ニコマコス倫理学要約と解説|アリストテレスの自慢話が結論!?




アリストテレス『ニコマコス倫理学』をあっさり紹介します。

巻物で全10巻。分量は文庫本で2冊。

 

 

「ニコマコス」の由来や意味

ニコマコスという名前は、この作品の編者がニコマコスという名前だったから。

アリストテレスの息子です。

 

この本の最大の特徴はなんといっても、

結論がヒドい自慢話と言うことです。

 

もちろん、内容の解説も盛りだくさんです。

結論を知りたい方は、下の方までお楽しみに!

 

『ニコマコス倫理学』の位置づけ

アリストテレスは一般に学問や技術を

  1. 「理論」
  2. 「実践」
  3. 「制作」

に大別しました。

 

『ニコマコス倫理学』は「実践」にあたります。

 

ここでいう「実践」の意味とは、人間がよく生きるための学問という意味です。

 

ちなみにアリストテレスに言わせれば人間とは

「理性的動物」「ポリス的な動物」

であると定義されます。

 

すなわち、ものを話し、ものを考え、ポリス社会の一員として生活する動物。

それを人間と定義しました。

 

したがって「実践」とは「よく生きるための学」である。

と同時に「ポリスに関する学」でもあると言えます。

 

この「ポリスに関する学」は広大な学問分野を含んでいます。

 

それらは「政治学」「経済学」「倫理学」などに類別されます。

『ニコマコス倫理学』もある意味では、「ポリスに関する学」のうちに含まれると言えます。

 

一言でまとめれば、「ポリスの中でよく生きるための学」が倫理学なのです。

 

『ニコマコス倫理学』の序論

第1巻。冒頭は次のように始まります。

 

「技術も学問も行為も意図も、すべてなんらかの善を志向している」

 

そしてこの講義が

「人間にとっての最高善の認識と獲得を目指す国家の学問」

であると述べます。

 

いきなり大きく出すぎなアリストテレス。

大丈夫かと、私は心配になります。

 

つまり倫理学とは、理論の学問ではなく、実践の学問だというのです。

 

  • 「理論」の学問とは、単に善や徳といったものが何であるか知る。
  • 「実践」の学問とは、実際に各人がよく行為し、よく生きる。

 

倫理学は実践の学問。

そのため理論の学問のような「厳密性」を求めることは不可能だ、と注意を促しています。

 

以上のように、『ニコマコス倫理学』の目的と方法について述べた上で、本論に入っていきます。

 

ちなみにアリストテレスはいつも序論・前書きのスタイルが同じ。

書物の目的や方法を述べてから本論に入っていきます。

 

だから冒頭に書いてあることは、書物全体の見通しをつけていく上で重要です。

 

アリストテレスを読むときは、最初が肝心。

あまり読み飛ばすべきではないかと思います。

 

本論 善と幸福の見解と定義

アリストテレスはまず、善についての一般的な見解を列挙します。

(これもアリストテレスの著作全体に共通する叙述の方法)

 

いろんな人が、いろんな善を語る。

そして「善とは幸福である」という点ではおおむね一致します。

 

では具体的に何をもって幸福な生活であるか?

この点については、一致しないと指摘します。

どう一致しないかといいますと、

幸福な生の獲得のために、何を求めるかという点です。

 

  1. 快楽を求める
  2. 名誉を求める
  3. 富を求める
  4. テオリア(観照・理論)を求める

 

という4つの生活に区別されると述べます。

 

これらはいずれも幸福な生活という概念をとらえています。

そしてアリストテレスによれば、最後の「テオリアを求める生」

いわゆる「観照的生活」が最も幸福な生活であると思われる

と、本論の最初にあたる部分で仮説を述べています。

 

なぜ観照的生活なるものが最も幸福な生活なのか?

 

これはアリストテレスが善や幸福の条件として、

自己目的性と自己充足性

を挙げるからです。

 

たとえば快楽や名誉には他者が必要です。

富は本来手段であって目的ではありません。

その点、観照とは、自己目的性と自己充足性が備わっているように思われる、

とアリストテレスは論じます。

 

※ちなみに富の増殖が近代に至って手段から目的に取って代わっていった、

という説のもとに歴史を語っている。

それがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 』(岩波文庫)です。

 

関連記事:マックス・ウェーバーの『プロ倫』は難しい? いや楽しい本だ!

