かれら(清新体派)には愛の讃歌こそあれ断罪はない。
そしてダンテは、「愛に心うごかされた」ベアトリーチェによって天国に導かれる。近藤恒一(1985)『ルネサンス論の試み』より
ルネサンス詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)のプロフィールを書いてみました。
これをお読みいただければ、大体ペトラルカの人となりがわかります。
ペトラルカはイタリア俗語詩人としてのみならず、
- ラテン語詩
- リウィウスの文献校訂
- 哲学・宗教的著作
など多くの著作活動に携わりました。
また、人文学者として政治的な活動にも携わりました。
当時の人文学者は外交等に重用されていました。まさに教養が力となった時代でした。
途中途中で、重要な出来事や作品に関しては、関連記事をご紹介しています。
ご覧になって頂ければ、ペトラルカの生涯や詩作品や思想について、いっそう面白く感じて頂けると思います。
下記クリックで好きな項目に移動
ルネサンスの父ペトラルカは、ダヴィンチに負けない万能人だった
ビザンツ帝国は本当におさえたい
西洋のルネサンスの始まりは1359年にボッカッチョとペトラルカがビザンツから取り寄せたホメロス『イーリアス』のテキスト翻訳のために修道士レオンツィオ・ピラートをフィレンツェに招きギリシア語講座を開設したところから始まった
といっても過言ではない https://t.co/ETCbuNmlW4
— Master Neeton@哲学の高等遊民 (@MNeeton) July 25, 2018
ペトラルカFrancesco Petrarca(1304-1374)について
ダンテやボッカッチョとおおむね同時代(14世紀)のイタリアの詩人です。
詩人としての側面のみならず、文献学者や道徳哲学者など、幅広く活動しました。
古典文化の復興を志し、各地で古典作品を収集、複写と復元を精力的に行います。
主要な業績としては、
- リウィウス『ローマ建国史』の校訂。
- キケロ『アッティクス宛書簡』の発見。
- ボッカッチョ主導のホメロスのラテン語訳プロジェクト
- ビザンツからのギリシア語教師ピラートの招聘に協力
多くの業績から「ルネサンスの父」と称される。
代表作は
- 恋人ラウラへの愛を歌った俗語詩篇『カンツォニエーレ』
- 桂冠詩人の称号を得た叙事詩『アフリカ』
- 死と名誉のアレゴリーを歌った『凱旋』
- 自編による大部の『書簡集』
- 自らの精神的危機と救済を分析しつくした『わが秘密』
- アリストテレス学者を批判した『無知について』
など多数。
ペトラルカの作品のほとんどは、自身の心情の叙述です。
その心情の中身とは、
- 幸福と不幸
- 愛の苦悩と喜び
- 信仰と情念
- 天上の栄誉と地上の栄誉など
宗教的な対立に起因する葛藤でした。
現代の私たちが読んでも、非常に心動かされる記述がたくさんあります。
また、ペトラルカは多方面にわたって活躍した人物です。
- 詩人
- 哲学者
- 古典文献学者
- 歴史学者
- キリスト教聖職者
- 政治学者
- 政治書記官
- 登山家
- 音楽家
などなど。
有名なのは詩人と人文主義者(文献学者・歴史学者)の側面です。
詩作の業績としては、『俗語断片詩集』(通称『カンツォニエーレ』Canzoniere)があります。
カンツォニエーレは、恋人ラウラ(人妻)への愛を歌った詩。
その形式や文体は後世に絶大な影響を与えています。
特にイギリスの詩文学への影響が顕著で「ペトラルカ主義」という流派まで登場しました。
他方、人文主義者の側面。
ペトラルカは弱冠24歳にして、古代ローマの歴史家リウィウスの作品の写本群を比較校訂しました。
リウィウスの作品は、現代の古代ローマ研究でも、超重要な資料です。
(塩野七生さんも『ローマ人の物語』でリウィウスを高く評価し、大いに参考にしています。)
そのリウィウスの作品が読めるのは、ペトラルカのおかげです。
ペトラルカがリウィウスを読めるようにしてくれました。
それが、未だに読まれているのです(さらなる改良をはさみつつ。源流はペトラルカ版)
リウィウスに限らず、ペトラルカはギリシャ・ローマの古典の収集復元につとめました。
聖職者や、政治書記官の仕事柄を活かし、ヨーロッパ各地の教会や政治庁舎へ赴きました。
そこで倉庫に山積みになっている古い文献を、あさりまくったのです。
そうして発見したのが、古代ローマの政治家キケローの書簡!!
