三浦しをんという現代女流作家の『舟を編む』(2011、光文社)を読みました。
やや古い小説で、アニメ化・映画化もして、読んでいない人のほうが少ないかもしれません。
私もはじめに読んだのは2012年。
これがおもしろかったのです。
本屋大賞を受賞した作品。
高等遊民は、とにかく
- 新しいもの
- 世間に受けているもの
この2つが好きではない人種なのです。
だけど、『舟を編む』はおもしろかった。
250頁ほどの小説で、マンガみたいにすぱすぱ読めます。
その感想や、読みどころをご紹介します。
特に、辞書や言葉に興味がある人は、読むと絶対に楽しめます。
興味ない人は、興味を持ってしまいます。なので、読むと絶対に楽しめます。
下記クリックで好きな項目に移動
三浦しをん『舟を編む』のあらすじと感想(ネタバレあり)
国語辞書をつくろうとする出版社の社員の話です。
このような例えが作品中に出てきます。これがタイトルの意味です。
その「舟である辞書を編纂する」から「編む」。
あなたは「右」を説明できるか? 言葉に対する感性を磨け!
私が感じた限りの範囲で、作者から受け取ったメッセージの1つ。
それは「言葉に対する感性を磨いてほしい」ということです。
そうすることで、自分の思いや気持ちを正確にとらえることができるようになる。
これは他人に対しても同じで、他人の気持ちや思いを汲み取ることもできるようになる。
- 言葉は自分や他人を傷つけることも勇気付けることもできる。
- 言葉が人間の人生や歴史を記憶する。
- だからこそ、言葉に関心をもってほしい。
このようなメッセージを受け取りました。
たとえば、方向としての「右」を説明するのにどう言いますか?
当然「右」という言葉を使って説明してはなりません。
たとえば「右とは、左の反対である」という説明はどうでしょう?
これでは説明になっていないというか、納得いきません。
広辞苑だったかな。
- 「石」を「小さい岩」
- 「岩」を「大きい石」
と定義してあって、度肝を抜かれました。
結局、まったくの無内容なのです。
「石も岩も知らない人はいないだろう」
このような態度で、辞書定義されているのです。
こんな人をくったような定義は、ダメです(笑)
では「右とは、箸を持つ手の側である」。
これでは左利きを無視することになってしまいます。
実際に主人公はどう定義したか?
それは、お楽しみ。
まあ、右の定義は、ささいなことです。
でも言葉の定義は、もっと重要なことにかかわる。
三浦しをんさんは、このことを具体例で指摘します。
たとえば同性を好きになってしまった中学生。
彼または彼女が「恋」という言葉を辞書で引いたらどうなるでしょう?
プッチモニだって、恋という字は辞書を引くのです。
その辞書に「異性を慕うこと」と出ていたら――?
その子は、自分の感情を「恋」と表現することが、許されなくなってしまう。
非常に、印象的なエピソードでした。
辞書作りは、欧米では国家プロジェクト。日本では民間プロジェクト
辞書作りの工程や、それに関わる人たちの話が、詳しく取材されていました。
ここは非常におもしろかった部分です。
ご存知でしょうか? 日本最大の国語辞典といえば?
それは、小学館より発刊されている『日本国語大辞典』(現在第二版)です。全20巻。
これは世界最大の英語辞典であるOxford English Dictionary(通称OED)に匹敵するボリュームです。
小学館も「OEDに肩を並べる辞書だぜ!」と自認しています。
しかし、大きな違いが1つあります。
それは「その浩瀚な辞書作りで、誰が金を出しているのか?」ということ。
OEDは、国立大学から出版する、国も補助金を出す辞書です。
辞書なんか儲からないですよ、本当に。
OEDは、初版が19世紀に出版されました。古い辞書です。
その初版以来、黒字になったことが一度もない!!
お金だけで考えれば、毎回大赤字です。
それでも発刊を続けているわけです。
ということは、言葉がその国の象徴であり、威信をかけるものである。
イギリス政府および国民が、このような認識を共有しているということでs。
一方わが国といえば、『舟を編む』によれば、辞書作りに全く金を出しません。
すべて出版社あるいは個人の私費で作っているそうです。
わたくし高等遊民は、ここに「文化性の差」を見出しました。
地域によって文化には、当然差異がある。
しかし、それぞれの文化間に優劣はない。というのが定説です。
しかし、日本は後世のことを何も考えていない文化じゃないか。
そう、やるせない気持ちになりかけました。
ところが三浦しをんさんは、全く別の観点を持ち込んできたのです。
「政府が金を出さない、それはそれでよかった」と。
「え、なぜ?」わたくしは疑問に思いました。
というのも、国に援助を受けると、辞書の中身について国から干渉される恐れがある。
三浦しをんは登場人物に、次のように言わせます。
まさに宇宙の始まりがカオスであったとされるように。
言葉とは、「とらえた」と思ったら飛び立つような、手の届かない存在である。
つまり、言葉の本質とは闇であり、自由である。
だから、辞書づくりとは、それに携わる人間が、自らの知力の限りを尽くして、真摯に取り組むべき事業である。
国家や権力にとって都合がいいように、言葉が規定されてはならないのだ。
当時電車の中で『舟を編む』を読んでいたわたくし。
この記述には、あまりにも衝撃でした。
電車の中で目玉が飛び出てしまって、あわててすくいあげてしまうほどでした。
とはいえ、本当にそうなっているのか?
たとえばOEDでそのような言葉の定義に対する国家干渉の例が見られるのか?
調べてみたいところです。国家ぐるみで純粋に取り組むなんて美しい姿が見られるかもしれません。
三浦しをんさんの『舟を編む』。
ベストセラーですが、とてもおもしろい本でした。
ぜひ、文庫を見つけたら、読んでみてくださいね。