 

「快楽にも自己充足性が、含まれるのでは?」

 

ほら、あれだよ、あれ。

アリストテレスも気が付いています。こいつめ。

 

どうしようと困ったアリストテレス。

さらに「人間の幸福」というテーマにしぼってみることにしました。

 

というのも快楽は奴隷や野獣も追求するもの。

「理性的人間」「ポリス的人間」に固有の幸福は何か?

これをアリストテレスは追究することにしました。

 

これなら、快楽の問題は、スルーできる!

とでも思ったのでしょうか。

 

「ポリス的人間は、徳を有していなければならない、」

などと適当に規定しはじめます。

  • ポリスでの人間の活動
  • 優れた人間に備わる卓越性(=徳)

 

これらを検討したうえで、暫定の結論を出します。

 

その暫定定義によれば、幸福とは

「人間の機能に関わり、人間としての徳に即しての、現実活動

であるとされます。

 

もちろん全く意味が分かりません。

なので、それを全10巻で順次検討していくことになります。

以降も、ざっくりご紹介しますね。

 

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第1巻から第5巻まで

徳について、アリストテレスは第1巻の最後で言います。

 

人間の機能には、「理性的な部分」と「非理性的な部分」とが存在する。

その区別に応じて「知性的な徳」と「性格的な(倫理的な)徳」との2つがある。

 

そして第2巻から第5巻までは、

「性格的な徳」についての概論が展開されます。

 

この性格的な徳の概論とはおよそ次の通りです。

 

  • 自然によってではなく習慣(エートス)によって性格(エートス)となること。
  • 過度と不足とを避け中間(中庸)を選んで行為すること。
  • 行為と選択との関係
  • 徳は快苦の感情と深い関係をもっているが徳そのものは感情でも能力でもなく心の状態の一種であること。
  • 徳の心の状態とは、中間(中庸)を選択する状態であること。

 

概論が述べられたあと、性格的な徳が列挙されます。

それぞれ詳細に検討されます。

 

列挙された徳とはおよそ以下のものです。

  • 勇気
  • 節制
  • お金に関する徳
  • 名誉に関する徳
  • 交際に関する徳
  • 徳に似た羞恥
  • 正義

 

第5巻までの議論はおよそ以上の通りです。

 

第6巻から第9巻まで

第6巻では知性的な徳の概論と解説が述べられます。

  • 推理
  • 技術
  • 実践
  • 直観
  • 哲学

 

第7巻では、ついに快楽に手を出します。

「抑制と無抑制」「徳と悪徳」との関係における快楽が検討されます。

 

ちなみに抑制と無抑制の議論は、「アクラシア問題」とも言われます。

要するに「わかっちゃいるけどやめられない状態」のことです。

 

何気に現代でも哲学の研究テーマの一つとして生き残っています。

 

関連記事:「アクラシア問題」について(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

 

第8巻から第9巻。

「他者に対する愛」について議論されます。

ここでいう他者とは

  • 親類
  • 配偶者
  • 友人
  • ご近所(同僚含む)

 

それぞれに対する愛の違い、感情や働きかけの違いが論じられています。

 

結論 幸福な生活とは、学問研究の生活

第10巻は結論部分にあたります。

まず快楽を、善とする説と悪とする説とが比較検討されます。

 

人間的な幸福には快楽が伴うもの。

でも真に人間的な快楽が知りたい。

それを突き止めるには「何が真に人間的な活動であるか?」を知る必要がある。

 

そして

快楽そのものは幸福ではない。

幸福に必然的に伴う感情に過ぎない。

このように述べます。

 

いっぽう幸福とは、徳に即しての活動。

そして究極的な幸福とは、「自己目的性と自己充足性を満たした活動である」

 

この活動は何らの観念や可能性を伴わない、現実的な活動である、とされます。

 

意味わかんないですね。

簡単にいうと、

 

活動による期待や希望を見込んでの幸福感は真の幸福ではない。

たとえば、働けば金が儲かる。

これは働くことが目的じゃなくて、お金が目的ですよね。

それだと、労働は真の幸福じゃないと。

 

