2018年7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。ご存じですか?
「潜伏キリシタンのことは歴史で習っただけでよく分からない…」というそこのあなた!
実は潜伏キリシタンについての作品が有名な作家がいるんです。
その人の名前は遠藤周作です。
今「遠藤周作って誰?」とか「名前は聞いたことあるけれど、作品は読んだことない」と思った人に、今回の記事で
- 遠藤周作の生い立ちとは?
- 遠藤周作の経歴と代表作は?
- エピソードからみる遠藤周作の性格とは?
を紹介します。
こちらを読めば、遠藤周作の生い立ちや経歴、作品、性格が分かります。一見難しそうに思える作品を楽しめるようにもなります。もちろん、遠藤周作のことや作品を知っている人ももっと深く遠藤周作のことを知ることができます。ぜひご覧ください。
※この投稿は寄稿文です。
遠藤周作の生い立ちとは?
遠藤周作は大正末期から平成まで生きた作家です。
具体的には
- 1923(大正12)年3月27日に東京都で誕生
- 1996(平成8)年9月29日に亡くなる
73年の人生でした。
昔の作家というイメージが強い人ですが、わりと最近まで現役の作家をしていた人だったんですね。実際、専門家の間でも芥川龍之介の作品と似ている点を取り上げられることが多いため、そのようなイメージになったのでしょう。
遠藤周作は東京都で生まれましたが、父親の仕事の都合で3歳の時に満州へ移住します。
しかし、遠藤周作が10歳の時に両親の仲が悪くなって離婚し、2歳年上の兄と母と共に神戸の叔母(母の妹)の家に身を寄せます。
この叔母との同居をきっかけに、遠藤周作はキリスト教と出会います。
当時、遠藤親子は居候の身であり、生活は窮屈で叔母夫婦に気をつかわなければならないものでした。
そのため叔母夫婦は
- 熱心なカトリック教徒(キリスト教徒)であった
- そのため、遠藤周作と兄を連れて教会に通った
- その影響で母が正式なカトリック教徒(キリスト教徒)になり、遠藤周作も12歳の時に兄と共に正式な信者となる
ほど影響を与えました。
カトリック教徒(キリスト教徒)とは何なのでしょう?現代日本人にはあまり馴染みがないですよね。
そういう人も、イエス・キリストの名前は聞いたことがあると思います。
イエス・キリストは簡単に言うと、神の教えをキリスト教という宗教としてまとめ、人々に教えていった人です。
神の教えと言っても、
- 嘘はつくな
- 泥棒はするな
- 欲張りな人になるな
- 自分が間違ったことをしたら、それを認めて反省しなさい
- 弱い人を見下さず、苦しみを共有しなさい
など、人間が他の人と生きる上で大事にしないといけないことばかりです。むしろ「倫理」や「道徳」とも言い換えられるような当たり前の内容です。
イエス・キリストが神の教えを人々に説いたのは、紀元30年頃です。
その後、約2千年の間にキリスト教は
- ヨーロッパを中心に広がった
- イエス・キリストの教えを元に人々が様々な解釈をして、たくさんの宗派が生まれた
- 現代では世界三大宗教の一つと言われるほど信者が増えた
など、世界史には欠かせない宗教になっています。
つまり、学生の方は歴史のテストに必ず出てくるような言葉なので、この機会に言葉と内容をぜひ覚えてください!
話が脱線しましたが、カトリックとはこのキリスト教の中の宗派の一つです。
同じ仏教の中でも禅宗や日蓮宗、浄土真宗など、お互いに違う教えを解く派閥があるように、キリスト教の中の派閥の一つだと考えると分かりやすいです。
このカトリックの信仰内容の特徴を簡単にまとめると、
- イエス・キリストは神を父親に持つ「神の子」である
- イエスの母である聖母マリアは処女で「神の子」を身籠った「神に選ばれた女性」である
- カトリックのトップはニュースなどでもよく耳にするローマ法王である
- 神は人間も自然も超えた「絶対で唯一の神」のみである
などが挙げられます。
神の教えの内容はともかく、これらの特徴はやっぱり現代日本人には馴染みにくい教えだと感じる人が多いと思います。
しかし、遠藤周作が正式にカトリック教徒となったのは12歳の時です。
12歳の子どもがこれらを全部分かった上で、自分が信じる宗教を変えたのでしょうか?