本当にペトラルカ様様です。
ペトラルカとラウラ「その報われぬ愛に」
ペトラルカは、22歳の時、南フランスの城塞都市アヴィニョンで恋に落ちます。
その相手は、ラウラ。
教会で祈りをささげる彼女の姿を見て、雷に打たれたのです。
しかし、ラウラはすでに約束の相手がいました。
そしてペトラルカ自身、ラウラへの愛を抱きつつ、経済的な理由でキリスト教の聖職者になります。
- この屈折した愛
- 果たされることのない愛
これらは、ペトラルカを苦しめます。
ところが、かれの関心はまず、ラウラという被造物に向けられている。
そしてラウラへの愛と讃美をつうじて、神を愛し讃美しようとする。これこそ「秩序」の転倒にほかならない。
だからこそラウラへの愛は、
- どれほど浄化され
- どれほど精神化されようとも、
やはり倒錯せる愛であり「魂の病気」なのである。
すなわち、禍いの根源であり、不幸の根源なのである。
近藤恒一(2002)『ペトラルカ――生涯と文学』より
しかし同時に、詩人ペトラルカの素晴らしいインスピレーションの源泉ともなったのです。
わたしが魅了された彼女の生きざまは人間のそれを超えていて、これを目のあたりにすれば、天に住むものたちもかくやと思われます。いまの私に少しでもとりえがあるとすれば、それは彼女のおかげです。
彼女はわたしの若い魂を、あらゆる汚濁から呼びもどし、いわば鉤でひきよせて、高きをめざすようにと駆りたててくれました。
ペトラルカ『わが秘密』より
ペトラルカを初めて読むなら『わが秘密』がおすすめの作品
「ペトラルカで何か1冊」
であれば、『わが秘密』をおすすめします。
私だけじゃありません。
百科事典の執筆者もおすすめしているのですよ!
これは出版を意図したものではなく、高潔な生活に対するペトラルカの渇望とそれを達成しえない挫折(ざせつ)感とが描かれている。
この作品は仮借ない真摯(しんし)な態度で自己分析を行い、彼の生涯の決定的要素の一つに明確な自伝の光を当てている(『ブリタニカ国際大百科事典 大項目事典』“ペトラルカ”より)
『わが秘密』に関しては、当ブログでも、いくつか紹介記事を書きましたので、よかったらご覧ください。
参考記事
『わが秘密』のあらすじ
ペトラルカ『わが秘密』序文の精読と解説
ペトラルカは自分に正直すぎて後世の学者に全く信用されない可哀想な詩人
ペトラルカ年表
ここからは年表です。
じっくり読むのは大変だと思います(すみません)。
適当に読み飛ばしていただいて、時折、辞書がわりに使ってくださればと思います。
1302
父ペトラッコ、財産没収の上フィレンツェ追放
1304
7月20日、ペトラルカ、アレッツォにて生まれる
1305
父の郷里インチーザにて過ごす
1309
教皇庁遷移。いわゆる「アヴィニョン捕囚」(-77)
1311(12?)
ピサへ移る、ダンテを市中で見かける
1312(13?)
アヴィニョンへ旅立つ。住宅不足で近郊カルパントラに居住。コンヴェネーヴォレ・ダ・プラートのもとでラテン文法や修辞学などの初等教育を受けながらの少年時代
1316
父の命により南仏モンペリエ大学に法学留学、こっそりローマ文学を勉強。この時期、父の焚書事件。キケロの修辞学とウェルギリウス一冊を残す。
1318
母死去、死を悼み詩作を残す。
1318or19
『韻文書簡集』66篇を編纂
1320
法学研究最高峰のボローニャ大学へ弟と留学、やはりローマ古典の勉強に熱を入れる。学生たちの騒動で勉学は2度ほど中断される。詩文化の中心であったことで影響されて、自らもイタリア語による詩作を試みる。ジアコモ・コロンナと親交。
1326
父死去。法学を放棄し、アヴィニョン帰郷、上流社会に出入り。
1327
4月6日キリスト受難を記念する聖金曜日、聖クララ教会にてラウラを見る。
ペトラルカとラウラとの運命的な出会いについて、こちらの記事で紹介しました。
1330
父の財産が底を尽き、生活の経済的基盤を固めるため下級聖品を受け聖職者となる。ジアコモ・コロンナ司教の任務に随行してピレネー山麓ロンベスでひと夏を過ごし、帰還後の秋に兄ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿の庇護を受け仕える(-47)
1333
北仏、フランドルおよびライン地方をめぐる長期旅行に出かけ、ベルギーのリエージュで、キケロの演説文2編(アルキアース弁護)発見。人文主義の先導者として名が広まりはじめる。帰国後(パリにて?)ディオニジ・ダ・ボルゴ・サン・セポルクロからアウグスティヌス『告白』を入手
1335
教皇宛に書簡を送り、教皇庁をローマ戻すよう訴える