それじゃダメだと、アリストテレスは生意気にも言います。

活動そのもの(働くことそれ自体等)が幸福でなければならないと述べます。

 

本当に、お坊ちゃん育ちはこれだから困る

といやみの1つでも言いたくなります。

 

アリストテレスは、生まれが良いです。

マケドニア王国の王室に勤めるお医者さん。

この息子が、アリストテレスです。

16歳から海外留学(アテナイ)して、何十年も遊び(学び)放題な生活でした。

庶民の感覚などまるで知らないのです。

 

 

(関連記事)やりがい搾取を知れば、就活は金に汚くていいことがわかる

 

そういえば、夏目漱石『それから』の主人公、長井代助も、

まるでおんなじこと言っています。

 

 

さて、では活動そのものが幸福であるとは、どのような活動なのか?

いってみろ、アリストテレス。

 

それは人間には不可能である。完全に幸福なのは、神だけだ。

 

「は??」(マジで不可能だって言ってるんですよ。)

 

でも、最もそれに近い活動はある。

それは、理論の研究に専念する「学者の生活」である

 

と言います。

 

皆さん、聞きましたか?

 

こいつ、こういうこと言うんですよ。

 

アリストテレスさんなんか、もろ学者さんですからね。

 

「要するにオレみたいな生活が1番幸せなんだ」

 

自慢してるだけなんです。

 

 

完全にその活動を実践できるのは神のみ。

その働きとは「不動の動者」であると述べます。

 

不動の動者。聞いたことありますか?

 

というのは、神の生活とは永遠にただ神自らを直観し思考する。

純粋な自己観照の生活である、と述べています。

 

したがって、人間的に追求されうる最大限の幸福な生活とは、

学問研究の生活であると、アリストテレスは結論付けます。

 

そしてこの生活のモデルより導き出されるのは何か?

真の人間的な活動とは学問研究。

だから、それは現実のポリスを超越した活動と言えます。

 

そこでは政治学は倫理学に従属するものとなります。

 

この後のギリシャの歴史は、ポリスが崩壊します。

そこから訪れるのはヘレニズムの時代といわれます。

ヘレニズム世界では、人間はポリスに所属しません。

いわゆる、コスモポリタニズムの世界です。

 

これが後の世紀で展開されることになりました。




6 件のコメント

  • こんにちは まずは https://kotoyumin.com/aristotle-prorepsis-34 でのご返信ありがとうございます
    関心が湧いたのでこのページも読ませてもらいました
    ちょっと長くなるで申し訳ありませんが 事は哲学というジャンルの話しなのでご理解ください
    このページで高等遊民さんがあげている「活動そのもの(働くことそれ自体等)が幸福でなければならない」この部分の解釈は、「言葉」=左脳の産物の限界がありますね 
    (※左脳右脳理論が間違っていることは知っていますがここはあえてイメージとして使います)
    この場合の 活動=働くこと は厳密にはまず 「労働」と「仕事」に分けて熟考する必要があります

    またニコマコス倫理学は、アリストテレスの息子が書いたものですよね?
    おそらくアリストテレス本人は ニコマコス倫理学でいわれているような文体系は間違ってもしなかったとおもいますよ(^^)
    ニコマコスはアリストテレスから哲学全般を習ってはいても1割ものにできたかできないか? あるいは政治家から尻を叩かれていたか?・・・そんなところだとおもいます
    元へ 活動そのもの(働くことそれ自体等)が幸福 というのは 単純にいって労働の観点ではなく仕事(天職)という観点でしょうね
    つまり自分が生まれたときからもつ趣向性に基づく 「子供の時から野球選手」になるのが夢だった といった まさに誰もがもつ本来希望する「職制」ではなく「職生」を意味しているといえるでしょう
    そしてその現実ではなかなか難しい その天性の職に誰もがありつける社会こそ 理想であるといっているわけですね
    当然どんな理想社会でも 社会全体としては「仕事」ではなく「労働」にあたる部分はでてきます
    そんなことは アリストテレスも充分わかっていたでしょうね ただこの当時 また今もそうですが この「労働」にあたる部分を社会全体としてどう片付けるか? これに対する具体策は 発案できたとしても当時の社会では到底許されるものではなかったといえるでしょうね