違いますね。
遠藤周作の当時の環境を考えて少し想像しただけでも、母と叔母夫婦に半ば強制されたのだろうと誰でも思いつきます。
たぶん本人は、訳が分からないうちにカトリック教徒にいつの間にかなっていたと感じたことでしょう。
この頃の遠藤周作は、
- 優秀な兄と違って学校の成績はあまり良くなく、コンプレックスを抱えていた
- 唯一作文だけが得意で、初めて作った詩や作文が新聞に載るほどだった
- 母は遠藤周作が創る物語をよく褒めていた
など、勉学にコンプレックスを抱えながらも母親の愛情に包まれていた子どもでした。
しかし同時に、
- 母親から押し付けられた信仰
- 父親がいない家庭で、カトリック教徒として厳格に育てられた
ことから母親への反発心も生まれていきます。
遠藤周作がこの頃に抱いた母への愛と反発心は、後の彼の作品に大きく影響を与えることになります。
旧制灘中学校を卒業した15歳の遠藤周作は
- 受験に失敗し、3年間の浪人生活を経て上智大学予科甲類に入学する
- しかしカトリックの大学である上智大学での生活は、母への反発心を抱えたままの遠藤周作には居心地が悪いだった。
- 結局、翌年に上智大学を退学し、東京に住んでいた父親の家に移る
そして父親は慶應義塾大学を受験する遠藤周作に、医学部に入学することを期待します。
しかし遠藤周作が受験をして合格したのは、慶應義塾大学文学部予科でした。
しかも父親に内緒で入学したのです。
おそらく遠藤周作は、東京に出てまで親の考え方を強制されたくなかったのでしょう。
しかし、大胆なことをしますね~。
そのことを隠し通せるはずもなく、入学した同年に文学部に入学したことが父親にばれます。
当然ですが、父親は激怒します。
しかも、遠藤周作を勘当してしまうのです。
それをきっかけに父の家に居られなくなった遠藤周作は、カトリック哲学者である吉満義彦が監督するカトリック学生寮に入ります。
遠藤周作が慶應義塾大学に入学したのは、1943(昭和18)年です。
この頃、日本は
- 太平洋戦争の最中であった
- 天皇を「現人神」(神様が人間の姿としてこの世に現れたのが天皇)という信仰を国民に教育していた
- キリスト教は敵国の宗教と見なされた
- そのため、キリスト教徒だというだけで「敵国のスパイ」ではないかと疑われて、官憲(当時の警察)に監視された
- 実際、キリスト教徒の人を「スパイ」や「反戦思想の持ち主」として官憲が逮捕した事例がある
など、キリスト教を信仰するだけでも危険なことに巻き込まれる可能性が高い状況でした。
遠藤周作自身は、
- 病気を患ったため、徴兵には召集されなかった
- フランス文学者であった佐藤朔に影響を受け、現代カトリック文学に関心を持つ
- 一方で、欧米の宗教であるキリスト教を信仰することの苦悩を抱える
など、日本人でありながら他国の宗教を、しかも母親に強制されて反発心さえ覚える宗教と信者である自分との関係に強い矛盾を感じます。
しかし、12歳から信者でありすっかり自分の考え方に染みついてしまったキリスト教を棄てることは、遠藤周作にとっては難しい事でした。
そのため、遠藤周作はキリスト教と自分との関係を自分なりに見つめ直すことに決めます。それは一生をかけた課題で、彼の作品の主なテーマとなりました。
遠藤周作の経歴と代表作は?
