「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」
この句で有名な小林一茶を知らない人はいませんよね。
江戸時代の俳人であったことはご存知の方も多いはず。
なんか楽しい句を書く人ってイメージですよね。
でも、実は、結構シリアスな人だったんです!
今回は俳人小林一茶の
- 生い立ち
- 経歴と作品
- 性格が分かるエピソード
を紹介します!
こちらを読めば、小林一茶の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
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小林一茶の生い立ちは?
小林一茶は1763~1828年、江戸時代後期を生きた俳人です。
信濃国(長野県)の農家の長男として生まれました。
本名は小林弥太郎と言います。
- 実母は一茶が3歳の時に亡くなってしまいました。
- 父が再婚した継母との折り合いが悪く、長男であるにも関わらず、15歳の時に一人で江戸へ奉公に出されました。
- 実の子を心配しての父親の配慮だったのでしょうが、一茶としては父親に捨てられた思いだったでしょうね。
そこから10年間の一茶の様子は記録されていません。
一茶が再び登場するのは、25歳になった時。
二六庵竹阿(にろくあんちくあ)の門人となり、俳諧を学ぶようになりました。
師匠を得て3年後の28歳の時には、竹阿が亡くなってしまいます。
- 師匠との関係は3年間だけだったんですね。
- そして、同じ葛飾派の溝口素丸(みぞぐちそまる)に入門しました。
- 師匠が亡くなっても、まだ俳諧を学んでいく姿勢は崩さなかった一茶でした。
30代は関西・四国・九州を放浪して、俳諧修行に明け暮れました。
- 多くの物を見て聞いて、その度に俳句を詠んで・・・
- 有名な俳人って本当に放浪好きですよね。
- 放浪することで、何か見えてくるものがあるんでしょうか。
- 皆、松尾芭蕉の真似をしているのかな~?
39歳で故郷に立ち寄った一茶ですが、偶然、父が病気にかかり、必死に看病をする日々を送りました。
- しかし、一茶の看病も空しく、父は一か月後に亡くなってしまいました。
- 一茶は、自分の肉親をすべて失ったことになります。
- 残ったのは、仲の悪い継母と義弟でした。
父は自分の財産を一茶と弟で半分ずつにするよう遺言を残すのですが、弟はごねるごねる・・・
- 15歳で実家を離れた一茶には遺産を相続する権利は無いと主張し譲らないのです。
- 一旦は財産をもらうことなく江戸に帰った一茶でしたが、この遺産相続争いは、10年以上も続くことになりました。
今でも遺産相続って揉めることが多いですが、当時もこういうことがあったんですね。
義弟の言い分も分からなくはないですが、外に出ていたのは一茶が悪いわけではないのに・・・
一茶が可哀想に思えてしまいます。
父の13回忌でやっと義弟と和解。
遺産を相続することが叶い、50歳頃からは故郷で暮らすようになりました。
一茶が自分の家庭を持ったのは52歳でした。
28歳の妻、菊を迎えます。
- かなりの晩婚で、しかもお嫁さんは親子ほど年の離れた人だったんですね。
- 小さい頃から幸せな家庭に育てなかったので、幸せな家庭を築くことに強い憧れを抱いていた一茶。
- やっと、自分の家庭を持つことができましたね。
しかし、幸せはあっという間に崩れ去っていきました。
菊との間に3男1女をもうけますが、全員2歳までには亡くなってしまいました。
そして、なんと、菊も37歳の若さで病死してしまいます。
また一茶は一人ぼっちになってしまいました。
悲しすぎます。
4人も子供をもうけて、全員夭逝してしまうなんて・・・
奥さんまで死んでしまうなんて・・・
一茶は絶望にさいなまれたことでしょう。
菊が亡くなる前には、一茶自身も脳卒中で倒れてしまい、半身不随になってしまいました。
本当に不幸続きで書いているのも辛い・・・
家族への憧れを抑えることができなかったのか、一茶は62歳で再婚します。
相手は武士の娘、雪。
- またしてもかなりの年下で38歳の人でした。
- 今度こそ、幸せになってよ~と思うのですが、やはりダメ。
- 今度は結婚から数か月で離婚することになってしまいました。
武士の家出身の雪には、農民生活は合わなかったのかな~
一茶は半身不随のおじいちゃんで、俳諧に夢中だから、魅力を感じなかったにかな~
いずれにせよ、一茶の再婚はあっという間に終わりを告げてしまいました。
この再婚失敗から少しして、一茶はまた病に侵されます。
一命はとりとめたものの、今度は言語障害が残ることに・・・
半身不随に加えて言語障害までも。
どこまで神様は一茶に過酷な人生を歩ませるおつもりでしょうか。
もういいでしょうよ!と思いますが、一茶はあきらめの悪い男。
やはり、
- 幸せな家庭を築きたい!