    なぜにこのような解釈がいえるか? というと アリストテレスの発言には 魂というものがたくさんでてきます
    その他のアリストテレスの発言からは インド哲学や仏教的悟りの深まりではじめてでてくる智慧が見え隠れしています
    しかし 哲学の世界は 左脳=言葉の産物であり その範囲で「言葉」を使い 表現できるものは限られます アリストテレスが真にいいたかったこと
    それを無理やり言葉を使いど根性で解決しているのは ルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」といえるでしょう

    例をあげると テオリア(観照・理論)という概念は そんな簡単に説明できるものではないでしょう
    ① これは 明らかに歴史上の全ての形而上学が目指すところの 人間としてこの世に生まれでる根源的な意味を含んでいます
    ② またアリストテレスは「徳」という概念を いとも簡単にやむおえず使っています
    この②の事例が意味するとこは大きく そもそも「徳」という概念はそれだけで 哲学の1ジャンルができてしまいます それでもおそらく「徳」というものは定義できないでしょう 「徳」というのも方便にすぎずその実態は 霊的なものも含めた意識空間=情報場全てのメカニズムがからんでいるといえるでしょう
    学者肌のアリストテレスがそんなことがわからない人だっとは到底思えません
    こういった点からいえることは アリストテレスはきっと哲学の表現限界に疲れていたとおもいます

    また「観照的生活なるもの」 この部分の解釈も 哲学の厳格なるイメージが 単純明快な答えを邪魔しているといえます
    この場合の観照的生活とは 誰もが夜 一人になり 今日あった出来事や自分が思ったこと感じたことを自然に自己対話しますよね
    そして 『自分とは何なのか?』という具合に反省や新たな発想や計画を練っていく これはおそらく人である以上誰も行なっているといえるでしょう
    そのように自己実現を最大限にやりやすい生活を意味すると思われます
    (※さらには この『自分とは何か?』 この問いへの追及に古代インドのヨーガ哲学がある)

    つまりは 究極的には『4テオリア(観照・理論)を求める』というのは ただ単なる生活観照とか 実験を繰り返す科学者や学者のような体系を示唆したかったのではなく
    最大限厳密にいうならば それは 現代でいうところの「自己実現」であり
    ④テオリア(観照・理論)を求める  ⇒  ④自己実現を求める   という解釈を内包して認識すべきでしょう

    当然の結果として 快楽を求める行為や快楽事態もそのステップに入ります そこから得られる実感、認識などなど 直覚的な知識や認識といえるでしょう
    なぜかといえば 男性女性の厳密な違いは何か? そもそも快楽とは 体の快楽なのか? 心の快楽なのか? などなど・・・
    このようなものは 自己実現のステップにおいて非常に重要な人生勉強といえるでしょう だからといって快楽それ自体を祭りあげるは それこそ社会哲学者失格でしょう そのあたりはもう言葉を超えた それこそ「徳」の問題だといえるでしょう
     よってそんなことまでいいだしたら 到底 哲学などという左脳言語産物は 順序的プロセスがめちゃくちゃになり成り立たなくなるでしょう
    おそらくアリストテレスは 同じ瞑想家として そのあたりのことは 重々よくわかっていたと自分は推察しています
    このようなことを考えると 新たに「今」感じたことは この哲学というジャンルを学問の1ジャンルとして定義付け それをまるで数理的解釈をするがごとくのものに編成していったような影が浮かびますね
    大方 哲学史上で 人から善や美徳また真の平等を奪っていった 悪の権化は ヘーゲル弁証法哲学からといえるでしょう
    ヘーゲル弁証法哲学には どうみても勝手な決めつけを先行させる癖が見え隠れしています おそらく相当な政治的圧が加わっていたことは簡単にみてとれるといえるでしょう 当然その結果勢いを増してくる 資本主義 共産主義という人工的に作られた「対立する政治流通体系」をみるとその意図が簡単にみてとれるといえるでしょう
    https://ameblo.jp/jcurrent/entry-12055456961.html