さて、自身とキリスト教との関係に悩んだ遠藤周作は、24歳になる1947(昭和22)年に初めての作品を書きます。
それはエッセイ『神々と神と』であり、ロシア文学者の神西清が編集をしていた雑誌『四季』に掲載されます。
このエッセイを皮切りにして、遠藤周作は作品を発表していきます。
さらに遠藤周作は1950(昭和25)年、27歳の時に終戦後初の留学生としてフランスのリヨン大学大学院に留学します。
その頃には既に遠藤周作の文才が周りに認められていたようです。それも留学生に選ばれる程なんてすごいことですよね。
遠藤周作が留学したフランスは、国民のほとんどがカトリック教徒という国です。そこで彼は、
- 人間と自然の上に唯一の「絶対神」を置く欧米のキリスト教文化に直に触れる
- カトリック作家であるモーリヤックやジュリアン・グリーン、グレアム・グリーンを愛読する
- 特にグレアム・グリーンの影響を強く受け、その影響は後の時代に「日本のグレアム・グリーン」と呼ばれる下地となった
- ナチの拷問や黒ミサが行われた場所を見て、人間の中の「悪」に衝撃を受ける
という経験をします。
30歳で帰国した遠藤周作は、32歳の時に結婚し、同年に作品『白い人』で芥川賞を受賞します。
さらに、34歳の時に作品『海と海藻』で新潮社文学賞や毎日出版文化賞などを受賞します。
順風満帆な作家人生ですね~。
そして1959(昭和34)年、36歳の時に初めてキリスト教を描いた小説『最後の殉教者』を執筆します。
小説の題材としたのは長崎の隠れキリシタンです。
隠れキリシタンとは何なのでしょうか?
簡単に歴史を説明します。
日本にキリスト教が伝来したのは1549年で、キリスト教を伝来させた人物は皆さんご存じのフランシスコ・ザビエルです。日本史では結構有名人ですね。
- フランシスコ・ザビエルはキリスト教の中でもカトリックの宣教師だった
- 当時、貿易の拠点であった長崎を中心に布教活動を行った
- キリスト教は生まれ変わりの考え方を持たず、神を信仰すれば死後に天国で救われると説いたため、貧しい農民や貧民を中心に信者を増やしていった
- 大名や武士の一部も、貿易を通して利益を得るためのきっかけとしてキリスト教に改宗した
ここまでは主に織田信長が天下を取ろうとしていた時代の話でした。
日本では外国の珍しい品物が重宝され、貿易から利益を得るためにキリスト教の布教が認められていました。
- 当時はカトリックの教えしか日本に入っておらず、宗派の区別などありません。
- キリスト教の信者たちはまとめて「キリシタン」と呼ばれました。
- しかし、豊臣秀吉が天下人となった1585年以降に状況が一変します。
- キリスト教が広まった欧米以外の国は、後に欧米に攻められて植民地にされているという世界情勢を秀吉が知ってしまいます。
キリスト教が広まることに危機感を抱いた秀吉は、キリスト教を信仰することを禁止します。
具体的には、
- 宣教師を外国に追放し、日本に留まるようなら処刑するかキリスト教を棄てさせるために拷問する
- キリスト教徒の日本人をあぶりだすために、キリストの絵が書かれた絵である「踏み絵」を踏ませる(キリスト教徒だと踏むことを拒むため、この方法が使われた)
- キリスト教徒だと判明した日本人には拷問で仏教への改宗を迫る
- 改宗を受け入れない場合は様々な方法で処刑する
- 踏み絵は年に1回は村単位で行われ、役人が村人全員に行うことを強制した
などの政策が取られました。
豊臣秀吉が亡くなり、江戸幕府が成立した後も禁教政策は続けられます。
- 当然、信者や宣教師はこうした政策に反発します。
- 実際に1637年には、長崎と天草で約2万人のキリシタンが幕府に反発して一揆を起こしました。
- これが有名な「島原・天草の乱」です。
しかし一揆は成功せず、反対に一揆に加担したキリシタンたちは幕府軍によって皆殺しにされてしまいます。
- キリシタンへの弾圧もさらに厳しくなりました。
