写生文とは、対象をあるがままに写した文章である。この説明は、正しくもあり、間違ってもいます。
目に見えるものを文章に変換する作業は、かなり難しいことです。
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「あるがまま」に写すとはどういうことか?
物体なら、目に見える通りに写すのか? 目に見えない心理や感情を写生するにはどうするか?
写生文を徹底的におちょくった斎藤緑雨という明治の作家は、二葉亭四迷を相手にこんな皮肉を書いています。(『小説八宗』明治23年)
(二葉宗の信者は)滅法緻密がるを好しとす「煙管を持った煙草を丸めた雁首へ入れた火をつけた吸った煙を吹いた」と斯く言ふべし
斎藤緑雨というパロディの天才は、写実主義によって近代日本文学の夜明けを切り拓いた二葉亭四迷の文体を、中身を空っぽにして、形式だけを異常に誇張して描いてみせました。
こうなると、写生文とは、決して「あるがまま」に物事や行為を描けばいいのではないことがわかります。
むしろ、坪内逍遥が『小説神髄』で主張したように、目に見えない内面の心理を描くために、目に見える外側の自然や事物を描くことが、写生文の目的です。
上記の斎藤緑雨『小説八宗』は明治23年でしたが、それから16年後、夏目漱石が「自然を写す文章」というテーマの短い談話を寄せています。
夏目漱石は近代日本文学史上、いわゆる「余裕派」に分類されます。
余裕派とは、反自然主義の一派とされ、多分に無理やり分類された感があるのですが(実際は漱石と鴎外はほぼ分類不能な2大巨頭)、「描写対象と一定の距離をおいて書かれる写生文」に特徴があるとされています。(写生文 – Wikipedia)
明治期の日本文学は、非常にざっくり言うと、「写実主義→自然主義→反自然主義」という流れで発展してきました。
写生文は今でも小中学校の作文書き方指導の中心です。(感じたこと考えたことを、あるがままに書きましょう)
漱石が写生文についてどう考えていたのかを知ることは、文章を書く機会がある方にとっては、少しは役に立つかもしれません。
幸い青空文庫に収録されています。旧字旧かなでルビなしなので、適宜ルビを振り、改行を増やし、見出しを挿入しました。
夏目漱石「自然を寫す文章」
自然を寫(うつ)すのに、どういふ文體(ぶんたい)が宜(よ)いかといふ事は私には何とも言へない。今日では一番言文一致が行はれて居るけれども、句の終りに「である」「のだ」とかいふ言葉があるので言文一致で通つて居るけれども、「である」「のだ」を引き拔(ぬ)いたら立派な雅文になるのが澤山(たくさん)ある。
だから言文一致は便利ではあらうが、何も別にこれでなければ自然は寫せぬといふ文體はあるまい。けれども漢文くづしの文體が可(よ)いか、言文一致の細かいところへ手の屆く文體が可いかといふ事は、韻致(いんち)とか、精細とかいふ點(てん)に於(おい)て一寸(ちょっと)考へものだらうとは思ふ。
精細に写したところで大した価値はない
韻致とか精細とか言ふ事は取りやうにもよるが、精細に描寫(びょうしゃ)が出來て居て、しかも餘韻(よいん)に富んで居るといふやうな文章はまだ私は見た事がない。或(ある)一つの風景について、テンからキリまで整然と寫せてあつて、それがいかにも目の前に浮動するやうな文章は恐らくあるまい。それは到底出來得べからざる事だらうとおもふ。
私の考では自然を寫す――即ち敍事(じょじ)といふものは、なにもそんなに精細に緻細(ちさい)に寫す必要はあるまいとおもふ。寫せたところでそれが必ずしも價値(かち)のあるものではあるまい。
例へばこの六疊(ろくじょう)の間でも、机があつて本があつて、何處(どこ)に主人が居つて、何處に煙草盆があつて、その煙草盆はどうして、煙草は何でといふやうな事をいくら寫しても、讀者が讀むのに讀み苦しいばかりで何の價値もあるまいとおもふ。その六疊の特色を現はしさへすれば足りるとおもふ。ランプが薄暗かつたとか、亂雜(らんざつ)になつて居つたとか言ふ事を、讀んでいかにも心に浮べ得られるやうに書けば足りる。
畫(が)でもさうだらう。西洋にもやはり畫家(がか)の方でさういふ議論も澤山あるし、日本の鳥羽僧正などの畫でも、別に些(さ)しも精細といふ點はないが、一寸點を打つても鴉(からす)に見え、一寸棒をくるくると引つ張つてもそれが袖のやうに見える。それが又見るものの眼には非常に面白い。
文章でもさうだ。鏡花などの作が人に印象を與(あた)へる事が深いといふのも矢張(やは)りかういふ點だらうとおもふ。一寸一刷毛(はけ)でよいからその風景の中心になる部分を、すツと巧みになすつたやうなものが非常に面白い、目に浮ぶやうに見える。五月雨の景にしろ、月夜の景にしろ、その中の主要なる部分――といふよりは中心點を讀者に示して、それで非常に面白味があるといふやうに書くのは、文學者の手際であらうとおもふ。
対象の中心点を描けばよい
だから長々しく敍景(じょけい)の筆を弄(ろう)したものよりも、漢語や俳句などで、一寸一句にその中心點をつまんで書いたものに、多大の聯想(れんそう)をふくんだ、韻致の多いものがあるといふのは、畢竟(ひっきょう)ここの消息だらうとおもふ。
要するに、一部一厘(いちりん)もちがはずに自然を寫すといふ事は不可能の事ではあるし、又なし得たところが、別に大した價値のある事でもあるまい。その證據(しょうこ)に、よく敍景などの文をよんで、精(くわ)しく檢(しら)べて見ると、隨分(ずいぶん)名文の中に、前に西向きになつて居るものが後に東向きになつて居つたり、方角の矛盾などが隨分あるけれども、誰もそんな事を捉(つら)まへて議論するものも無ければ、その攻撃をしたものも聞かない。
で、要するに自然にしろ、事物にしろ、之を描寫するに、その聯想にまかせ得るだけの中心點を捉へ得ればそれで足りるのであつて、細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ。
初出:明治39年「新聲」
細かすぎることへの異議
漱石の話の要点はおおむね次のとおりです。
- 言文一致は便利だが、漢文や俳句でも自然を写す文章は描ける
- 正確な描写で余韻も深いような文章なんか見たことない
- 自然や事物を細かく描いたところで大した価値はない
- 名文にも前後の矛盾はたくさんあるし、それの批判なんかない
- 描くものの中心点を捉えて描けばよい
現代の視点から見て、漱石の話で興味深いのは(4)であるかと思います。
まんがやアニメ全盛のこの時代、リアルで正確な描写が評価される傾向にあり、ちょっとした表現の不正確さが槍玉に挙げられることが非常に多いように思われます。
漱石の例でいえば、人物の影の方向がさっきと今とで違うとか、パースやプロポーションがおかしいとか、そういう批判です。
あとはいわゆる「文法ナチ」など。昔の学者の間では、シェイクスピアの文法間違いを指摘するという下らない研究が流行したという話もあります。
漱石は「正確でもつまらなければ何にもならない」と主張するので、ひっくり返すと「おもしろければ不正確でもいいだろ」という意見になります。
描き方に正解はありませんから、おもしろいかどうか、というのは重要な基準でしょう。物語を展開するうえで、大して価値のないものは書かなくてよい。
むしろ、自然や事物を描くことを通じて、何を伝えたいのかを明確にすることが重要になるかと思います。