1336
ヴァントゥー山登攀
1336-37(37年説が多い)
ローマ訪問、偉大さに驚嘆
1337
夏にアヴィニョンに戻ると息子ジョヴァンニが生まれていた。まもなくヴォークリューズに移住。ソネットとカンツォーネの改訂と制作
1338
『名士列伝』(De viris illustribus、未完)と『アフリカ』(未完)に着手。桂冠詩人の称号を得ようと運動
1339
『アフリカ』の第一稿が回覧される。
1340
9月、ローマ元老院とパリ大学から戴冠の招請。ナポリ王ロベルトに推薦を依頼
1341
ナポリに赴き審査を終えたのち、4月8日ローマのカンピドリオの丘の元老院で戴冠。以降、諸君主の招きを受け、客人としてイタリア北部の諸都市での滞在が多くなる。パルマの君主アッツォ・ダ・コッレッジョの客となり、パルマおよび郊外のセルヴァピアナに1年ほど逗留、『アフリカ』に専念。
1342
ヴォークリューズに帰る
1342-43
セポルクロ、ロベルト王死去。『カンツォニエーレ』詩集としてまとめられる。『秘密』初稿。『悔悛詩篇』(Psalmi poenitentiales)7編執筆、『記憶されるべき事柄の書』(Rerum memorandarum libri、未完)着手、『名士列伝』23人の伝記が書きあがる。「道徳主義」(?)着手。
『わが秘密』の対話の設定年代1342-43年は、ペトラルカの二人目の私生児が生まれた年(かれは聖職者として生計を立てていた)。
そのほかパトロンや友人の死、弟の修道院入りなど、ペトラルカにとって衝撃的な出来事が度重なった年。
1343
4月、弟ゲラルドがカルトゥジオ会の修道院に入る。娘フランチェスカ誕生。秋、コロンナ枢機卿の使節としてナポリへ派遣。
1344
ナポリの帰路にてパルマに滞在。権力争いでミラノとマントヴァの軍隊がパルマ包囲。このときカンツォーネ「わがイタリアよ」Italia mia執筆。
1345
2月、ヴェローナに避難、そこの司教座聖の書庫(教会の図書館)でキケロのアッティクス宛書簡16巻(通)(クィントゥス宛書簡、ブルートゥス宛書簡も?)を発見、これに示唆を受け自らの書簡集の制作を思い立つ
1346
ヴォークリューズに滞在(45-47?)。『孤独生活論』De vita solitaria初稿。『牧歌』(46-48)Bucolicum carmen構想、大半を作る。
1347
弟を訪問、『宗教的無為について』De otio religioso初稿。バビロン・ソネット3篇。5月、コーラ・ディ・リエンツォが貴族政治を倒し共和政復活を図った革命に成功、これを熱烈に支持。コロンナ家と断絶。11月、ローマへ旅立ったが革命失敗のため、進路を北イタリアへ転じ、パルマに滞在後、諸都市を巡る(-51)。(ペストのためローマを離れた???)
1348
黒死病大流行。パルマにてラウラの訃報に接する。作風が一変。『マドンナ・ラウラの死に』In Morte di Madonna Laura。コロンナ枢機卿死去。8月、パルマ大聖堂の助祭長に任命
1349
招かれてパドヴァ滞在。
1350
カトリック聖年にあたりローマ巡礼。途中(秋)フィレンツェとアレッツォに初帰国。フィレンツェでボッカッチョに迎えられる。『親近書簡集』の編集に着手
1351
1月、パルマに着く。4月ボッカッチョ、パドヴァに訪れ、フィレンツェ市から大学教授職と父の没収財産の返還の申し出を伝えるが、曖昧な返事のまま教皇クレメンス6世の呼び出しに応じて6月(5月?)、息子とヴォークリューズに戻る。秋、アヴィニョンでの教皇書記官の地位と司教の地位を断る。『無名書簡』1通執筆。
1351-53
『偉人伝』完成
1352
春、プロヴァンスを去ることを決め、ヴォークリューズに戻る。『凱旋』(未完)着手「愛の勝利」と「純潔の勝利」
1353
春(新春?)、弟を訪ねた後、反感を抱く人物が新教皇になったのを機にイタリア定住を決意。専制君主と知られるヴィスコンティ家の招きを受けミラノ移住(-61)。外交使節等の大任をしばしば引き受ける。ボッカッチョをはじめ友人たちから批判を受ける。ジェノヴァとの和平交渉のためヴェネツィアへ。
1355-61
『わが秘密』と『宗教的無為』完成、『牧歌』ほぼ決定稿。
『カンツォニエーレ』と書簡集の編纂。
『親近書簡集』Familiarum rerum libri(未完)と『韻文書簡集』Epistolae metricaeの大半を作成。『順逆両境の対処法について』De remediis utriusque fortunae着手。
『凱旋』制作再開「死の勝利」を加える?
