小説を読むときに、始めから読まない人間がいるだろうか?
読書法は、書物の形態によって、様々であろう。
しかし私たちが読書する際、おそらく99%の場合、最初の1ページから読んでいく。
たとえば名言・格言集といった書籍を読むときは、ランダムにページを開くのも一興かもしれない。(一種の占い・くじ引きのようなものだ。)
しかし、ランダムにページを開き、拾い読みをしていくという読み方が、小説に適用されることなどあり得るのか?
それを実践しようと試みたのが、夏目漱石『草枕』における主人公の画工だった。
小説は筋のほかに何を読むんですか?
漱石『草枕』には、主人公の画工と、那美さんという女性が出てくる。
以下は、洋書を開いている画工の部屋に、那美さんがやってきたくだりの会話のワンシーンである。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。
余と名乗る主人公の画工が読んでいる洋書は、メレディス『ビーチャムの生涯』という小説である。
ここでは、画工と那美さんの間で、小説の読書法の対立が浮かび上がる。
那美さんは、小説や物語はプロットやストーリーを読むのが当然と考える。
対して画工は、小説であるにも関わらず物語の筋を無視し、ページをランダムに拾い読みをする読み方を採用している。
しかも、小説はそうやって読んだほうが面白い、とさえ述べる。
漱石自身による解説文『余が草枕』
漱石は『草枕』についての自身の解説文で、次のように記している。
私の「草枕」は、この世間普通にいう小説とは、全く反対の意味で書いたのである。
唯一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。
さればこそ、プロットもなければ事件の発展もない。
プロットのない小説。
漱石が『草枕』を書くにあたって、念頭においたテーマである。
だから、事件の発展のみを小説と思う者には、「草枕」は分からんかも知れぬ。面白くないかも知れぬ。
けれども、それは構ったことではない。私は唯、読者の頭に美しい感じが残りさえすれば、それで満足なのである。
直線的な読書と絵画的読書
「読者の頭に美しい感じが残りさえすれば」満足という漱石の言葉は、『草枕』の作品中でも表現されている。
それは、主人公が画工であることに即して、絵画的な読書と言えるようなものだ。
レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境界もとうてい物になりそうにない。
余が嬉しいと感ずる心裏の状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次に展開すべき出来事の内容がない。
一が去り、二が来り、二が消えて三が生まるるがために嬉しいのではない。初から窈然として同所に把住する趣きで嬉しいのである。
すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按排する必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。
レッシングとは、ドイツの詩人・批評家であり、この議論は『ラオコオン』という評論で論じられた事柄である。
要するに、レッシング的な文学の楽しみとは、物語のプロットを追いかけ、物語のクライマックスにいたって全体の構造を把握する読み方である。
これはいわば「直線的読書」であり、通常の読書法だ。
対して画工の考える「同所に把住する趣き」とは、ある一瞬間における全体的な把握を言う。これは「絵画的読書」とでも言えるものだ。
たとえば音楽は、どうしても時間に縛られる芸術である。開始10秒で全体を把握するわけにはいかない。
それに対して絵画は、同時に作品の全体をとらえることができる。
私たちは、キャンバスの右上から、徐々に左下に向かって美術品を把握するわけではない。
まず最初に、作品の全体が視界に入る。その一瞬の印象で、すべてが決まる。それから細部の鑑賞へ入り込んでいく。
小説は、連続する言葉を読んでいくのだから、芸術作品としてのあり方は、音楽に近い。
その小説の限界を打ち破ろうとする試みが、画工の小説の読み方であり、また漱石が『草枕』で表現しようとした「プロットなし」の小説であった。
閉ざされた読書と開かれた読書
直線的な読書において読者が果たす役割とは何か。
それは、作者によって与えられた意図を正しく理解することである。具体的には「筋を読む」「プロットを理解する」ということになる。
「閉ざされた」読書とも言える。
それに対して、画工が試みた絵画的な読書では、読者は作者の意図を離れ、自由に作品に接することができる。
与えられたテキストに対し、独自に意味を付け加える。文脈を無視した解釈を与える。
「開かれた」読書とも言える。
ただし、どちらの読書法がいい/悪いというわけではない。
直線的な読書は、読者は不自由を強いられる分、正確な読解を期待できる。それに正確な読解の上では必要不可欠な読書法である。
絵画的な読書は、読者は楽をできる分、正確な読解は期待できない。オリジナルな意味を生み出す可能性もある一方、大半は思い思いに勝手読みをするだけに留まる。
ただ、私たちは基本的に、小説を読む上では直線的な読書に縛られている。
私たちは那美さんのように
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
と小説に対して、読み方を制限される必要性などどこにもないのだ。
小説や作者が与える縛めから解放され、小説のテクストに対して自由に接する可能性を、漱石の『草枕』は提供してくれている。
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