなると、真田幸村という名前で作家達が書くようになったため、いつの間にか「真田幸村」が世間に広まっていきます。
これらが原因で現在の真田幸村がつくられました。
ちなみに、幸村とセットで登場する「真田十勇士」も架空の人物達です。
真田幸村に関する作品はたくさんあります。
大河ドラマには、
- 草刈正雄さんが演じた『真田太平記』
- 堺雅人さんが演じた『真田丸』
がオススメです。
本では、火坂雅志さんの『真田三代』がオススメです。
この本は上下巻があり、2冊にわたって幸隆・昌幸・幸村について書かれています。
是非読んでみてください。
以上、「真田幸村の性格と経歴・生い立ちとエピソード」でした。