アリストテレス『ニコマコス倫理学』をあっさり紹介します。
巻物で全10巻。分量は文庫本で2冊。
「ニコマコス」の由来や意味
ニコマコスという名前は、この作品の編者がニコマコスという名前だったから。
アリストテレスの息子です。
この本の最大の特徴はなんといっても、
結論がヒドい自慢話と言うことです。
もちろん、内容の解説も盛りだくさんです。
結論を知りたい方は、下の方までお楽しみに!
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『ニコマコス倫理学』の位置づけ
アリストテレスは一般に学問や技術を
- 「理論」
- 「実践」
- 「制作」
に大別しました。
『ニコマコス倫理学』は「実践」にあたります。
ここでいう「実践」の意味とは、人間がよく生きるための学問という意味です。
ちなみにアリストテレスに言わせれば人間とは
「理性的動物」「ポリス的な動物」
であると定義されます。
すなわち、ものを話し、ものを考え、ポリス社会の一員として生活する動物。
それを人間と定義しました。
したがって「実践」とは「よく生きるための学」である。
と同時に「ポリスに関する学」でもあると言えます。
この「ポリスに関する学」は広大な学問分野を含んでいます。
それらは「政治学」「経済学」「倫理学」などに類別されます。
『ニコマコス倫理学』もある意味では、「ポリスに関する学」のうちに含まれると言えます。
一言でまとめれば、「ポリスの中でよく生きるための学」が倫理学なのです。
『ニコマコス倫理学』の序論
第1巻。冒頭は次のように始まります。
「技術も学問も行為も意図も、すべてなんらかの善を志向している」
そしてこの講義が
「人間にとっての最高善の認識と獲得を目指す国家の学問」
であると述べます。
いきなり大きく出すぎなアリストテレス。
大丈夫かと、私は心配になります。
つまり倫理学とは、理論の学問ではなく、実践の学問だというのです。
- 「理論」の学問とは、単に善や徳といったものが何であるか知る。
- 「実践」の学問とは、実際に各人がよく行為し、よく生きる。
倫理学は実践の学問。
そのため理論の学問のような「厳密性」を求めることは不可能だ、と注意を促しています。
以上のように、『ニコマコス倫理学』の目的と方法について述べた上で、本論に入っていきます。
ちなみにアリストテレスはいつも序論・前書きのスタイルが同じ。
書物の目的や方法を述べてから本論に入っていきます。
だから冒頭に書いてあることは、書物全体の見通しをつけていく上で重要です。
アリストテレスを読むときは、最初が肝心。
あまり読み飛ばすべきではないかと思います。
本論 善と幸福の見解と定義
アリストテレスはまず、善についての一般的な見解を列挙します。
(これもアリストテレスの著作全体に共通する叙述の方法)
いろんな人が、いろんな善を語る。
そして「善とは幸福である」という点ではおおむね一致します。
では具体的に何をもって幸福な生活であるか?
この点については、一致しないと指摘します。
どう一致しないかといいますと、
幸福な生の獲得のために、何を求めるかという点です。
- 快楽を求める
- 名誉を求める
- 富を求める
- テオリア(観照・理論)を求める
という4つの生活に区別されると述べます。
これらはいずれも幸福な生活という概念をとらえています。
そしてアリストテレスによれば、最後の「テオリアを求める生」
いわゆる「観照的生活」が最も幸福な生活であると思われる
と、本論の最初にあたる部分で仮説を述べています。
なぜ観照的生活なるものが最も幸福な生活なのか?
これはアリストテレスが善や幸福の条件として、
自己目的性と自己充足性
を挙げるからです。
たとえば快楽や名誉には他者が必要です。
富は本来手段であって目的ではありません。
その点、観照とは、自己目的性と自己充足性が備わっているように思われる、
とアリストテレスは論じます。
※ちなみに富の増殖が近代に至って手段から目的に取って代わっていった、
という説のもとに歴史を語っている。
それがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 』(岩波文庫)です。
関連記事:マックス・ウェーバーの『プロ倫』は難しい? いや楽しい本だ!
「快楽にも自己充足性が、含まれるのでは?」
ほら、あれだよ、あれ。
アリストテレスも気が付いています。こいつめ。
どうしようと困ったアリストテレス。
さらに「人間の幸福」というテーマにしぼってみることにしました。
というのも快楽は奴隷や野獣も追求するもの。
「理性的人間」「ポリス的人間」に固有の幸福は何か?
これをアリストテレスは追究することにしました。
これなら、快楽の問題は、スルーできる!