    • jcurrentさま

      こちらの記事もご覧くださって誠にありがとうございます。
      そしてご感想も頂きまして、たいへんうれしく存じます。

      あ、ニコマコス倫理学はアリストテレスが書いた講義録であるとされています。
      ごめんなさい。編者ニコマコスという、書き方が悪かったです。

      活動そのものは、労働と仕事の2つとは限りません。
      アリストテレスはボンボンです。
      人間の活動の中で労働と仕事なんか「低俗なもの」と見下しているのです。(たぶん)
      労働と仕事に限らず、「人間の営みの総体」
      全てが活動という風に考えるのが良いです。

      で、徳というのは「すぐれていること」を意味します。
      徳という言葉は、別に専門用語でもなんでもなく、わりと一般的に浸透している言葉です。
      「馬の徳」=よく走ること
      「ナイフの徳」=よく切れること

      みたいなノリで、ばんばん使われます。(このへんのギリシャ人の感覚、いいですよね。)

      テオリア(観照・理論)を求める  ⇒  自己実現を求める 
      これはおっしゃる通りですね。とても勉強になります。
      わたしの書き方では、学者的な生活に限定してしまっているような印象です。
      でもアリストテレスというか、ギリシャ哲学は全体として「神に似た生き方」みたいなイメージを目指していました。
      なので、「神のごとく生きる」というスローガン・心のあり方には「自己実現」という概念は確かに含まれていると感じました。

      アリストテレスは本当に学者肌というか、きっちり土台を固めるのが好きな人でした。
      ・何かを語る際は、かならず先行研究についてコメントする
      ・複数の対象を比較し、共通点と相違点を分析することで研究課題を浮かび上がらせる

      人間独自の徳というのは、「知識や理性」に関係があるとアリストテレスは考えたはずです。
      そこで、観照的生活という人間と神にだけ可能な活動を、人間の究極目的に設定したのでしょうね。
      単なる自己実現なら、植物や動物でも可能です。
      「観照的生活における自己実現とは何か?」というと、これは人間独自の自己実現になりそうです。

      • そうでしたか 「>人間の活動の中で労働と仕事なんか「低俗なもの」と見下しているのです」
        これは意外ですね 自分はおそら高等遊民さんほどアリストテレスを熟読していないので これがほんとなら残念と言わざるおえませんね
        高等遊民さんは 上で『人間の活動の中で労働と仕事なんか「低俗なもの」と見下しているのです。(たぶん)』といわれていますよね
        それは ありえないでしょう なぜかといえば 労働は別にしても仕事事態をそうみなすということは アリストテレスの哲学者としての「仕事」も含まれるわけだから それはありえない話しですよね

        高等遊民さんがいわれる 「人間の営みの総体」 これはいい言葉ですね 現代人に最も欠けている考察ですね
        ただ 「徳」というものは おそらく西洋人のそれと 東洋人のそれは大きく違うでしょう 上で高等遊民さんがいわれている使い方は とくに西洋のそれを示しているでしょう 中国人や日本人の徳という概念は もっと儒教の影響が多い「徳」という概念といえるとおもいます
        そういうところからして徳とはそんな簡単に哲学的に定義づけできるものではないでしょう また自分は 以前大学の哲学の講義でこの『徳』というものの認識は難しいと哲学の教授から習いました よって高等遊民さんがいわれる徳とは 当時のギリシャ世界での徳の概念だとおもいます

        もちろん 「あの人は徳のある人だ」といった使い方の場合 それは高等遊民さんがいわれるように解釈すれば「人としてすぐれている」ということになりますよね そうなると 結局のところ哲学視点では原点に戻ってしまいますよね
        つまり 何をもって人として優れているのか? という次の問がでてきますからね

        そこでそれに関しての考察で高等遊民さんがあげている 『観照的生活という人間と神にだけ可能な活動を、人間の究極目的に設定した』
        というのは確かに アリストテレスの持ち運びは、そのとおりだとおもいます

        ただ アリストテレスがギリシャ貴族のボンボンだったかどうかは別にして この時点に至り 神という概念がでてきてしまうため哲学をするものにしてみれば全く困り果てるポイントでしょうね なぜかといえば宗教ではないですからね

