夏目漱石こころの海水浴の意味とは?鎌倉と房州での海の象徴を考察!



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夏目漱石こころにおける海水浴ってどんな意味があるの?

こころの冒頭は、海水浴ですよね。

なんか色んなモチーフがあるんです。

ある人は海水浴に同性愛的な描写を見出したりもします。

そんなこころにおける海水浴のシーンの意味などをまとめてみました。

夏目漱石『こころ』(amazonで無料で読めます)

※原文は青空文庫から引用しているので、ルビが入り込んでいます。

こころの海水浴は2つある

こころの海水浴の場面は2つあります。

1つは、冒頭。先生と私が出会う、鎌倉の海水浴場ですね。

出だしの舞台が鎌倉の海ですね。

人がいっぱいいます。

このころ海水浴はすでにポピュラーなレジャーだったことがわかりますね。

もう1つは、どこだか分かりますか?

それは、

Kと先生が出かけた千葉の房州です。

こっちの房州での海水浴って、意外に注目されてないというか、印象が薄いですよね。

ということで、どちらも紹介していきます。

先生と私の海水浴(鎌倉)

まず、私が先生を見つけた時の場面です。

私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。

先生と知り合いになりたい私は、泳ぐ先生のあとを追いかけます。

先生が昨日のように騒がしい浴客よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後あとが追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳はねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるしに抜手ぬきでを切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんを描えがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。

脱衣所で、先生がメガネを落としたのを、私が拾ってあげたことから2人は知り合いになります。

私は先生の後あとにつづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二丁ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼あおい海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外ほかになかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充みちた筋肉を動かして海の中で躍おどり狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。

非常に、肉感溢れる描写だと思いませんか?

肉体と精神の喜びといった感情が、映像とともにそのまま浮かんできますよね。

このシーンは先生にとっての海と私にとっての海がよく対比されています。

  • 私は、できるだけ体を動かして泳ぐことに喜びを覚えています。
  • それに対して先生は、ゆったりと海に包まれるようにやすらぎを感じています。

この対比は、のちの先生の言葉に活きてきます。

「私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打つかりたいのでしょう……」

私は動かずにいられる、あなたは動けるだけ動きたい、この言葉が、一番最初の先生と私が海で一緒に泳いでいたときの様子と、対になっているんですね。

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先生とKの海水浴(房州)

そして、Kとの海水浴。こちらでは、海を泳ぐことへの不快感や、苦しみが延々と描写されます。

どこもかしこも腥なまぐさいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦すり剥むくのです。拳こぶしのような大きな石が打ち寄せる波に揉もまれて、始終ごろごろしているのです。

私はすぐ厭いやになりました。しかしKは好いいとも悪いともいいません。少なくとも顔付かおつきだけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我けがをしない事はなかったのです。

海に入ると、かならずけがをする。すりむく。先生にとって、海は苦痛で仕方ない。鎌倉でのぷかぷか浮かぶ先生とは全然違いますね。

もう1シーンあります。

我々は暑い日に射られながら、苦しい思いをして、上総かずさのそこ一里いちりに騙だまされながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている意味がまるで解わからなかったくらいです。私は冗談半分Kにそういいました。するとKは足があるから歩くのだと答えました。
そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず潮しおへ漬つかりました。その後あとをまた強い日で照り付けられるのですから、身体からだが倦怠だるくてぐたぐたになりました。

房州での海でおもしろいことが1つあります。

それは泳ぐことの喜びよりも、海を眺める事の喜びを描写していることです。

すべてこの沿岸はその時分から重おもに学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃てごろの海水浴場だったのです。
Kと私はよく海岸の岩の上に坐すわって、遠い海の色や、近い水の底を眺ながめました。岩の上から見下みおろす水は、また特別に綺麗きれいなものでした。
赤い色だの藍あいの色だの、普通市場しじょうに上のぼらないような色をした小魚こうおが、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。

房州では、海は泳いで動いて肉体の喜びを与えるものではなく、とおくから眺めるものだったのですね。

海を母や女性のイメージにたとえることは良くありますが、先生にとって海とは、遠くから眺めるのがいい、実際に入ると痛い目に遭う、そういうモチーフとしてあらわれているのです。

つまり、海=お嬢さんとして

  • 信仰に近い愛でもって愛する=入り込まないで安全な距離をとる
  • 海に入ると痛い目にあう=お嬢さんは策略家かもしれないという疑い

このような対比も可能ですね。

まとめ

夏目漱石『こころ』における「海水浴の意義」を考察してみました。

  • 鎌倉での海水浴は、泳ぐ。
  • 房州での海水浴は、眺める。

このような対比ができると思います。

参考になれば幸いでs。

主な参考文献



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