宗教学入門にあたり、今すぐ読むべしと言われている田川建三『宗教とは何か』。
前回に引き続いて第1章を読んでいきます。
前回記事はこちら。
人間の活力とはどこから湧いてくる?
人間のエネルギーの源泉は食って寝ることです。
エネルギーはどこから湧くのか。そのようなことを問う人は何を期待しているのか。
その人は、何か人間の外から人間をつき動かすようなエネルギー、いわば神的な、あるいは超人間的なエネルギーの源泉を期待しているのである。・・・何か特効薬みたいな力が天から下って来て、我が身に注ぎこまれるのを期待している。
宗教に関心を持つ人のうち、どのような人がこのような問いを持ちやすいだろうか。
貧困や病気からの解放を求めて宗教の門を叩く人には、そのような活力にさほど関心はないだろう。
むしろ特別な窮乏や困難がないにもかかわらず、自らの生活に何かしらの欠乏を感じており、いわば「食って寝る」だけで満たされない人々こそ、このような活力の源泉を求めるのではなかろうか。
<熱血>に憧れるけれども、その対象、火炎燃え盛るべきところが見つからない人々。
いわゆるアルキメデスの点を探し求める人々。
だが田川建三は人間の活力の源泉をあくまで即物的に語る。
実際、人間が豊かに活力に満ちて活動する力の源泉など、食って力をつけ、よく寝て疲労を回復する以外に、ありようもないのだ。
・・・人間にとって「正しさ」の基準は、食って寝ることの確保である。
これは冗談で言っているのか、それとも大真面目で言っているのか、読みようによっては判別しかねる箇所である。
この言説が正しいとすれば、何か特別な、ふつふつと沸き起こるような活力など存在しないことになる。
そのような(外部からにせよ、内部からにせよ)活力がどこかにあると期待している人々の存在を指摘したことは鋭い。
しかし「食って寝る」以外に活力の源泉などないと断言するのは、ずいぶんと振り切れているのではないか。
このように言うと、時たま、いともなさけない反論がもどってくる。人間とは、食って寝るだけの、たったそれだけのつまらぬ存在ではなく、もっと大切なものがあるはずだ、というのである。いわく、愛、生きがい、精神、正義、あるいはまた、進歩だの、革命だの……。
・・・人間が食って寝ることを「たったそれだけのこと」などと呼ぶのは、あきれるべき暴言である。・・・そんな思い上ったせりふを口にしたければ、まず、世界中に飢えて死ぬ人間が一人もいなくなる状態をつくりあげた上で言ってもらおうか。
・・・そういう人は、自分だけがたらふく食ってぬくぬくと寝ていられれば、他人がどのようになろうと知ったことではない、と平気で居直ることのできる人間である。
「たったそれだけのこと」というのはわら人形をこさえて怒っているように思えなくもない。
しかし「食って寝ること」が人間の生活にとって、いかに重大であるか、それを繰り返し主張しているのだ。
ちなみに飢えについて。現在はこのような状況であるという。
世界では、およそ7億9,500万人(9人に1人)が、健康で活動的な生活を送るために必要かつ十分な食糧を得られていません。
しかし、私は正直言って、こうも思う。
この食うこともままならない人々が世界に10%以上の割合で存在すること、それが何だというのだ?
日本でさえ子どもが6人に1人の割合で1日3食たべてないという。それが何だというのだ?
いったいこの私となんの関係があるのだ、と。
恐ろしくエゴイスティックではあるが、誰しもどこかで一線を引いているだろう。
ここまでは自分と関係あること。ここからは自分とは関係ないこと、と。
その線引きは、一般的には利害の有無を基準に行われる。
これほどまでに他者に対して無関心でいられる、この精神がどうして生まれてしまったのだろうか。
個人的な資質の問題なのだろうか?
それとも教育や産業や政治経済といった社会構造全体から影響を受け、知らず知らず生み出された性質なのだろうか?
考えることが多く、理解しきれない。
田川はこんなことをいう。
食うためには生産しなければならず、(安心して)寝るためには共同しなければならぬ。そこからあらゆる生産関係、社会関係が生じてくる。お互いに十分食って寝ようと思うなら、そのために生産関係、社会関係を新しくつくり直していかねばならぬ。現状の生産・社会関係ではとても人類は十分に食って寝ることができないのだ。・・・我々が日常的に食って寝るために生きている、その毎日の生が明日の社会関係をつくり出し、その明日の社会関係がまた明日以後に我々が食って寝る生活を規定する。
第一章 「人は何のために生きるか」。
本章について、あとがきにはこう記されている。
ここに書いたことは、自分の思想のもっとも根幹の宣言である。