- 貿易もカトリックの国ではない中国とオランダのみとしか出来ない「鎖国」政策が取られます。
- こうした状況の中、当時のキリシタンたちは幕府に従ってキリスト教への信仰を棄てることはしませんでした。
密かに、隠れて信仰を守ったのです。それも宗教の指導者がいない状態で、信仰の自由が保障されるまで約250年間もの間です。
どうやって信仰を守ったのかというと、
- 全ての家が寺の檀家にならなければいけない寺檀制度を幕府が決めると、キリシタンを集団で匿ってくれるお寺を見つけて檀家に登録してもらった
- ラテン語と古い日本語を組み合わせて、仏教のお経のように聞こえる祈りの言葉「オラショ」を作って唱えた
- 観音菩薩像に似せた聖母マリア像を作り、像の後ろにこっそり十字架をつけた「マリア観音」を作った
- 役人がこっそり家の中を伺いながらキリシタンかどうかを調べる時があったため、マリア観音に手を合わせた姿をわざと見せてごまかした
- マリア観音に手を合わせる時には、右手と左手の親指を組み合わせてこっそりと十字架を作り、キリスト教の祈りの時に使われるロザリオの代わりにした
- 人里離れた山の中に小さな神社や岩などの目印を作り、集まって祈りを捧げた
- 正式なキリシタンになるために必要な儀式「洗礼」を、宣教師がいない状態でも独自の方法で行った
- 親族の一部に殉教者が出た家は、「誰が、どこで、どうやって見つかって処刑されたのか」という記録を口伝えで残した
- 以上のことをまとめて子孫に伝えていった
という方法を取っていました。
仏教徒のふりをしながら隠れてキリスト教を信仰していたため、彼らは自分たちのことを「隠れキリシタン」と呼んでいました。
- ちなみに個人的な話になるのですが、私自身が隠れキリシタンの子孫で上に書いたことには私の実家で今も行われていることが入っています。
- 信仰の自由が許された後でも、教会に属せず先祖代々の信仰を守ることを選んだ隠れキリシタンの子孫は今でもいます。
- というか、一部の家の伝統のようなものになっている感覚です。
私も歴史なんて知らないし文字も読めなかったような小さい時から、殉教者(キリシタンだったために拷問され処刑された人)である先祖の話を聞かされたり、オラショを覚えさせられたり(しばらく唱えてないので多分忘れかけてます)、両手の親指で十字架を作るように言い聞かされたりしていました。
自分用に仏教の数珠もキリスト教のロザリオも当たり前のように持たされていましたが、それはよく考えると一般的なことではありませんでした。
隠れキリシタンの子孫たちはそれと同じような家庭環境で、キリスト教の信仰を先祖からの伝統として受け継いでいた節があります。
今は別の場所に住んでいますが、私の実家があった所も遠藤周作作品の舞台となった場所の一つです。
- 周りに住んでいた同年代の友だちも、先祖からの伝統としてキリスト教の信仰を受け継いでいる感覚でした。
- つまり隠れキリシタンの子孫たちのほとんどは、自分たちが隠れキリシタンであることを伝統の一部としていたのです。
- そのため約250年間もの間、宗教上の指導者がいない状態で、多くの信者が残っていたと言われています。
実は、1865年に長崎で宣教師が隠れキリシタンを見つけた時には、キリスト教国で一大事件として扱われたらしいですよ。
日本では知られてませんが…。
しかし、隠れキリシタンたちには常に一つの罪悪感がつきまとっていました。
それは踏み絵を踏むことで、自分たちが信仰する神を裏切っているという罪悪感でした。
- 本当は踏みたくない踏み絵を生きて隠れキリシタンの伝統を子孫に伝えるためには踏まなくてはいけない
- 踏み絵を踏まないといけない日には、足の裏をよく洗い、踏み絵の上にそっと足を乗せた
- 踏み絵を踏んだ日には、家族みんなでマリア観音に向かって泣いて謝った
ということが繰り返されていました。
キリシタンなのに仏教徒のふりをすることに矛盾を抱えていたのです。