         ただ自分がアリストテレスを高くかうポイントは 当時ギリシャの常識のベースにあった 自然界も目的論的秩序をもっていて 目的論的統一体と認識されていた部分に端を発しています それの意味するところは大きいのですが この部分を拡大していくと どうしてもどうしても瞑想世界の話しを持ち出さざるおえなくなります そうなると 現代人は決まって オカルトというレッテルを貼ることはみてとれます しかしほんとはこここそが最重要な基幹部です
         つまり この部分こそがアリストテレスの偉大なところで 基本的にはですよ 可能な限り 知識や理性を超える 智慧 というものをベースに展開しようとしていたという予感があるんですね 結論をいえばこれを言葉で表現することは不可能ですね しかしアリストテレスはそのような試みにチャレンジしようとしていたと自分はおもいますよ
         そのような人が 金持ちボンボンの貴族的差別意識で 社会を構成する自分以外の職業や身分の低いものを 低俗なもの と本心からみなすとはこのページに書かれていることだけでは ちょっと判定できません

        例えば 自分の事で恐縮ですが 自分は、知人友人、社会のインテリ相でも親族でも 智への飽くなき追及を辞めたものには断固とした批判をするときがあります 智への飽くなき追及において人は「動」であるべきとおもっています それはそのままこの現象世界への興味関心が「動=アクテイブ」だということです
        その点においては場合により社会的に名誉ある人より浮浪者がいったことを高く評価することさえあります
         何がいいたいかといえば 智への飽くなき追及をするタイプは 絶えずいついかなるときも哲学しています おそらくそのようなタイプは誰しも 智への飽くなき追及を馬鹿にするタイプへ激しい苛立ちと憎悪をもっている場合が多いとおもいます そのような哲学者としての強い思いが 思考することを辞めているような当時のギリシャ市民への皮肉として 書いているような場面もあるのではないですか? 

        ほんとに 『・・・それは、理論の研究に専念する「学者の生活」である・・・』 などといっている部分があるのですか?
        もしアリストテレスがもっと明瞭に そのような「自分の研究者としての仕事こそが誰もが目指すべき仕事だ」という非合理なことを発言している箇所があるなら是非そのリソースを教えてください 
        自分はものを判断する際 表面の言葉という飾りは気にしません 肝心なのは本音で何を思っているかです
        会話というものには 大方最初からその人がもっている政治思想がどこかしこかに現れざるおえないとおもいます もしマルクス主義者であるならハッキリいってください
        高等遊民さんは、マルクス主義に完全に染まりきった「赤い人」や商業第一主義(新自由主義)に陥った人でないとみて会話しています
        こういった高等遊民さんとの会話は 高等遊民さんのhttps://kotoyumin.com/kotoyuminneetdifference-948 に示される 高等遊民さんだから話していますし 自分も高等遊民さんみたいな見聞をお持ちなら 可能な限り真実を学びたいという思いで書いています
        長くなり申し訳ありませんm(_ _)m もしWeb上問題なら メールでもして頂けたら幸いです

        • jcurrentさま
          たびたびのご意見ご感想ありがとうございます。『それから』についての記事もご覧くださってありがとうございます。
          >低俗なものとみなしている
          >理論の研究に専念する「学者の生活」である
          このような文言は、キャッチ―な理解を狙ったわたしの解釈です。
          (哲学をおもしろおかしく紹介したいという思いがあるため)

          もちろん、アリストテレス本人が本当に見下してたかどうかは本当のところは分かりません。
          ただ、まあ一応ニコマコス倫理学の最終巻。
          第10巻の最後ですけど、「観想的な生活」が最も幸福であるという記述はあるんですね。
          で、観想的生活っていうものの具体例として、哲学の営みが挙がっています。
          「哲学は最も幸福で、最も快い」というようなことを言っています。
          これをわたしは、「ほら見ろ、哲学者が、哲学するのが一番幸せとか我田引水してるぞ!」と茶化したわけです。
          なので、アリストテレスにがっかりする必要はないです。

          それと「観想・仕事・労働」みたいな区分って、アリストテレスはしてないと思うんですよ。(ちょっと明言できませんが)
          アーレントの『人間の条件』で有名になった区分ですけど、アリストテレスがニコマコス倫理学で言ってるのは
          「快楽の生」「名誉の生」「観想の生」みたいな区分ですね。
          なので、現代的な私たちの理解での「仕事と労働」の区別をアリストテレスに求めるのは少し違うかもしれませんね。(うーん、勉強になります)