とでも思ったのでしょうか。
「ポリス的人間は、徳を有していなければならない、」
などと適当に規定しはじめます。
- ポリスでの人間の活動
- 優れた人間に備わる卓越性(=徳)
これらを検討したうえで、暫定の結論を出します。
その暫定定義によれば、幸福とは
「人間の機能に関わり、人間としての徳に即しての、現実活動」
であるとされます。
もちろん全く意味が分かりません。
なので、それを全10巻で順次検討していくことになります。
以降も、ざっくりご紹介しますね。
第1巻から第5巻まで
徳について、アリストテレスは第1巻の最後で言います。
人間の機能には、「理性的な部分」と「非理性的な部分」とが存在する。
その区別に応じて「知性的な徳」と「性格的な(倫理的な)徳」との2つがある。
そして第2巻から第5巻までは、
「性格的な徳」についての概論が展開されます。
この性格的な徳の概論とはおよそ次の通りです。
- 自然によってではなく習慣(エートス)によって性格(エートス)となること。
- 過度と不足とを避け中間(中庸)を選んで行為すること。
- 行為と選択との関係
- 徳は快苦の感情と深い関係をもっているが徳そのものは感情でも能力でもなく心の状態の一種であること。
- 徳の心の状態とは、中間(中庸)を選択する状態であること。
概論が述べられたあと、性格的な徳が列挙されます。
それぞれ詳細に検討されます。
列挙された徳とはおよそ以下のものです。
- 勇気
- 節制
- お金に関する徳
- 名誉に関する徳
- 交際に関する徳
- 徳に似た羞恥
- 正義
第5巻までの議論はおよそ以上の通りです。
第6巻から第9巻まで
第6巻では知性的な徳の概論と解説が述べられます。
- 推理
- 技術
- 実践
- 直観
- 哲学
第7巻では、ついに快楽に手を出します。
「抑制と無抑制」「徳と悪徳」との関係における快楽が検討されます。
ちなみに抑制と無抑制の議論は、「アクラシア問題」とも言われます。
要するに「わかっちゃいるけどやめられない状態」のことです。
何気に現代でも哲学の研究テーマの一つとして生き残っています。
関連記事:「アクラシア問題」について(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
第8巻から第9巻。
「他者に対する愛」について議論されます。
ここでいう他者とは
- 親類
- 配偶者
- 友人
- ご近所(同僚含む)
それぞれに対する愛の違い、感情や働きかけの違いが論じられています。
結論 幸福な生活とは、学問研究の生活
第10巻は結論部分にあたります。
まず快楽を、善とする説と悪とする説とが比較検討されます。
人間的な幸福には快楽が伴うもの。
でも真に人間的な快楽が知りたい。
それを突き止めるには「何が真に人間的な活動であるか?」を知る必要がある。
そして
快楽そのものは幸福ではない。
幸福に必然的に伴う感情に過ぎない。
このように述べます。
いっぽう幸福とは、徳に即しての活動。
そして究極的な幸福とは、「自己目的性と自己充足性を満たした活動である」
この活動は何らの観念や可能性を伴わない、現実的な活動である、とされます。
意味わかんないですね。
簡単にいうと、
活動による期待や希望を見込んでの幸福感は真の幸福ではない。
たとえば、働けば金が儲かる。
これは働くことが目的じゃなくて、お金が目的ですよね。
それだと、労働は真の幸福じゃないと。
それじゃダメだと、アリストテレスは生意気にも言います。
活動そのもの(働くことそれ自体等)が幸福でなければならないと述べます。
本当に、お坊ちゃん育ちはこれだから困る
といやみの1つでも言いたくなります。
アリストテレスは、生まれが良いです。
マケドニア王国の王室に勤めるお医者さん。
この息子が、アリストテレスです。
16歳から海外留学(アテナイ)して、何十年も遊び(学び)放題な生活でした。
庶民の感覚などまるで知らないのです。
(関連記事)やりがい搾取を知れば、就活は金に汚くていいことがわかる
そういえば、夏目漱石『それから』の主人公、長井代助も、
まるでおんなじこと言っています。
さて、では活動そのものが幸福であるとは、どのような活動なのか?
いってみろ、アリストテレス。
それは人間には不可能である。完全に幸福なのは、神だけだ。
「は??」(マジで不可能だって言ってるんですよ。)
でも、最もそれに近い活動はある。
それは、理論の研究に専念する「学者の生活」である
と言います。
皆さん、聞きましたか?
こいつ、こういうこと言うんですよ。
アリストテレスさんなんか、もろ学者さんですからね。
「要するにオレみたいな生活が1番幸せなんだ」
自慢してるだけなんです。
完全にその活動を実践できるのは神のみ。
その働きとは「不動の動者」であると述べます。
不動の動者。聞いたことありますか?
というのは、神の生活とは永遠にただ神自らを直観し思考する。
純粋な自己観照の生活である、と述べています。
したがって、人間的に追求されうる最大限の幸福な生活とは、
学問研究の生活であると、アリストテレスは結論付けます。
そしてこの生活のモデルより導き出されるのは何か?
真の人間的な活動とは学問研究。
だから、それは現実のポリスを超越した活動と言えます。
そこでは政治学は倫理学に従属するものとなります。
この後のギリシャの歴史は、ポリスが崩壊します。
そこから訪れるのはヘレニズムの時代といわれます。
ヘレニズム世界では、人間はポリスに所属しません。
いわゆる、コスモポリタニズムの世界です。
これが後の世紀で展開されることになりました。