- 自分の代で小林家を断絶させるわけにはいかない!
という強い思いもあったのでしょうか。
64歳にして3度目の結婚をしました。
やを、32歳。
やをは2歳の子連れで嫁いできました。
なんだか訳アリのようですよね。
- やっと幸せな家庭生活を送れるのか?と思っていたのですが、この結婚生活も1年ちょっとでした。
- まず、大火事という不幸に見舞われました。
- それにより家を失いました。
なんとか残った土蔵で生活をしていましたが、ついに65歳で生涯の幕を閉じることになりました。
俳人は辞世の句を詠む人が多いのですが、一茶は急死に近かったため、辞世の句は伝わっていません。
辞世の句を詠んでいなくったって、多くの句が残っているので、そこに一茶の想いはたくさん込められていますよね。
最後の最後まで精力的に俳諧指導をしていた一茶。
家を失う不幸に見舞われましたが、たった1年の結婚生活は満ち足りたものであったらいいなと願うばかりです。
- 一茶が亡くなった時、やをは一茶の子をお腹に宿していました。
- その娘は無事に育ち、婿養子をとって、小林家を継いでくれました。
- 一茶がもう少し長生きできていれば、実の娘との時間を楽しむことができたのに・・・
こう思わざるを得ませんが、家を断絶せずに済んだだけでも良しとしましょうか。
きっと、一茶も天国で喜んでいたはずですよね、うん。
一茶の人生があまりにも壮絶すぎて、生い立ちの紹介が長くなりすぎてしまいました。
皆さん、ついてこれてます?
次は、一茶の俳諧師としての活動を紹介しますね。
小林一茶の経歴と作品。代表作は?
小林一茶は、
- 松尾芭蕉
- 与謝蕪村
と並ぶ江戸時代の俳人として有名ですよね。
一茶が俳諧で有名になり始めたのは、40代の頃と遅咲きでした。
主に房総地方への俳諧行脚で生計を立てていました。
当時の俳句界は、大衆に親しまれていた一方で、低俗化してしまっていました。
そこに新たな風を吹き込んだのが一茶でした。
- 一茶調
- 化政調
と呼ばれる俳風を確立し、俳句界を盛り上げたのです。
一茶の俳風は、
- 俗語・方言などを自由に使った軽妙な表現
- 率直な人間味があふれている
- 庶民の生活感情をテーマとする
- 浪漫性は乏しい
特徴として挙げられます。
- 50代に入ると、俳諧師として全国に名が知れ渡るまでになりました。
- 全国への放浪の旅のおかげもあったことでしょう。
- 特に地元、北信濃に多くの門人を抱え、生活も安定するほどでした。
一茶の死後も俳句界で名声が落ちることはありませんでしたが、後継者が現れることもありませんでした。
一茶調は小林一茶、一代で終わることとなりました。
一発屋の芸人のよう・・・と言っては失礼すぎるでしょうか。
明治時代に正岡子規が一茶の素朴な俳句に着目したことで、再び一茶に注目が集まるようになりました。
一茶は、生涯で2万句を超える俳句を作りました。
2万句って想像がつきませんよね。
よくそんなに作れたし、そして、それが残っていましたよね。
ちなみに、
- 松尾芭蕉は1000句
- 与謝蕪村は3000句
を詠んだと言われているので、小林一茶の2万句がどれほど多いか分かりますよね。
もちろん、すべてが優れた句であったわけではありません。
駄作も多かったと言います。
一茶の俳句には
- 生活苦や人生の矛盾をついた句
- 子供や小動物を詠んだ句
が数多くあります。
俳句と言えば、花鳥風月といった自然の景色テーマにしたものが多いですよね。
しかし、一茶は、自分の経験を基にした、社会の底辺生活者へのまなざしをテーマにした句をたくさん詠みました。
ここに一茶の人生が表れているわけです。
かなり苦労の多い人生ですもんね・・・
表現方法では、
- 擬声語
- 擬態語
- 擬音語
といったオノマトペを多用していることが特徴的です。
そんな小林一茶の代表作には
- 『父の終焉日記』
- 『おらが春』
があります。
その他にもたくさんの句集があるんですが、中でも有名な二つを簡単に紹介しますね!