          神についてですが『形而上学』では第一原因とも呼ばれますね。
          神をどうするかでギリシア哲学が困ったということは、あんまりないかもしれないですね。
          プラトンなんかは「神はケンカしない」とか言って、神の再定義を始めてますし、
          アリストテレスも第一原因としての神を「不動の動者」と定義しています。(ニコマコス倫理学ではそれほど深くは追求してない)
          このような言葉や論理における営みは、非常に尊い価値があると思うのですよ。
          論理を重ねて真実を探ろうとするのが、哲学の営みであるわけですからね。
          「人間は理性的動物である」なんていわれますけど、これは言い換えれば
          「人間は自らの理性に反することを許容できない性質をもつ」とも言えます。
          ようは「2+3」で「5」以外の答えを受け入れることができない性質。
          「理性的存在者としての自負」なんて言えますけど。
          この理性的存在者としての人間のあり方を突き詰めようとしたのが哲学です。
          これはアリストテレスの思い描いていたことでもあるはずです。
          神に関しても、この理性的存在としての神の追求方法がある。
          それは哲学がずっとやってきたことです。
          「神がくると哲学は困る」みたいなことは、現代哲学では知りませんが、ギリシア哲学ではあまりないと思います。
          むしろ「神のごとき、不死なる存在に自らを似せる営み」が哲学でした。

          色々話が飛び飛びですみません。
          徳に関しては、東洋と西洋とでは全く違いそうですね。きっとおっしゃるとおりです。
          なので、東洋の「徳」には全く考慮していません。(そもそもよく知らない……)
          極端に言えば「たまたま同じ言葉に翻訳されただけ」と見なすこともあります。

          マルクスは偉大だと思うので、勉強したいと思っていますが、まったく専門的にも集中的にも学んでいません。
          もっと知っていたら、賢くなれそうで良かったのですが。お役に立てず面目ありません。

          アリストテレスのこと、わたしももっと勉強したくなりますね~。ありがとうございます。

          • さすが高等遊民 さんですね 最後の「マルクスは偉大だと思うので、」までは、全くあっぱれな返信でおみそれいたしましたm(_ _)m
             よく長文で返信して頂きありがとうございます 結論からいってしまうとアリストテレスを追及する場合 この「観想の生」などという所作は完全な瞑想の世界ですよ 瞑想という技術を使いどこまでも自分の潜在意識を下降させて思考のルーツを探る作業をしていることが簡単にみてとれますね
            ただマルクスだけは気をつけないといけませんよ 自分は断言します あれは政治的作為があり作られた思想であると それについては https://ameblo.jp/jcurrent/entry-12173753748.html これをみてください

             これからも哲学を追及されるなら 実存主義のハイデッガーは 晩年にインドのウパニシャッドやヴェーダ哲学に出会い もっと若い頃にこの哲学をしることができたなら・・・ともらしたあります
            西洋哲学だけでなく日本の太古神道並びにインド哲学、中国の老荘思想 このあたりも追及されるといいとおもいます 西洋でも優れた哲学とは 必ず 非物質的世界の分析を怠っていないものが本物といえるでしょうね
            (*^^*)「キャッチ―な理解を狙ったわたしの解釈です」このあたりにうとくてすみませんね
            これからも哲学の要所要所で迷うことがありましたら遊びにきますのでよろしくです
            ちなみに私は 自称:瞑想家です よかったら このページだけはみておいてください https://holism.amebaownd.com/posts/2915994
            それではおつきあい頂きありがとうございますm(_ _)m

            • jcurrentさま
              こちらこそ、長大で温かで、真摯なコメントをくださいまして、まことにありがとうございました。
              東洋思想は興味を持ってはいますが、なかなかきっかけがつかめません。
              高等遊民を名乗る以上、東洋の事物にも詳しくなりたいので、そのうち学んでいきたいと思います。
              キャッチ―とギャグ重視の「ゆるネタ哲学・文学ブログ」ですが、これからもよろしくお願い致します。

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