哲学とは、古代ギリシアで始まりました。これは、もう断言していいのです。
エジプトにもメソポタミアにもペルシアにも、哲学はありませんでした。
そして最初の哲学者として、ミレトスのタレスという人物が知られています。
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タレスが最初の哲学者と言われるのはなぜ?
これにはあっさり答えてしまいましょう。アリストテレスがそう言ったからです。
本当に、ただそれだけの理由で、タレスが哲学の始祖ということになっています。
タレスの言葉は、実はひとつも残っていません。
世の解説書は、タレスの思想ということで「万物の根源を水と考えた」などと解説しています。
どんな本を読んでも、タレス=水と書いてあります。
しかし、タレス自身の言葉は、ひとつも一切残っていません。
じゃあ何で水なのか。少し考えてみてください。
ヒントは、「さっきと同じ」です。
答え:アリストテレスがそう言ったから、です!
冗談でもなんでもなく、そうなのです。ギリシア哲学の専門家が読んでも「うむ」と言います。たぶん。(間違っていたら是非教えてください。)
タレス哲学の功績は?「万物を水」と考えた
さて、最初の哲学者がタレスだとして、そのタレスが突然「じゃあ今から哲学始めるからよろしく」なんて言うはずはおそらくないでしょう。そもそも哲学(philosophia)という言葉をタレスが使ったのかも分かりません。
そもそもタレスはギリシャの「七賢人」と言われる人たちの一人です。そこにはソロンだの何だのとそうそうたる人々がいます。彼らは別に哲学者というくくりで七賢人と言われたわけではありません。(ちなみにソロンの血筋にプラトンやクリティアス(「三十人政権」で恐怖政治を行った人物)がいます。)
ギリシャ文明の起源は古代オリエントにまで遡るし、そこでは数学や天文学は高度に発展していたわけです。
では、ギリシャ、タレスで始まった哲学とは何か? 始まった、というからには既存のものとは異なる新しいことが起こったはずです。
それらを踏まえた上で、いったいギリシャの地、イオニア地方、ミレトスの街(タレス、アナクシメネス、アナクシマンドロスたちはミレトスに住んでたので、彼らを総称してミレトス学派といいます)で何が新しく始まったのか?
タレスに関するエピソードとともに、少し考えてみたいと思います。
タレスの名言:井戸に落ちて女性に笑われた(テアイテトスより)
「タレスが井戸に落ちた」というエピソードが、プラトン『テアイテトス』に出てきます。こんな話です。
ある時トラキアの女中が、タレスが井戸の中に落っこちてるのを見かけた。
そこで女中は「タレスさんは上ばかり見てるから、足下は疎かになってしまってますわねえ」などと笑ったという。
このエピソードはwikipediaでも出てきますし「タレス 井戸」などと検索すれば、たくさん出てきます。
まあどこのwebサイトを見ても、単なる笑い話・エピソード・話のタネとして紹介しているに過ぎないでしょう。
しかし、このエピソードには重大な意味を見いだすことができるのです。
「タレスは井戸に落ちたのではない。自ら井戸に入り込んだのだ」という解釈です。
この珍説は、おそらくどこのwebサイトを検索しても出てこない話です(見つけたら教えてください笑)
というのも、このトラキアの女中というのは「田舎者」の暗喩(メタファー)を見いだすことができます。
そして、「井戸」「上を見上げる」という言葉からは「天体観測」の暗喩を見いだすことができます。
さて、その根拠ですが。「井戸に落ちる」ということを想像してみてください。井戸ですよ。
井戸に落ちるって、なかなかないことだと思いませんか? マンホールなら地面と水平なのだから、上を見ていたら落ちる可能性はあります。
しかし、井戸は地面と水平ではなく、腰の高さくらいの囲いがあるのだから、なかなか落ちることはできないと思います。
したがって、タレスは自ら井戸に入ったのではないか、と解釈することも不可能ではない。
タレスのエピソード:なぜ井戸に入ったのか?
ではなぜ井戸に入ったのでしょうか。ここでまた珍解釈が出ますが、彼は天体観測のために、自ら井戸に入ったのではないでしょうか。
タレスは天文学に通じていました。なので天体観測を試みることはありえます。
そして天体観測には、外で突っ立って上を見ていても、広大な空には目印がないから、うまく観測ができませんよね。
ところが、井戸に入って井戸の中から見上げれば、常に同じところから観測ができる。定点観測です。
そして空の移り変わりも、視界が限定されているのでよく見える。
つまり、井戸の中から見上げるということが、今で言う天文台の役割を果たすことができるのです。
プラトン『国家』より哲学者は「星を見つめる男」
しかしあまりにも牽強付会な解釈でしょうか。
この珍説が正しいのだとしたら、なぜわざわざ「井戸に落ちる」などという必要がある?
と思われる方がいるのも最もです。
「井戸から天体観測をしていたのだ」といったほうが、哲学者タレスの面目躍如じゃないか。それをなぜ間抜けだと思わせる必要があるのだ?
ごもっともです。しかし、もう少し話をさせてください。
タレスを笑ったのは、トラキアの女中です。なぜわざわざ「トラキアの」と言っているのでしょうか。
トラキアは、田舎の山国です。他方タレスは港町ミレトス出身、横浜っ子みたいなものです。つまり、タレスを笑ったこの女中は田舎者であり、タレスは都会っ子であるという関係が存在します。
教養のない田舎の女中から見れば、落ちてるようにしか見えない笑い話だけれども、実はタレスは天体観測(テオリア)という営みを行う意志を持っていた。
そしてテオリア(観照・見る)こそ愛知の営みである・・・そう考えることもできるのではないでしょうか。
『テアイテトス』に出てくるこの井戸に落ちるタレスのエピソードは、プラトンの創作によるものなのか、プラトン以前から伝わる話なのかは、判然としません。
哲学者は昔も今も、役に立たないことを一生懸命やっているという、侮蔑的なイメージがあります。
そのプラトンは『国家』の中で、哲学者を船乗りに喩える話が出てきます。
船乗りの比喩 要約
一艘の船がある。乗組員の船乗りたちは「われこそは舵取りに相応しい」と互いに争っている。そのくせ舵取りの技術を学んだこともなく、それは学べるものではないとさえ言う。彼らは、船主の機嫌をとることによって船の支配権を奪おうとし、おべっかに関して腕の立つ者を賞賛する。
しかしほんとうの舵取りは海のこと、自然のこと、舵取りに関わるすべてのことを注意深く研究せねばならない。しかしこのような連中であふれた船の中では、ほんとうの舵取りがいたとしても、彼はまわりから「星を見つめる男」などと呼ばれ、役立たずとされるだろう。
同様に、哲学をしている最もすぐれた人々でさえ、一般大衆にとっては役に立たない人間である。ただしその責めは彼らを役に立てようとしない者たちに問うべきではないだろうか。
プラトン『国家』第6巻より
井戸での天体観測を笑われたタレスと、「星を見つめる男」と揶揄された真の船乗り。ここには奇妙な共通性があると思います。
どちらもプラトンが紹介したエピソードです。
テアイテトス (岩波文庫)
プラトン 岩波書店 2014-12-17
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