そしてその矛盾を抱えた隠れキリシタンの姿に、遠藤周作は日本人なのに他国の宗教であるキリスト教の信者である自分の姿を重ね合わせたのです。
キリスト教と自分との関係を見つめ直していた遠藤周作は、隠れキリシタンの信仰をテーマにキリスト教を日本人に合う形で信仰することは出来ないかと模索しました。
その課題を突き詰めた小説が、映画にもなった小説『沈黙』です。
- キリシタンへの迫害が激しくなった時代に、日本に潜入したポルトガル人司教セバスチャン・ロドリゴが主人公
- 片言の言葉でもロドリゴは信者への教えを説き、キリスト教の儀式を行う
- しかし、密告や長崎奉行所の捜査で何度も潜伏場所を変え、最後には奉行所に捕まってしまう
- ロドリゴは同じように捕えられたキリシタンへの拷問を見聞きさせられ、キリシタンを救いたかったら踏み絵を踏むようにと迫られる
という内容です。
小説の中でロドリゴの考えに影響を与える二人の人物がいます。それは
- 脅されて自分の弱さに負け、何度も仲間を裏切って密告するキリシタンのキチジロー
- ロドリゴの恩師であり先に日本に来ていたが、ロドリゴと同じように棄教(キリスト教を棄てること)を迫られて棄教したフェレイラ
です。
キチジローは何度も仲間を売っては後悔し、ロドリゴに罪を告白することで神に許してもらおうとします。キチジローは
- 人間の弱さと悪を体現している
- 同時に残酷にもなりきれない繊細な人物
として描かれています。
一見、自分の芯がないようにしか見えませんが、人間には「善」の面も「悪」の面も同時にあるということを表す人物でもあります。
キリスト教の文学では殉教者のことが描かれることが多いですが、殉教者になりきれなかった弱い人々に遠藤周作は焦点を当てたのです。
そのような人々の行動は、大多数の人間が同じ状況下に置かれたら取るかもしれない行動でもあり、隠れキリシタンたちの姿でもあります。
一方、フェレイラは
- 日本には仏教や神道といった日本に根付く宗教がある
- キリスト教の文化で育った人間にはキリスト教で信仰される神の教えが一番良いものだと思いがちだ
- しかし、それは上から目線の押し付けではないだろうか。日本人の宗教感覚を学ばずに一方的に自分たちの宗教を広めようとするのは、本当に良いことなのだろうか
- キリスト教では、神は全ての人を慈しむと教える。それでは日本人も神に慈しまれている存在であり、日本人の宗教観も尊重すべきではないか
と、ロドリゴにキリスト教を表面的には棄教するように説得します。
フェレイラもキリスト教を表面的に棄教し、日本の仏教や神道の考え方を学んでいたからです。
日本の鎖国政策が排他的に見えるが、実はキリスト教を広めようとする側が他の宗教に対して排他的になってしまっているという見方を彼は示しています。
この二人の登場人物を通して、遠藤周作は
- 人間には善と悪の側面が誰にでもあり、どちらの行動も取ることが出来るが、不安定な存在でもあること
- 他国の宗教であるキリスト教をそのまま受け入れるのではなく、日本人の宗教観を取り入れながらキリスト教の信仰を変えていくべきではないかという問題提起
を主張したのです。
そのため『沈黙』は、西洋の考え方をそのまま受け入れていた当時のキリスト教信者からは猛反発を受けた小説でした。
長崎では発刊禁止になったそうです。
『沈黙』が発表されたのは、1966(昭和41)年で遠藤周作は43歳でした。
その頃、隠れキリシタンの子孫たちは信仰の自由が完全に保障されたことで、
- カトリック教会に属してキリスト教徒になる人
- 先祖から受け継いだ隠れキリシタンの祈りや信仰の場を守る人
- 迫害時代に匿ってくれたお寺に感謝し、正式に仏教徒になる人
など、人によって様々な道を選びました。
すると、隠れキリシタンの子孫たちの間でさらに派閥が出来てしまった時代でもあったのです。