1.『父の終焉日記』
タイトルの通り、父の最期を看取った時の手記です。
偶然、帰省中に父が病に倒れ、最期を看取ることができた一茶。
その30日余りを日記形式で書いています。
- 日に日に弱っていく父
- 仲の悪い継母と義弟との確執
が生々しく綴られています。
出版を意識して書いているので、少し脚色もされています。
この点において、それまでの日記文学とは異なり、日本の私小説のルーツと言われています。
俳人として有名な小林一茶ですが、こんなところでも功績を残していたんですね!
2.『おらが春』
『おらが春』は一茶が故郷で過ごした57歳の一年間の出来事を詠んだ俳句を集めた俳句俳文集です。
これもまた、出版を意識して作られたもので、時系列に沿った並びになってはいません。
内容は
- 生まれたばかりの長女の死
- 自身の継子としての出自
- 浄土真宗の他力本願
- 自分という信仰への帰依
が話題の柱となっています。
- 我と来て 遊べや親の ない雀
- 雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る
- 目出度さも ちう位也 おらが春
これらはこの句集に収められているものです。
『父の終焉日記』も『おらが春』も、実は一茶の生前中には出版することができませんでした。
一茶の作品は、死後に出版されたものが多いんですよ。
- 『寛政句帖』
- 『西国紀行』
- 『七番日記』
- 『我春集』
などなど、もっと多くの作品が死後出版されました。
ちなみに、一茶が生存中に出版されたものは3つあります。
- 『たびしうゐ』
- 『さらば笠』
- 『三韓人』
です。
これらはすべて句集です。
死後に出版されたものが多いというのは、一茶は死後も人気があったことが分かりますね。
小林一茶の性格がわかる面白いエピソード
生い立ちから、小林一茶が壮絶な人生を歩んだことは容易に想像がつきます。
そんな一茶は、人一倍、弱いものへの愛情を持っていました。
例えば、
- 小動物(蛙・雀・蚤・蚊など)
- 幼い子供
を詠み込んだ作品が多くあります。
冒頭で紹介した一茶の有名な一句、
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
に登場する「やせ蛙」も弱い者です。
- 蛙は繁殖期にメスをめぐって喧嘩します。
- 痩せたひ弱な蛙はどうしても戦いに勝つことができません。
- そんな弱い蛙を見て、一茶は「負けるな!」と応援しているのです。
これは、文字通り、蛙を応援する一茶の姿と読むことはできます。
加えて、幸せな家庭を持ちたいのに、持つことができない自分への鼓舞とも読むことができます。
一茶が弱いものに寄り添うことができるのは、小さい頃からの彼を取り巻く環境が大きく影響しているからです。
人間は綺麗なもの、強い者に着目しがちですが、弱いものに強い愛情を抱くのは、自分と重ねていたからなのでしょう。
- 小さい頃からずっと、自分も愛情を注いでほしかったんですよね。
- 大人になってからも、人並の幸せな生活を送りたかったんですよね。
- 一茶の俳句からは、そんな一茶の叫びを読み取ることができます。
まとめ 小林一茶はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
小林一茶の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 小林一茶は壮絶な人生を送った
- 小林一茶は「一茶調」という俳風を確立した
- 小林一茶は2万を超える句を詠んだ
- 小林一茶は弱いものへ深い愛情を持った温かい心の持ち主だった
小林一茶の俳句は誰が読んでも分かりやすい言葉で詠まれています。
彼の人生を知っていれば、より深く俳句を楽しむことができます。
一茶の代表作をまとめて楽しむには、
- 『父の終焉日記・おらが春 他一篇』矢羽勝幸 校注
がおすすめです。
以上、「小林一茶の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。