井筒俊彦氏は語学の天才です。
語学の天才の勉強法のきっかけは何だったのか?
じつは井筒俊彦氏が司馬遼太郎氏との対談で、おとぎ話のようなイスラーム学者のエピソードを話しています。
このイスラム学者に弟子入りしたことが、天才井筒俊彦誕生のきっかけなのです。
あまりにもおもしろいので、ご紹介します。
動画でも紹介しました。
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1000ページの本を丸暗記しているイスラム学者!
井筒俊彦氏は日本の思想家。あまりにも研究領域が広いので、単純な「思想家」としか表現ができないほどです。
たとえば対談相手の司馬遼太郎氏であれば「歴史小説家」などと表現できますが、井筒氏にあっては「○○思想家」「○○学者」というのが難しい。
古代ギリシアからイスラーム、仏教、ロシア思想など守備範囲が広すぎるので、一言で表現できません。野球でいうと外野を1人で守れるような人物です(笑)
井筒氏の有名な業績のひとつに、「コーランの翻訳」があります。岩波文庫で読めます。
井筒氏が若い頃、アラビア語やイスラームの勉強のために、イスラームの学者のもとで弟子入りのような形で勉強を教えてもらっていたそうです。
そのときのお師匠さんのエピソードということで、これがとんでもない記憶力の持ち主だったそうです。
井筒氏のお師匠さんは、ムーサー・ジャールッラーハさんという方だそうです。
彼を訪ねたときの様子が語られていますので、そのまま引用してみます。
「イスラームでやる学問の本なら何でも頭に入っているから、その場でディクテーションで教えてやる」というんです。アラビア語学、アラビア文法学で『シーバワイヒの書』、ちょうどインドのパーニニみたいな古典的なものがあるんですが、それを習いたいと言ったんです。
それは約千ページぐらいのもので、ムーサー先生はその本を端から端まで暗記しているんです。暗記している上に、その注釈本を暗記して、さらに自分の意見がある。
それで、アラビア文法学を教わったんです。そのほかにも、いろいろなものをその先生に教わりましたが、なにしろ本は使わない。
全部頭に入っている。
まあ、それはあっちのほうの学問の習慣でもあるんですよね。
1000ページのアラビア文法書を端から端まで暗記していて、さらにその注釈書も暗記していて、さらに自分の意見がある。
化け物ですね。
文法書に注釈があるというのは、文法書が大昔のものなので、文法書を読むために解説がいるのです。
学者っていうのはマジでこんなことをしているんです。
その解説まで覚えて、さらに自分の意見があるというのは、これはもう並大抵のことではありません。
たとえばウェルギリウス『アエネイス』という古代ローマの叙事詩がありますが(岩波文庫で2冊)、それが何世紀か経ったあとに、セルヴィウスという学者が、全編にわたって注釈を付けています。
大学のゼミで「『アエネイス』のラテン語講読」なんてあったら、セルヴィウスの注釈書も一緒に読んでいきます。それに加えて現代の学者の注釈もいくつかあるので、適宜確認します。要するに一つの作品につき、何冊もの注釈書を並行して読みながら進めていくんです。
こんな調子なので、大学のゼミでは1冊読み終わるのに5年10年かかったりします。『アカギ』の鷲巣マージャン並みのスピードになるのも了解されるでしょう。
話が逸れました。
しかし確かに、前提となる知識が頭になければ、なにごとにも自分の意見を持つことはできないようにも思えます。
たとえば「TPPに賛成ですか? 反対ですか?」という話。
これは「TPPとは何か?」という基本的な前提を理解していなければ、賛成も反対もありませんよね。
「わからない」としか言えません。
しかも、その基本的な前提をどのように理解しているかは人それぞれ。
必ずしも共通の認識としては理解されているとは限らないのです。
それにしても、その1000ページの文法書の解説書を丸暗記とは。。。恐るべし。
「本を持たなくてもいい」と豪語するイスラーム学者
さて、こんなムーサー先生ですから、本なんかろくに持っていません。蔵書というものをしないんです。
「本を持たない学者」なんて、「苦いスイーツ」「非常に平凡な人間」のような、もう語義矛盾を冒しているようにさえ感じられます。
ムーサー先生が、若き井筒氏の部屋にやってきたときのエピソード。
「部屋に上がってもらったら、私の部屋を見回して、「おまえ、ずいぶん本を持っているな。この本、どうするんだ」
「もちろん、これで勉強する」
「火事になったらどうする?」
「火事で全部焼けちゃったらお手上げで、自分はしばらく勉強できない」といったら、それこそ呵々大笑するんです。
「なんという情けない。火事になったら勉強できないような学者なのか」と。
しばらくたってから、今度は「おまえ、旅行するときはどうして勉強するんだ」というから、あの頃、行李に入れてチッキというやつにして汽車で運んだでしょう。
「必要な本を持っていって読むんだ」といったら、「おまえみたいなのは、本箱を背負って歩く、いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」というんですよね。
われわれみたいに、ただ本を読むだけでやっとみたいなのは、学者でも何でもない。嘘みたいな話ですけれど、本当にそうなんです。
たとえばあるとき、ある本を借りてきてくれといいますから、大川周明のところから六百ページぐらいのアラビア語の本を一冊借りて持っていき、一週間ばかりたって行ってみたら、もうほとんど全部暗記してあるんです。どんなものでも一遍読んだらたいていそのまま覚えてしまうという。
その調子で、コーランと、ハディース(マホメット言行録)と、神学、哲学、法学、詩学、韻律学、文法学はもちろん、ほとんど主なテクストは、全部頭に暗記してある。だいたい千ページ以上の本が、全部頭に入ってしまっている。
それで、「おまえに、こんなことをやれとはいわないけれども、イスラームでは古来学者はどんなふうにしていたのか、知っておいてもらいたいから教えてやる。できたら、その何分の一でもいいから、真似してみるがいい」と。
もう普通の人だったら、学問に絶望してしまったと思いますね。
人間のカタツムリ。人間のカタツムリ。
例え方からして、古代世界の香りがプンプンしてきます。『アラビアンナイト』の世界のようです。
井筒氏も、ムーサー先生がどうやって頭に叩き込んでいるのか、ということまで話してくれればよかったのに、と残念でなりません。
このエピソードが収録されている本は以下。
コーランをアラビア語からちゃんと翻訳している数少ない書籍↓
井筒俊彦によるイスラーム文化入門書↓
動画でも紹介しました。