- 遠藤周作はそれにめげることなく、日本人独自の宗教観とキリスト教が融合した宗教観を探っていきます。
- 日本人独自の宗教観を探る姿勢は、当時いさかいが起きてしまっていた隠れキリシタンの子孫たちの間を繋げるためにも必要な物でもありました。
- そのため、その後に発表された遠藤周作のキリスト教文学は、こうした隠れキリシタンの子孫たちにも次第に受け入れられていきます。
また『沈黙』を発表した後、遠藤周作は母親への愛情というものを意識し始めます。
それは
- キリスト教という信仰を自分に強制した母親へ感じていた反発心
- 自分は東京の父の家に移ったことで、母を裏切ったのではないかと抱え続けた罪悪感
- 幼い頃、信仰を押し付けられはしたが自分の良い所を見つけて伸ばしてくれた母の愛情
という遠藤周作自身の経験から意識された物です。
遠藤周作の母親が亡くなったのは、1953(昭和28)年で遠藤周作が30歳の時です。
その後も母に対して抱え続けていた複雑な心境が、『沈黙』以降の作品に影響を与えることになります。
その集大成とも言える作品が、1993(平成5)年に発表された『深い河』です。
内容は
- 妻に先立たれた磯部、結婚に失敗した美津子、童話作家の沼部、第二次世界大戦に出兵した記憶を引きずる木口、美津子の元恋人だった修道士の大津などが登場人物
- 人生に疲れ、生き方を模索する登場人物たちがインド旅行ツアーで出会う
- 五人は、ヒンズー教で生と死を表すガンジス河に行く
- 「聖にして母なる」存在であり、「永遠なるもの」を内に抱える河を見守ることで、五人の心の中に「自分の神」という存在が生まれてくる
という物語です。
「何のこと?すごい難しそうな小説!」って感じですよね。
遠藤周作がこの作品で伝えたかったことを簡単にまとめると、
- 「神」というのは宗教の枠を超えて存在する
- それは生と死を司り、人間には見ることができない大きな時の流れの中に存在する
- つまり、「神」とは人間と自然にとっての「母親」のような存在である
- 母が子を見守るように、悩みながらも自分の道を模索する人間の姿を「神」は見守っている
- 「神」は母が子に教えるように、人間に正しい道を教えることはできるが生き方を強制することはできない
- 子が自分の人生を生きることを母が望むように、「神」は人間が自分なりの生き方を見つけることを望んでいる
- 母が子を想うように、人間が生き方を見つける過程で「神」を裏切ったと感じても「神」は人間に愛情を持っている
ということです。
「神」という存在と人間との関係を、母と子に例えてとらえたのです。
そして
- 人間が「神」の教えに背いてしまったと感じたとしても、自分なりの生き方を見つけることを「神」は望んでいて、そこに宗教の違いは関係ない
- その「神」と人間との関係は、健全な人間の母と子の関係に似ている
- 誰でも自分なりの生き方を持ち、「自分の神」を持つことができる
と、遠藤周作は結論付けた訳です。
その結論は、遠藤周作が母に対して抱いていた罪悪感を昇華するための考え方でもあり、信仰の在り方でいさかいが起きていた当時の隠れキリシタンの子孫たちに与えた答えの一つでもありました。
遠藤周作が大学時代に模索し始めた自分とキリスト教との関係という視点は、自分と母との関係への答えにも繋がった訳です。
エピソードからみる遠藤周作の性格とは?
さて、以上がキリスト教文学で有名な遠藤周作の経歴と作品についてです。
「自分とキリスト教との関係、自分と母との関係を見つめ直して作品にした」作家だと聞くと、「難しい作品をたくさん書いて、真面目な人だったんだろうな~」と思ってしまいます。
しかし、遠藤周作って意外と大胆でお茶目で活動的な性格だったんですよ。
「え~!ウソ~!」と思ってしまいますね。嘘じゃないです。本当です。
だって「人間には善と悪の二つの側面があり、どちらの行動も選択できるが不安定な存在である」とか『沈黙』の中で主張した人が、真面目一辺倒な訳ないじゃないですか!