『わが秘密』に関しては、こちらの記事でご紹介しました。
1355
『医師論駁』(52-55)
1356
プラハで神聖ローマ皇帝カール4世に厚遇。
1358
修道士レオンツィオ・ピラートと知り合う。ホメロスのラテン語訳を彼とボッカッチョとともに企画推進
1360
『無名書簡』Sine nomine完成。アッツォ・ダ・コレッジョにカンツォニエーレを送る(?)(キジ家写本)
1361
パリにフランス国王ジャン2世を訪ね、イギリスでの幽囚が解けた祝辞を送る。
ペストにより息子ジョヴァンニ死去。ペストを逃れてパドヴァへ移る。(『親交書簡』完成?)。『老年書簡集』着手?。その後も毎年夏にはパヴィアに滞在
1362
秋、ヴェネツィアに避難。蔵書と引き換えに家を得る(-68)。娘夫婦と孫娘と落ち合う。
1364
『牧歌』完成
1366
ホメロスラテン語訳をボッカッチョが送ってくる。『禍福双方の救済について』、『親交書簡』完成
1367
『自己自身と多くの者の無知について』(67-71)De sui ipsius et multorum ignorantia執筆
1368
パドヴァに戻る。
1370
パドヴァ近郊アルクァへ移住。娘夫婦、孫娘と暮らす。ローマ旅行を企てるがフェララにて病で引き返す。『老年書簡集』Rerum senilium libri(未完)『凱旋』改訂「時の勝利」と「永遠の勝利」を加える。
1374
『カンツォニエーレ』決定稿とおぼしき形になる。7月18-19日の真夜中、自宅の机上で逝去したと言われる。
おわりに 日本のペトラルカ研究について
最後に、日本における「ペトラルカ研究」の話をします。
年表を見れば、ペトラルカが非常に多作な人物であったことがうかがえるかと思います。
また、重要なこととして、ペトラルカには一度書いた作品を、後から何度も何度も手直しする習性がありました。
だから現存している作品を見ても、
- これが執筆当初の作品なのか?
- それとも後年に自身による修正が入った作品なのか?
簡単に判別することができません。
そういう事情もあり、これまでのペトラルカ研究の大半は、その判別に労力を費やしてきています。
要するに文献学的作業です。
ちなみにペトラルカの校訂版作品集も、刊行開始以来、100年以上経ってなお完成していません。
日本のペトラルカ研究では、そういった文献学的作業に携わることは不可能に近いでしょう。
日本の研究者は、そうした本国での文献学的成果のおこぼれに与かるしかないという・・・。
(こうした問題は、ペトラルカ研究に限らず、外国文学研究者にとって共通のジレンマかもしれません。)
また、日本でのペトラルカ研究は、俗語詩『カンツォニエーレ』をのぞけばほとんど研究されていません。
哲学などのラテン語作品にいたっては、これまで日本で数人しか研究者がいなかったという状況です。
- 佐藤三夫
- 渡辺友市
- 近藤恒一
の3氏程度。ごく最近、若い人がようやく1人動き始めたかもしれません。
つまり、こういうことです。
イタリア文学研究者としてペトラルカの俗語詩を研究する日本人学者は比較的存在する。
しかし、ルネサンス期の哲学研究者としてペトラルカを研究する人間はほぼいない。
これがいかにもったいないことか?
詩の研究だけでは、年表にあるようなペトラルカの幅広い活動のうち、ごく一部しか拾っていないのです。
さらにいえば、ルネサンス期の哲学。
これ全体としてまだ全然手付かずの分野です。
今現役でやっている人は、
- 根占献一氏
- 伊藤博明氏
くらいでしょうか。当然ほかにも存在しますが、首都圏で主要な研究者はこのお二方かと思われます。
(ちなみに根占氏はよくツイッターを利用されています。)
日本の哲学界は明治以来、英独仏ばっかりやっていました。
イタリア語圏はみんな無視しているのです。
もし哲学研究を志す方がいらっしゃれば、ぜひイタリア哲学に挑戦してください。
誰も競争相手がいません。
有為な哲学研究志望者が、イタリア哲学の分野にたくさん挑戦してくださることを祈っています。
イタリア語とラテン語ができれば大体OKです!