遠藤周作自身も「真面目」と「大胆」と「お茶目」と「活動的」とその他もろもろの側面があって不安定な存在だったんです!だって人間だもの!
具体的には、
- 慶應義塾大学を受験した時に、父親に内緒でこっそり文学部を受験して入学する
- 作品の中には戦時中に九州大学で行われた捕虜の生体解剖や差別を受けていたハンセン病患者をテーマにした作品があり、映画会社に映画化を依頼しても断られたがめげずに交渉し続けて映画化した話をエッセイ『周作塾』で暴露する
- 船を貸し切って読者との集いを行う
- もう一つの名前である「狐狸庵」を使って、ユーモア小説を書いていた
- 「今から新宿で撮影がある」と突然編集者を新宿のお店に連れて行き、カツラ姿の編集者を写真部所属のカメラマンに撮らせるという大がかりなイタズラを仕掛ける
という行動を取っています。
これらを総合したら
- 大胆
- 活動的
- イタズラ好きでお茶目
- 面白い話も好き
という性格になります。
真面目一辺倒に見える遠藤周作ですが、こうした性格であったと知るとなんだか身近に感じられませんか?
http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22104/20160921/kato-muneya-silence-endo-shusaku.htm
まとめ 遠藤周作の個人的おすすめ作品
遠藤種策の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
最後に遠藤周作について簡単にまとめておきますね!
- 母親に強制されてキリスト教信者になり、母への反発心があった
- 離婚した父親の家に移ったことと母への反発心で、母を裏切っている罪悪感を抱えていた
- 日本人なのに他国の宗教の信者である自分に矛盾を感じていた
- そのため、キリシタンなのに仏教徒のふりをするという矛盾を抱えていた隠れキリシタンに自分の姿を重ねて、作品のテーマにすることが多かった
- 自分とキリスト教との関係→日本人の宗教観とキリスト教をすり合わせた信仰の在り方→健全な母と子の関係に例えた「神」と人間の関係 という順番に自分の生き方の模索を重ね、最後には宗教の枠を超えた「神」の存在に行きついた
- 意外と真面目なだけではなくて、お茶目で大胆でイタズラ好きで活動的な性格だった
キリスト教と日本人の関係について書いただけではなく、「人間は『弱さ』や『罪悪感』を抱えて生きていてもいいんだよ!自分なりの生き方を見つけることが大切で、そこに宗教なんて関係ないよ!みんな『神』という大きな母親のような存在に見守られている存在なんだから!」と、新しい宗教観と人間の生き方を切り開いた人でもあり、作品を通してそのことを広めた人物でもあった訳です。
そんな遠藤周作の世界に作品を通して一度触れてみませんか?
「遠藤周作の作品を読んでみたい!」と思ったそこのあなたにお薦めの本を紹介します。
まず、注意点です。
いきなり『沈黙』や『深い河』などの長編小説は読まないで下さい。
初心者が読んだら確実に挫折します。
読む順番は、
①ユーモア小説
- 『おバカさん』(角川文庫)
- 『ヘチマくん』(角川文庫)
②エッセイ集
- 『狐狸庵閑話』(新潮文庫)
③純文学
- 『白い人・黄色い人』(新潮文庫)
- 『月光のドミナ』(新潮文庫)
- 『海と毒薬』(新潮文庫)
④長編小説
- 『沈黙』(新潮文庫)
- 『深い河』(講談社文庫)
をお薦めします。
①ユーモア小説と②エッセイ集は、遠藤周作作品の入門書として軽い気持ちで読んでいただければと思います。
③純文学からキリスト教への信仰という世界観が内容に入ってくるので、「ユーモア小説もエッセイ集も読んで、もっと遠藤周作の作品を読みたい!」と思ったら読んでみて下さい。
ユーモア小説とエッセイ集だけでも遠藤周作の世界は十分楽しめるので、「それでお腹いっぱい」という人は無理して読まなくても大丈夫です。読書は楽しんですることが一番大切ですから!
以上、「遠藤周作の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い」でした。